「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

(2015年8月21日 更新)

2014年度「関西クィア映画祭」の宣言文において、レズビアンに対するヘイトスピーチが行われています。

その内容の差別性について、私は再三に亘り子細な検証と指摘を行ってきました。しかし同映画祭実行委員会(代表者不在)は、支離滅裂とも言える詭弁を弄して居直るばかりであり、クィアを称する自らの政治的党派性とそれに依拠するレズビアン差別》の行使を正当化・特権化しています。

ここに私は実行委員会に対し、問題の差別的な宣言文の撤回と謝罪、および総括を要求します。

・問題の差別的な宣言文

関西クィア映画祭について http://kansai-qff.org/#about

・公開質問状とその回答

公開質問状(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141013/p1

回答(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141014/p1

公開質問状(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p1

回答(2)&公開質問状(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p1

公開質問状(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p2

回答(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p1

回答(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p2

通告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141021/p1

回答(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p1

通告(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p2

公開質問状(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141219/p1

回答(5) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141223/p1

・経過報告

報告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141224

・シンパからの反応

@lolonzlol編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p2

@isidaiori編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141101/p1

@yu_ichikawa編(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p1

@yu_ichikawa編(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p2

・総括

総括(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p1

総括(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p2

「関西クィア映画祭」実行委員会Twitterアカウント

実行委員会 @kqff_official
斬 @ZAN__
福永玄弥 @Genya_F
冨川瞳(とみー) @hitomikawa
 
(2017年10月10日 追記)

実行委員「斬(@ZAN__)」氏のアカウント名を「@__ZAN」と誤表記しておりました。謹んでお詫び申し上げます。

なお「斬(@ZAN__)」氏は一連の実行委員会との議論において実行委員会側の窓口役を務めていた人物ですが、現在、当方はこの方からブロックされています(ちなみにメールでのやり取りのみで、Twitter上での絡みはいっさいありません)。

過去の日付の記事をアップしました。

2018年5月12日付で、以下の記事を公開しました。

 『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/2018/05/12/000000

昨日公開した『【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」 』の続きになります。

 

過去の日付の記事をアップしました。

先日、コミケ前で行われたという山田太郎議員の演説に際して、「BL/百合」の否定・排除は《LGBT差別》とは無関係という意見が目につきます。

そこで、ずいぶん前に書いたものの発表のタイミングを逸してお蔵入り状態になっていた記事を今更アップしました。

今年の4月ごろにTwitterで話題になった「オタク差別」なる言葉をめぐる議論です。

【 #オタク差別 論争】「百合/BL」は「性的嗜好」であるから規制されるべきと主張する「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」 - 有限ノ未来 limited future

https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/2018/08/13/140224

日付は、記事の作成が完了した「2018年4月22日」に設定しました。その後、別の話題の記事を公開し、過去ログに埋もれるような形となってしまいましたので、新規エントリーにて告知させていただきます。

結論からいうと、もちろん“安易な混同”はすべきではありませんが、実際の「BL/百合」に対するバッシングの大半は「同性愛は“キモい”から(マンガの中でも)見たくない」といった単純なホモフォビアに立脚しているので、まったく無関係と断じることもまた“安易”で“粗雑”な切断にすぎないということです。

「BL/百合」バッシングの“大半”がホモフォビアによるもので、じゃあ残りはどうなんだ? というと、もう少し頭の回る人は「現実の同性愛者」は認めるのだとしながら、同性愛者への「性的消費」に反対しているだけだと言い訳します(上掲記事で取り上げた「まなざしかぶとむし(社虫太郎)」もそのタイプ)。でも、それなら異性愛者を「性的消費」するのは構わないのか? という話になるだけなので、やっぱり頭が悪いことに変わりないですね。

 

「男のレズビアン」を擁護する牧村朝子氏の論点ずらし(+百合魔王オッシーの牧村朝子氏に対する所感)

「男のレズビアンをめぐる前回の記事の続きである。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪にすぎない - 有限ノ未来 limited future

そも牧村朝子氏が自身のブログで「男のレズビアン」について取り上げたのは、先月の下旬にTwitter上で「男のレズビアン」が話題になったのを受けてのことである(私のTLにも流れてきたが、議論を追っていないので発端はわからない)。

しかし牧村氏の記事は、じつのところ巧妙に論点をずらしている。

記事のタイトルには『胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち』とある。だが当然ながら「男のレズビアン」が物議を醸しだしたのは、それを《胸のうちでそっと思う》にとどめず、SNS上で公言する人物が存在したからである。

言い換えるなら「男のレズビアン」なる観念の是非をめぐる議論は、次の二点に集約される。

・「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非

・「男のレズビアン」なる観念の社会的認知・承認についての是非

《「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非》はさておき《胸のうちでそっと思う》ことまで否定するのは、さすがに内心の自由の侵害であると考える人も多いだろう。しかし前述のとおり内心の自由を認めることは、その思想や嗜好自体の正当性をまったく意味しない。

また上掲した二点はゆるやかに独立しながらも、「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得るにあたってはその正当性を証し立てる必要があるのだから、じつのところ論点は一つという見方もできる。

ところが牧村氏は、そこへ《胸のうちでそっと思う》ことの是非というまったく無関係な第三の論点を勝手に持ち出してきた。

言い換えるなら、牧村氏は「男のレズビアン」の不当性を主張する人々が、さも内心の自由まで否定しているかのように印象操作しているのである。

内心の自由をめぐっても是非はあるだろうが、たとえ差別的・暴力的な思想や嗜好であろうと《胸のうちでそっと思う》かぎりは問題ない、というか周りの知ったことではないので勝手にすればいいとする見方が一般的だろう。つまり牧村氏は「男のレズビアン」を擁護するにあたり、そのように否定されようのない事柄を盾にすることで「男のレズビアン」を擁護する牧村氏自身を否定されようのない立場に置き、第三者の批判をあらかじめ退けようとしているのである。

ようするに牧村氏にとって「男のレズビアン」自体の正当性すらそのじつどうでもよく、たんに牧村氏自身の承認欲求を満たすために「男のレズビアン」を“ダシにしている”にすぎないのだ。

このような牧村氏の論点ずらしは「男のレズビアン」に否定的な人々に対してはもちろん、当の「男のレズビアン」にとってもきわめて不誠実と言わざるをえない。なぜならば「男のレズビアン」自体の正当性を証し立てないかぎり「男のレズビアン」は内心の範疇に制限され、社会的な認知・承認まで得ることはありえないからだ。つまり牧村氏の議論は「男のレズビアン」を擁護しているかのように見せかけて、そのじつ当の牧村氏自身の承認欲求を満たすことにしか役に立たない。

男性が「レズビアン」を名乗ること、つまり《胸のうちでそっと思う》にとどめず社会的認知・承認までも要求する行為は、言い換えるならレズビアン女性」に対して、男性である自分を「レズビアン」として認めろ、受け容れろと迫る行為だ。これによって「レズビアン女性」は「男のレズビアン」を受容しないかぎり、「男のレズビアン」を“差別”する差別者として糾弾・恫喝に晒される事態に陥る。

だが本来は女性のジェンダーアイデンティティに基づく概念である「レズビアン」を男性が名乗ることは、まさしく男性によるレズビアンアイデンティティの侵犯であり、簒奪に他ならない。ゆえにそれはけっきょくのところ、男性異性愛者が「レズビアン女性」に性欲を向けることの受容を当の「レズビアン女性」に求めることと本質的に変わらない。

繰り返すが、男性が女性を愛することが「異性愛」である以上、シスジェンダー男性の性自認に基づく「男のレズビアン」が「同性愛者」として“差別”されることなどありえない。つまり「男のレズビアン」なる語義矛盾を肯定するのであれば、同性愛者嫌悪と異性愛至上主義に基づく《レズビアン差別》の構造について告発・批判することが不可能となる。

ゆえに「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得たところで「レズビアン女性」の社会的認知・承認には何ら繋がらない。否、それどころかレズビアン」のありようが「異性愛者」に都合良く定義されることにより、ひいては「レズビアン」に対して「男のレズビアン」を含めた〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを要求・期待する行為が正当化される事態を抑止することもできない。

* * *

さて当ブログではこれまで、上に見たような牧村朝子氏による巧妙かつ陰険な「レズビアン・バッシング」の事例の数々について折に触れて検証してきた。

しかし誤解しないでいただきたいが、私はなにも牧村氏の揚げ足を取るために牧村氏の言動を逐次チェックしているわけではない。牧村氏のマスメディアにおける発言は、Twitter上のリツイート機能で流れてきた記事をたまたま目にするだけであり、そして目にした記事の大半は、まさしく上に見たようなフワフワ・キラキラとした文体を装いながらそのじつ「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見を撒き散らすものばかり、というのが実情なのだ。

周知のとおり牧村朝子氏は、かつて「レズビアン・タレント」という肩書でマスメディアに登場していた人物である。だが、現在は「レズビアン」と名乗ることをやめている(ついでに芸能事務所も辞めているので「タレント」と呼べるかも微妙である)。牧村氏によると、自分で自分に「レズビアン」などのレッテルを貼ることで、自分自身の可能性を閉ざしてしまうというのがその理由なのだそうだ。レズビアンアイデンティティの獲得を“レッテル貼り”などと決めつけること自体が、まさしく「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見に他ならないのだけれど、牧村氏がどのようなセクシュアリティをもとうと私の知ったことではない。

翻って私は、ハンドルネームに明らかであるとおり百合作品を嗜好する男性異性愛者である。そのような立場の者が「レズビアン当事者(では現在の牧村氏はないのだが)」の言説を批判することは、男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニングである、などと見なされなかねない。

だが牧村氏の一連の言説はいずれも、これまで見てきたとおり(また上掲の記事にも明らかなとおり)印象操作や論点ずらしなどのごく初歩的な詭弁術を駆使したものであり、その論理的誤謬を指摘するにあたって男女の性差を持ち出す必要はないはずだ。

げんに牧村氏自身、「レズビアン」を名乗っていた頃から自分は「レズビアン」である以前に「人間」なのだ、という話をよくしていた。そも「人間」のアイデンティティである「レズビアン」を、わざわざ「人間」と二項対立に置くこともありがちな詭弁であるが、いくらセクシュアリティが自己申告であるとはいえ、自分に都合の良い時だけ「レズビアン」としての当事者性を持ち出すのは論者としての誠実さを自ら貶めるに等しい。

「(元)レズビアン当事者」としての立場から「レズビアン」を論じる牧村氏の言説が、なぜこうも常に“外して”しまうのかといえば、けっきょくのところ牧村氏には《レズビアン差別》を批判するという意識がなく、ただ「(元)タレント」として、マジョリティである異性愛者(非同性愛者)に都合の良い言葉を忖度する習性が身についているためであろう。

そも牧村氏に言わせると、差別主義者を罵倒・嘲笑することは「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」になるというのだから、もはや《レズビアン差別》を批判する以前の問題であり、むしろ牧村朝子氏は実質的に《レズビアン差別》を容認する立場の人物と捉えて差し支えない。

「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5) - 有限ノ未来 limited future

だから牧村氏には「レズビアン」の主体性(アイデンティティ)を尊重する意識もなく、「レズビアン」が男性を愛することは“可能”であるかとか、男性が「レズビアン」になることは“可能”であるかといった、じつに非人間的な「可能性基準」の思考に陥ってしまうのである。

いずれにしても牧村氏が「(元)レズビアン当事者」であることを理由に、自身の「レズビアン」に対する蔑視と偏見の告発・批判を免れるのであれば――あるいは私が「百合萌え」の男性異性愛者であることを理由に、牧村氏の言説の差別性に対する告発・批判が無効化されるのであれば、それは《レズビアン差別》を容認する体の良い口実にすぎない。

だから私が牧村朝子氏を批判することが《男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニング》であるように見えるとしても、それは錯覚であり皮相な印象批判でしかない。

が、それでも人情として印象が良くなることに越したことはない。そこで、当ブログの人名表記は原則として敬称略であるが、本記事以降、牧村朝子「氏」にかぎっては、例外的に敬称を付けることにした次第である。

追記 以上のとおり、私は「男のレズビアン」に対して否定的な見解をもつ男であるが、その私がTwitter上で「百合魔王」を自称していることについて論理矛盾と捉える向きもあるかもしれない。

しかし、そも「百合」は「レズビアン」を指す言葉ではない。正確にいうと、七〇年代後半にゲイ雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學が《ゲイ=薔薇族》に対応して作った「レズビアン」の呼称は百合族である。

二一世紀の今日、「百合」という呼称はもっぱらマンガなどのオタク・カルチャーにおいて、女性キャラクター同士の恋愛を描く作品を示すものとして用いられ、新宿二丁目などの「レズビアン当事者」のコミュニティを指す「Lカルチャー」とは一線を画している。げんに百合作品の多くに「レズビアン(のアイデンティティを有する女性)」のキャラクターは登場しない。

また「Lカルチャー」が「レズビアン当事者」の当事者性に根差す文化であるのに対し、「百合」という表現自体は「女性」のジェンダーに立脚しながら、百合作品の作者および消費者は〈男/女〉双方にまたがっていて、明確に“誰のもの”と規定することはできない。

一部では「女性向けの百合」「男性向けの百合」などと線引きしようとする向きもあるけれど、そも百合作家の多くはペンネームを用いており性別すら不明である中で、そのような二項対立的分類は非実際的かつ無効であり、ようは自分の気に食わない「百合」の表現に“男性向け”とレッテルを貼って排除したいというユーザーのエゴイズムにすぎない。

話は逸れたが、いずれにしても「百合」は「レズビアン当事者」の当事者性とは無関係であり、ゆえに“レズビアンのもの”ではない以上、男性である私が「百合魔王」を称することは《レズビアンアイデンティティの簒奪》にはなりえないのである。

「魔王」とは偉そうだ、何様だ、という批判はあろうけれど、ファンタジーやRPGの世界では「魔王」という職業(?)自体が「男性」のジェンダーとして認知されており、男性が「百合魔王」を名乗ることはあくまでも「男の百合萌え」以上の意味をもたないと私は考えている。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアン・アイデンティティの簒奪にすぎない

(2018年7月13日 追記

Malesbian……メイレズビアン

男性を意味するmaleと、レズビアンとをくっつけた言葉だ。DIVAでの説明文はちょっと悲しいことになっている。「自分で自分をレズビアンだと思っている、無害だけどちょっぴりブキミなストレート男性」。これは、掲載先がレズビアンバイセクシュアル女性向けの雑誌であり、「男子禁制よ☆」みたいなノリで書かれているからこういう表現なんだろうけど……それにしたって、ブキミ、って言い方は失礼なんじゃないかなあ。

まあ、わからなくもない。レズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅すヤカラなどにつけ狙われてきた人のトラウマを思えば、ブキミ、と書いてしまった気持ちも想像できることはできる。けれど。そういう男どもの存在がゆえに、さらに「ぼくはレズビアンだ」と言い出しづらくなっている……むしろそういう男どもと自分とが同性であるということを受け止めたくなくて「ぼくはレズビアンだ」と言いたくなっているのかもしれない、レズビアンを自称する男の人たちの話を、今回はしたい。ちゃんと、したい。

ググっても出てこない、彼女にも言えない、ただ胸のうちでそっと「ぼくたちはレズビアンだ」と想像して恋をする彼ら。彼らを「メイレズビアン」という名前でレズビアンとは別にくくることを、わたし個人は、あえてしないでおこうと思う。むしろ、「レズビアン」という言葉が誰のものなのか、あらためて過去を振り返り、考えたいのだ。「男がレズビアンになれるわけないでしょ!」なんて、顔をしかめる前に。

胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち(牧村朝子)|ハッピーエンドに殺されない

https://cakes.mu/posts/20962

牧村朝子による上掲の記事は期間限定で無料公開されていたというが、さきほど私が目にした時点ではすでに期間を過ぎていたため、どのように結ばれているのかわからない。例によって例のごとく、牧村のこうした毎度の“炎上商法”に加担するつもりはないので、課金もしたくない。

しかし牧村の結論がどうあろうと、私の論旨は表題のとおりである。

そも「男のレズビアンというのは、クィア理論の古典的なレトリックの一つだ。

クィア理論においては、レズビアンが「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを獲得すること自体が、レズビアンでない人々を排除したり、またレズビアンでない人々にレズビアンアイデンティティを強制する行為として糾弾の対象とされている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ - 有限ノ未来 limited future

そこへきて「男のレズビアン」という言葉は、レズビアンアイデンティティを“攪乱”するための手段として「レズビアン」という概念を本来の定義である女性としてのジェンダーアイデンティティから切断し、概念自体の無効化を狙うものである。

ちなみに私が「男のレズビアン」という言葉を初めて知ったのは、2005年にナツメ社から出版された『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一石田仁/海老原暁子 ナツメ社))という本の中の「クィア」の項目である(文中では「レズビアンの男」と記載)。

もっとも「レズビアン」という概念の定義がどうあれ、実際の「レズビアン当事者」の中には実質的なFtMトランスジェンダーであったり、ジェンダーアイデンティティが曖昧であるという人も存在する。しかしそうした個別の事例を理由に概念の定義を否定するのは詭弁である。そも性自認が“曖昧”であるのと、明確な「シスジェンダー男性」としてのアイデンティティに依拠しているのとでは、まったく意味が異なってくる(もしそうでないなら、シスジェンダー男性とトランスジェンダー男性が対等の立場であるというおかしな話になってしまう)

元より「レズビアン」という概念は、女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学を可視化するために存在する概念だ。

裏を返せばレズビアン」の概念を否定すること、あるいは概念の定義を曲解することは、まさに《女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学》に対する告発・批判を無効化し、《レズビアン差別》を正当化するための算段に他ならない。

ようするにレズビアン」という言葉をなくそうとする試みは、「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する行為を正当化するための算段にすぎないということだ。

牧村は「レズビアン」という言葉の成り立ちについて歴史的観点から考察しており、それはそれで読み物として興味深いものの、しかしいずれにしても「男のレズビアン」なる観念の擁護を目的としている時点で、やはりその前提にはレズビアンアイデンティティを否定する思想が横たわっているように思えてならない。

ただし牧村は、読者の気を引くために、あるいは自分の“言いたいこと”をもっともらしく見せかけるために事実を捻じ曲げて書くというひじょうに厄介な癖があるので、じゅうぶん注意が必要である。

「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判 - 有限ノ未来 limited future

今回の件にかぎらず、牧村がマスメディア上で「レズビアン」に対して(かつては「レズビアン・タレント」として注目を集めたという“当事者性”を利用しながら)否定的な言説を撒き散らしてきたことは当ブログで検証してきたとおりである。 

詳細は記事上部の「牧村朝子」タグをクリックしていただきたいが、とりあえず直近のものとしてはこのようなものがある。

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて - 有限ノ未来 limited future

じっさい男性の異性愛者が「わたしはレズビアンだ」と表明したところで、それこそ“ブキミ”なやつだと思われることはあっても、「レズビアン女性」に対するような迫害を受けることはない。なぜなら男性異性愛者が女性を愛することは「異性愛」にすぎず、また異性愛者」である以上は《男性(同性)を愛すること》を社会から要求されることもありえないからだ。

それこそがまさに男性の特権であり、また男性がそうした男性としての社会的・政治的特権性に依拠しながら「わたしは『男のレズビアン』だ」と主張することは、どのように言い繕っても、男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪に他ならない。

換言すれば《レズビアン差別》の問題とは、すなわちそのような〈異性愛者/同性愛者〉および〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性を指すのであり、「男のレズビアン」を称する男性が“善人”であるか“悪人”であるかといったことは何の関係もない。

ましてや「差別」を行使する者が“善人”であるからといって「差別」の行使が正当化されたり、あるいは「差別」の行使に対する告発・批判を免れるなどということがあってはならない。

このようなことは本来であれば言わずもがなであるけれど、「差別」という社会構造の問題を、善悪という「倫理」の問題に摩り替えるレトリックは、牧村にかぎらず「差別」を擁護する者たちの常套句であるため(上掲した牧村の「フロイト擁護」に際してもその詭弁が用いられている)、あえて付言しておく。

ゆえに、それは直接的・身体的暴力性を伴わずともレズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅す》行為と本質的・構造的に違いがない。なぜならレズビアン」の定義に「男性」を含めることは「レズビアン女性」に対して《「男性(=男のレズビアン)」を愛すること》の要求を可能とするレトリックであるからだ。

したがって、男性としてのジェンダーアイデンティティを有する人の中に「女性的な部分(女の心)」がありうるのだとしても、そうしたありようを「男のレズビアン」という語彙で言い表すことはまったくの別問題である。ましてや男性が「レズビアン」を名乗ることは、男性が「百合」を嗜むこととか「もし自分がレズビアンだったら」と空想(妄想)することとは、何の関係もない。

あるいは牧村の表題にあるとおり《胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う》こと自体は自由であると言えるかもしれない。だが、それはナチズムや小児性愛などといった、いかなる差別的・暴力的な欲望であってもそれらを対外的に表明しない(胸の内でそっと思う)かぎりは自由であるという話でしかない。

クィア理論に基づく「男のレズビアン」という観念がレズビアンアイデンティティの否定を目的としている以上、男性が「レズビアン」を名乗る行為は「レズビアン女性」との連帯を意味しない(そも「レズビアン女性」の側は男性との連帯など求めていない)

むしろそのような試みは「レズビアン」という概念・用語を“無意味化”することで、ようするにレズビアン」を「レズビアン」でなくするという意味であり、ゆえに「レズビアン女性」から“言葉を奪う”結果にしかなりえないのである。

「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはない~『あさがおと加瀬さん。』をめぐるホモフォビア言説の表出

(2018年6月8日 追記)

原作を読んだ際の印象について訊かれた高橋は「オーディションを受けるときに原作を拝読したんですが、百合作品と聞いていましたが、読み終わったあとは、人と人との恋愛ですごく素敵な話だなと感じました」と語った。

あさがおと加瀬さん。』、6月9日公開!完成披露上映会を開催|マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20180518-632434/

同性愛を題材にした作品が話題になるたび、メディア上で《これは同性愛ではなく、普遍的な「人間愛」を描いたものだ》といった類の陳腐な言説が溢れ返る事態に、私はほとほと嫌気がさしている。

なおアニメの中で「百合ップル」を演じた高橋未奈美佐倉綾音は後日、バイセクシュアルを公表している女性アイドルの最上もかと鼎談を行ったが、その中でも高橋と佐倉は次のような発言をしている。

高橋 女の子同士の恋愛だったなってことを忘れさせてくれるくらい普通に恋をしてて。私、少女マンガが大好きなんですが、百合も同じ恋愛マンガなんだなって気付かされましたね。

佐倉 すごくわかります。彼女たちって普通に恋をしているんですよね。相手が女の子とか関係なく。(攻略)

高橋 私も友達に女の子同士のカップルがいたので、違和感みたいなものはないですね。「実は付き合ってるんだ」って言われて、普通に「おめでとう!」って。それに人を好きになるって、その人のことを好きになるってことだと思うので、性別とか関係ないのかなって思いますし。ただ幸せになってほしいなと思うだけですね。

佐倉 (前略)これぐらいの年代の女の子って恋と友情って曖昧じゃないですか? 友達に対しての距離感とか。

 劇場OVAあさがおと加瀬さん。」特集、高橋未奈美 × 佐倉綾音 × 最上もが座談会&フォトギャラリー|「ただまっすぐに恋してる」女子高生同士の恋愛を女性3人はどう観る?
https://natalie.mu/comic/pp/asagaotokasesan02

 《「性別」ではなく「その人」を好きになるのだ》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》といったクリシェ(決まり文句)も、主に異性愛者が「同性愛(者)」に“理解”を示す上で用いられるものだ。加えて《私も友達に女の子同士のカップルがいた》などと身の回りの「当時者」をダシにして自分に差別意識がないことをアピールするのは《俺には黒人の友達がいる(I have black frends)》と呼ばれる古典的なレトリックである。

しかし「性別(女性であること)」もまた「その人」のアイデンティティの一つであるのに、その事実をありのままに受け止めようとしない時点で、けっきょくは「同性愛(女性同士の「恋愛」の成立)」を否定していることに変わりはないのだ。

その意味で《恋と友情って曖昧》と解釈すること――ましてそれを「これぐらいの年代の女の子」に特化・限定することは、『あさがおと加瀬さん。』に表現される女性同士の「恋愛」を「友情(非恋愛)」で希釈し、将来的には《真性恋愛》と規定される「異性愛」に至るまでの《擬似恋愛》に貶める意味をもつ。

そも女性キャラクターのみで人間関係がほぼ完結する、明らかに「女性」というジェンダーアイデンティティを前提として人為的に構築された世界観で《性別とか関係ない》などといわれても、しらじらしいだけである。

また「女性」のジェンダーアイデンティティをめぐっては、最上が次のような発言をしている。

最上 僕、最近すごく実感したのが、やっぱり男性と女性って違う生き物なんだなって。もう脳が違うというか、思考回路が全然違う。なんというか、根本的に理解できないことってあると思うんですよね。女の子同士のほうが理解し合えることって多いですよ。

佐倉 女性ならではの経験ってありますもんね。そういう部分を最初から共有できているというのは大きいかもしれない。

高橋 男だからとか女だから、みたいな言い訳もできないし。

佐倉 性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違いって話ですからね。そこまで突き詰めて考えられるのも、百合作品というか同性同士ならではだなと思います。

最上はバイセクシュアル当事者の立場から《男性と女性って違う生き物》《女の子同士のほうが理解し合える》として男女の性差を強調しているのに対し、非当事者である高橋はその流れを無視してまったく無関係に《男だからとか女だから、みたいな言い訳もできない》と横槍を入れ、それを佐倉が《性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違い》と追認する。

鼎談を通して和やかな雰囲気でありながら、そのじつ会話として成り立っておらず、「当時者」の言葉を理解しようともしない「非当事者」の頑なな姿勢が伝わってくる。そも《人間としての考え方や価値観》とは何だろうか?

 もっともその意味では、仮に《女性ならではの考え方や価値観》が存在するとしても、それはすべての「女性」が“共有”できる「考え方や価値観」ではなく、まして女性同士であるからといって誰もが“理解し合える”わけではないという非情な現実を、この噛み合わない会話が図らずも示していると言える。

そも、これが男女の恋愛を表現する作品であれば、異性を愛することと「その人」を愛することの両立を、多くの人は自明のものとして受け入れる。ところが女性同士(あるいは男同士)の関係性になったとたん、本来であれば自明であるはずの「性別」と「人間」の結びつきがなしくずしに解体されてしまうのである。

女性同士の恋愛の表現について、男女の恋愛を表現する《少女マンガと同じ普通の恋》であるとうそぶきながら、そういう当人たちこそが「百合」に対して男女の恋愛と異なる“異常”な扱いをしているという論理矛盾が浮き彫りとなっている。

* * *

いちおうお断りしておくと、こうした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」は原作の『加瀬さん。』シリーズの世界観や表現とは何の関係もなく、読者・観客や評論家、アニメの出演者などといった外野から一方的にもたらされる解釈である。

さらに言えば、なにもオタクカルチャー(百合/BL)に限定した話ですらない。じじつ同年四月末に日本でも公開され、男性の同性愛を美しく描いた作品として高い評価を受けた洋画『君の名前で僕を呼んで』でも、ルカ・グァダニーノ監督自ら次のような見解を表明している。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」

君の名前で僕を呼んでルカ・グァダニーノ監督インタビュー|i-D
https://i-d.vice.com/jp/article/vbxk4d/luca-guadagnino-call-me-by-your-name-director-interview

 作品のテーマや登場人物のセクシュアリティを表すのに「百合」や「ゲイ・ロマンス」といった語彙を用いることが“レッテル貼り”に繋がるという発想は、じつのところ現実の人間に対して「同性愛(者)」という言葉を用いてはならず、一人の「人間」として扱うべきだという、まさしく“政治的”なイデオロギーに立脚する。その意味で、むしろ監督こそ「彼の欲望」を《社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけ》ていると言える。

元より「同性愛」とは、たとえばわたしは〈女性〉であるという自認をもつキャラクターが、他の〈女性〉に恋愛感情ないし性欲を抱いた場合に成立する“関係性”であり、その意味ではたしかに“欲望”それ自体を表す概念ではない。

「同性愛」という“関係性”と、恋愛感情ないし性欲という“欲望”は、それぞれ別次元の事象であるが、しかしだからこそ両立するのである。「ゲイ・ロマンス」なるものが《あまりにも強く純粋な欲望》を表現することができないというのは、それこそ監督自身の「ゲイ・ロマンス」さらには「ゲイ」という存在自体に対する偏見と蔑視の表明にすぎない。

あるいは「ゲイ・ロマンス」に対する偏見と蔑視が、そのじつ「ゲイ」という存在に対する偏見と蔑視の敷衍に他ならない事実は、監督自身が《それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じ》であるとして愚直に証明しており、したがって「ゲイ・ロマンス」に対する否定的感情が現実の「ゲイ当事者」に向けられたものではないという(日本国内では主として「BL/腐女子」へのバッシングの正当化に用いられる)屁理屈も通用しない。

そも「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはないにもかかわらず、「同性愛」と「人間愛」をあたかも排他的な二項対立の関係性に設定する前提自体がおかしいのだ。

あるいは『あさがおと加瀬さん。』を通して、そのような当たり前の真実に目覚めたというなら、ようはそれまで同性愛者をまともに人間として扱わず、化け物じみた《変態》と決めつけていたことの証左であろう。

せめてそのようなホモフォビア(同性愛者嫌悪)を少しでも反省するのかと思いきや、けっきょくは自分とたまたま波長の合った特定の作品を「百合作品」の定義から手前勝手に分断し、「百合作品」および「同性愛(者)」に対する自分自身の凝り固まった偏見と蔑視をさらに強化してしまう。

* * *

もっとも《百合作品と聞いていましたが(中略)人と人との恋愛》といった物言いは一つのクリシェ(決まり文句)でしかなく、考えなしの発言であっても、とくに《同性愛者差別》を目的としたものではないとする見方もあるだろう。まさに、それ自体がヘイトスピーチの正当化を目的としたクリシェでしかないのだけれど、次の発言を見るかぎりでは、少なくともその根底に根深いホモフォビア(同性愛者嫌悪)が存在する事実は疑いようもないのではないか。

作品の魅力について、高橋は「この映画を、デートムービーとして見てもらいたい。百合作品を観るのではなく、デートをする時に観る映画としてお勧めしたい」と言うと、佐倉は「相当良い雰囲気になってしまいますからね!」と便乗し、木戸も「付き合いますよ!」とアピールした。

佐倉綾音、男性だらけの客席へ人生初のブーケトス 狙った女子高生に届かず謝罪 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2111596/full/

百合作品がヒットしたとたん「百合作品」であること自体を否定されるというパラドックスは、かつては『マリア様がみてる』や『青い花』、近年では『やがて君になる』に対しても見受けられた現象である。

ある作品が「百合」と解釈ないし分類されることによって間口が狭まることになり、「百合」に興味のない“一般の”観客を遠ざけてしまうというのが否定派の言い分だ。

しかし、それこそ「百合」が嫌悪されるべきものであるという当人のホモフォビアを露呈しているにすぎない。マジョリティである男女のラブロマンスなど古今東西ありふれているのだから、女性同士の恋愛にかえって興味を覚えるという人だっているだろう。“普遍的”であるといえば聞こえはいいが、裏を返せばありきたりで型にはまった退屈な作品であるという見方もできる。

元より、そのことと女性同士の恋愛およびその表現に《変態》というレッテルを貼りつけることは別問題である。「ノーマル/アブノーマル」の枠組みはたんなる価値判断ではなく、人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定する異性愛至上主義の政治的イデオロギーに他ならないからだ。

じつのところ、特定の作品を「百合」と解釈ないし分類すること自体が、作品の可能性を狭めるのではない。「百合」を一方的に嫌悪されるべきものと決めつけた上で、解釈の可能性から体良く切り捨てようとする当人の差別意識こそが、逆に「百合作品」および「同性愛(者)」に卑小な“枠”を押しつけている。

言うなれば“枠”は「百合作品」および「同性愛(者)」の側にあるのではなく、当人の差別意識の内側にこそ存在するのだ。

そも恋愛というプライベートな関係性において“普遍性”なる観点を持ち込むことにいったい何の価値があるだろうか? 愛の形は“普遍的”であるどころか、性的な事柄を含めて当人たちにしかわからない作法やこだわりが千差万別に存在するはずだ。

さらに言えば恋愛に“普遍性”を要求する思考は、まさしく人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定した上で(あるいは人間のセクシュアリティに「本質(※「本能」とも呼ばれる)」が存在するという思い込みに立脚した上で)、《生殖》に結びつかないセクシュアリティを《変態》として排除・抑圧する異性愛至上主義の最たるものだ。

とはいえ現実社会において「同性愛者」の存在がマイノリティである以上、同性愛をテーマにした娯楽フィクションもやはりマイノリティとならざるをえないのかもしれない。表現という行為がアニメや映画といった商業メディアと密接に結びついている以上、収益が見込めない(売れない、カネにならない)コンテンツは価値がないという烙印を押されてしまう。

しかし観客の間口を狭めるのがいけないというなら、たとえばバスケットボールをテーマにした『スラムダンク』はバスケのルールを知らなければ楽しめないので、バスケに興味のない観客やスポーツが嫌いな観客の存在をあらかじめ排除していることになる。それにもかかわらず「百合作品」に対してだけ文句をつけるのは、やはり女性同士の恋愛(同性愛)が本質的に嫌悪されるべき《変態》であるというホモフォビア(同性愛者嫌悪)を前提としているためであろう。

あまつさえ『あさがおと加瀬さん。』を《百合作品“ではなく”デートムービーと言い張るに至っては、もはや“間口”うんぬんさえ口実にすぎず、自身の出演作に対して自身の嫌悪する「百合(同性愛)」の解釈を認めたくないというエゴイスティックな差別意識があからさまだ。かねてよりアニメ業界においては若い女性の声優をアイドル視する風潮があるけれど(おそらく本稿も、そのような「信者たち」によって“炎上”させられることは間違いない)、主演とはいえいち出演者にすぎない声優に、なぜ作品のテーマ性や世界観を規定(あるいは否定)してしまえるほどの権限が委ねられているのか、いち観客にすぎない私にはさっぱりわからない。 

追記 『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』などを手掛けたアニメ監督の谷口悟朗が「週プレNEWS」内でアニメ業界の“幼児性”を指摘している。谷口によると、今や女性声優はアイドル化されているためシビアなアドバイスもできず(ダメ出しされると気分が落ち込んでその後のイベント出演などに差し障りがあるため、事務所が抗議してくるのだとか)、「セックス」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるのだという。
アニメ映画『あさがおと加瀬さん。』には原作どおり女性キャラクター同士の「セックス」のシーンは出てこないものの、同様に「百合」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるようだ。とくに高橋未奈美 の一連の発言からは「百合作品」に出演することが自身の「アイドル」としてのイメージダウンにつながりかねないという忌避感と、その“幼稚性”が如実に表れている。

幼稚性はここまできた…「コードギアス」監督がアニメ業界に警鐘http://wpb.shueisha.co.jp/2018/06/07/105837/

それにしても「百合作品」の解釈を頭ごなしに否定しながら、その代わりに出てくるのが「デートムービー」とは……あまりにも唐突で、どのような理路に基づいてそのような解釈が飛び出てきたのか記事を読んでもちんぷんかんぷんだが、さも特定の恋愛関係にあるパートナーのいない人はこの映画を楽しむ資格がないと言い放つに等しく、じつに排他的で“間口を狭める”発言である。

誰と映画を観ようと、あるいは一人で観に来ようと人の勝手ではないか。いや、それ以前にどのような映画の観方をしようと観客の自由であって、いち出演者である声優に私たち観客が指図される筋合いはないはずだ。

なお、当日のイベントでは高橋ら出演声優による「ブーケトス」も行われたとのことだが、この趣向もいただけない。

上掲した彼女たちの発言、そして何よりも日本国内において未だ同性婚が法制化されていない現状を鑑みれば、「女の子に結婚してほしい」といってもその相手はあらかじめ〈異性(男性)〉に限定されていて、〈同性(女性)〉との結婚など想定すらされていないのだろう。わざわざ百合作品の映画を観に来たのに、そのような異性愛至上主義を押しつけられたのではたまったものではない。

 

『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

(2018年8月25日 加筆修正)

merryhachi『立花館To Lieあんぐる』は一迅社の百合漫画専門誌「コミック百合姫」の連載作品であり、4月からTOKYO MXにてアニメ版が放映されている。百合マンガの中でもわりと“性的”な要素の強い作品で、謳い文句にある「ラッキースケベ」「ハーレム」といった、従来は男女物のラブコメディに特有とされてきた趣向を女性キャラクター同士の恋愛関係に置き換えるという実験的な試みが注目を集めている。きわどい下ネタやお色気シーンを絡めながら、いずれも寸止めにとどまるためポルノグラフィ(成人向けコミック)には分類されない。

コミックスは現時点で第6巻まで出ており、PCゲームやドラマCDなどの付録によるお得感も手伝って百合ファンの間では知名度の高い作品であるけれど、世間一般にまで浸透しているとは言い難い。しかるに上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」も、いわゆる「百合物」であることを含めた作品自体の特性を踏まえたものではなく、たんに「萌え絵」というだけで脊椎反射した結果と解釈できなくもない。

だが「萌え絵」だから「キモい」という理屈は筋が通らない。なぜならまなざしかぶとむしが推していた『聲の形』にも「萌え絵」が採用されており、とくにヒロイン【硝子】の内股でヒョコヒョコと歩くなよなよとした仕草やはにかんだ表情、非現実的なピンク色の髪などは、まさにステレオタイプな「萌えキャラ」のテンプレートを踏襲したものであるからだ。加えて寡黙(重度の聴覚障害者なのだから当然だが)で何を考えているかわからない神秘的な人物造形は、一昔前の言葉でいうなら典型的な「綾波系」であり、男性異性愛者の庇護欲と表裏一体の加虐嗜好を煽り立てる効果を上げている。

また『聲の形』は作品のテーマとして障害の他にイジメ問題も絡めており、被害者である【硝子】が加害者であった主人公の少年【将也】と恋愛関係に至るという御都合主義的な筋書きから、Twitter上で「感動ポルノ」であるという批判がなされていた。

しかし一方で、作品に心酔する「信者」たちが、作品について批判的な意見や感想を述べる者を過剰に敵視し、感情的な罵倒や吊し上げといったネットリンチに興じていたのも事実であり、まなざしかぶとむしもそうした「信者」の一人である。 

聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか|Togetter 

 https://togetter.com/li/1027520

かく言う私もまた、一連の論争で「感動ポルノ」という言葉を用いたことで「信者」から誹謗中傷を受けた。ただしそれは作品自体の評論・批判を目的としたものではなく、むしろ「信者」たちに対しての“皮肉”“嫌味”“当てこすり”として述べたまでだ。

イジメをテーマにしたマンガに感動しただの心洗われただのと称する者たちが、自分と異なる考え方や価値観をもつ者に対して、まさしく「イジメ」を行っているのはまったく皮肉としか言い様がないし、そうした有様こそまさしく「キモオタ」そのものではないか。

ちなみに、そのような『聲の形』の「ファン」を通り越した、幼稚で傍迷惑な「信者」を指して、私は「聲豚」という言葉を造り、一般の「ファン」から区別している。

少し脱線したが、ようするに「萌え絵」も「感動ポルノ」もそれ自体がジャンルとして確立されているはずもなく、そも明確な定義すら存在しない。ゆえに立花館To Lieあんぐる』の「萌え=キモさ」をあげつらうまなざしかぶとむしが、一方で『聲の形』の「萌え=キモさ」には目を瞑り、あげく擁護の論陣まで張るという見苦しいダブルスタンダードが横行する事態となる。

なお例によって、まなざしかぶとむしによる一連の暴言・暴論を「オタク差別」に牽強付会する向きもあるようだが、そうしたアクロバティックな論法を持ち出すまでもなく、そも「性」の表現自体を一概に有害と決めつけて公共の場から排除しようとする発想自体が、《生殖》に結びつかない「性」のありようを否定する異性愛至上主義に立脚したものであり、まさしく「性差別」以外の何物でもない。

その意味で、まなざしかぶとむしが「萌え絵」全体を攻撃するという体を装いながらも、そのじつ女性同士の恋愛を表現する『立花館To Lieあんぐる』を選択的に攻撃する一方で男女の恋愛を表現する『聲の形』を贔屓するという非対称は、まさしく「セックスフォビア(性嫌悪)」が「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」と同根の異性愛至上主義に依拠した感性である事実を、図らずも裏付ける証左と言えるかもしれない。

前回のエントリーでも述べたとおり「萌え」と「エロ(性的要素)」を同一視する発想がまず粗雑かつ短絡的であるし、また「萌え絵」それ自体はたんなるマンガの絵柄の流行にすぎず、なんら価値判断の対象となりうるものではない。また「性的嗜好」の中には小児性愛(ロリペド)やリョナ(エログロ)のように性差別・性暴力の構造と密接な関係にあるケースも含まれているが、かといって《性的嗜好=性差別・性暴力》であるなどと短絡することもできない。

もっともポルノグラフィにおいては、ユーザーの「性的嗜好」に応じた多様なジャンルが用意されている一方、性差別的・性暴力的な内容のものとそうでないものが明確に区別されているわけではなく、したがってゾーニングに際してはやむをえず一律的に対応せざるをえないのが現状である(よって私自身は、なにもポルノのあらゆる規制を撤廃せよと唱えているわけではなく、またコンビニにエロ本が置かれているような状況をよしとする者でもないことを付言しておく)。

しかし言うまでもなく「ポルノ」とカテゴライズされる作品でなくとも性差別的・性暴力的な内容のものは巷に氾濫しており、またそれらはポルノグラフィでないがゆえにゾーニングもできない。よって嫌なら見るなというお決まりの理屈も通用しない。

その意味で、仮に特定の「萌えマンガ」が狭義の「ポルノ」ではないとしても、そのこと自体が作品の“健全性”を示す何らの根拠にもなりえない。だが、そこへきて「萌え絵」だけを執拗にあげつらう態度は、「萌え絵」というわかりやすい記号がスケープゴートとされることによって、けっきょくのところ「萌え文化」に属さない一般作品における性差別・性暴力の表現が免罪されるという逆説を生み出すに留まるだろう。

それでも「萌え」が「性的消費」の構造と結びつくというのであれば、「キモい」などという「暴言」「悪口」こそ「イジメ」の構造に結びつく。「性欲」という感情の表明・表現が“性的”であるという理由で抑圧されるべきであるというなら、「キモい」という感情もまた“暴力的”であるから抑圧されるべきではないのか。

あるいは“暴力的”であるという理由でむやみに表現を否定するべきでないなら、たんに“性的”であるというだけの理由で表現を規制するべきでもない。

しかし、いずれにしても『立花館To Lieあんぐる』には一般的な意味での性差別・性暴力に相当する描写はいっさい登場しない(ゆえに、そこでフィクションの「百合」が現実の「レズビアン」への「性的消費」であるといった無理筋の屁理屈が必要とされることになる)。

しいて言えば、少し前に少年コミック誌のラブコメ漫画をきっかけにフェミニストの間で「ラッキースケベ」なる趣向の“暴力性”が取り沙汰されたこともあったけれど、上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」にそのようないわゆるPC(ポリコレ)的論点はいっさいなく、ただ「萌え絵」であるがゆえに「キモい」とする論理もへったくれもない原始的な感情が吐露されているだけである。

ところであるていどネットの知識に長けた人には周知の事実であるが、ネット上の広告は、アドツールがユーザーの関心を分析した上で個別に応じた情報を自動表示するように出来ている。すなわち「萌え絵」を嫌悪するまなざしかぶとむしのTLに「萌え広告」が流れてくるのは、まさしく「萌え絵」に執着するまなざしかぶとむしの世界観を反映しているにすぎない。

そのような「萌えオタク」の一人でしかないまなざしかぶとむしだが、(かつて私が「聲豚」という言葉を造ったように)一方で「萌え豚」という語彙を用いることで「萌えオタク」の他者化および自己特権化を図るのである。

ところで萌え豚という語だが、この種の問題絡みでオタクという語を使うのは無駄と逃げの元なのでもうやめることを提案したい。 そもそもパブリックエネミーであるというか批判の対象となりうるのは鉄オタでもミリオタでもなければはたまたアニメオタク一般ですらなく、単に萌え豚なのだから。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/993502811571740672

(註「萌え豚」という用語の定義について)最もコンパクトには、「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現愛好を通じて社会的コンフリクトを起こしている人たち」でいいんじゃないでしょうかね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/994198304912064513

しかし 「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現」をめぐって「社会的コンフリクト」を起こすということであれば、まさにマンガの性差別表現を告発・批判するフェミニストなどにも当てはまるだろう。

そも「差別」の定義すら周知されていない現代社会においては、むしろ「社会的コンフリクト」は「差別」を告発・批判する側によってもたらされると言ってもいい。そこへきて「社会的コンフリクト」を起こす人々の存在自体を「パブリックエネミー」と位置づけるまなざしかぶとむしの議論は、むしろ性差別表現に対する告発・批判の無効化ないし萎縮に繋がる可能性が高い。

また先ごろの「百合展」に対してフェミニストの多くが、それこそ《特にこれといって反対の形を取らなかった》ことを鑑みても、「二次元の女性表現」およびそれを“愛好”するユーザーの存在自体を「パブリックエネミー」と規定するまなざしかぶとむしの議論は、じつのところフェミニズムを始めとした昨今の反差別をめぐる議論においてもまったく共有されていない「暴論」でしかない事実を、ここで確認しておく必要がある。

だいたいフェミニストを含めた世間の大多数は「萌え絵」ごときにいちいち目くじらを立てたりしないし、仮に目の前を流れてきたところで何の印象も感情もないまま通り過ぎていくだけであろう。そこをいくと「萌え絵」に異様な敵愾心を示し、あまつさえその自己正当化に当たって「イジメ」まで容認しだす(※前回のエントリーを参照)まなざしかぶとむしもまた、しょせんは裏返しの「萌え豚」なのだ。

そんなまなざしかぶとむしが「萌え絵」を露悪的にバッシングするのは、ひとえにそのような言動によって溜飲を下げる「萌えフォビア」「セックスフォビア」の連中の歓心を買うための自己アピールでしかない。

だが、そうした浅ましいまなざしかぶとむしの被承認欲求のために皺寄せを受けるのは、まさに性的アイデンティティの表明・表現を“性的”であるという理由でマジョリティから抑圧され、さらにはそのような「性差別」に対する告発も“暴力的”であるとして無効化される「性的マイノリティ」に他ならないのだ。