「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

(2015年8月21日 更新)

2014年度「関西クィア映画祭」の宣言文において、レズビアンに対するヘイトスピーチが行われています。

その内容の差別性について、私は再三に亘り子細な検証と指摘を行ってきました。しかし同映画祭実行委員会(代表者不在)は、支離滅裂とも言える詭弁を弄して居直るばかりであり、クィアを称する自らの政治的党派性とそれに依拠するレズビアン差別》の行使を正当化・特権化しています。

ここに私は実行委員会に対し、問題の差別的な宣言文の撤回と謝罪、および総括を要求します。

・問題の差別的な宣言文

関西クィア映画祭について http://kansai-qff.org/#about

・公開質問状とその回答

公開質問状(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141013/p1

回答(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141014/p1

公開質問状(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p1

回答(2)&公開質問状(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p1

公開質問状(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p2

回答(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p1

回答(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p2

通告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141021/p1

回答(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p1

通告(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p2

公開質問状(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141219/p1

回答(5) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141223/p1

・経過報告

報告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141224

・シンパからの反応

@lolonzlol編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p2

@isidaiori編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141101/p1

@yu_ichikawa編(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p1

@yu_ichikawa編(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p2

・総括

総括(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p1

総括(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p2

「関西クィア映画祭」実行委員会Twitterアカウント

実行委員会 @kqff_official
斬 @ZAN__
福永玄弥 @Genya_F
冨川瞳(とみー) @hitomikawa
 
(2017年10月10日 追記)

実行委員「斬(@ZAN__)」氏のアカウント名を「@__ZAN」と誤表記しておりました。謹んでお詫び申し上げます。

なお「斬(@ZAN__)」氏は一連の実行委員会との議論において実行委員会側の窓口役を務めていた人物ですが、現在、当方はこの方からブロックされています(ちなみにメールでのやり取りのみで、Twitter上での絡みはいっさいありません)。

「男のレズビアン」を擁護する牧村朝子氏の論点ずらし(+百合魔王オッシーの牧村朝子氏に対する所感)

「男のレズビアンをめぐる前回の記事の続きである。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪にすぎない - 有限ノ未来 limited future

そも牧村朝子氏が自身のブログで「男のレズビアン」について取り上げたのは、先月の下旬にTwitter上で「男のレズビアン」が話題になったのを受けてのことである(私のTLにも流れてきたが、議論を追っていないので発端はわからない)。

しかし牧村氏の記事は、じつのところ巧妙に論点をずらしている。

記事のタイトルには『胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち』とある。だが当然ながら「男のレズビアン」が物議を醸しだしたのは、それを《胸のうちでそっと思う》にとどめず、SNS上で公言する人物が存在したからである。

言い換えるなら「男のレズビアン」なる観念の是非をめぐる議論は、次の二点に集約される。

・「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非

・「男のレズビアン」なる観念の社会的認知・承認についての是非

《「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非》はさておき《胸のうちでそっと思う》ことまで否定するのは、さすがに内心の自由の侵害であると考える人も多いだろう。しかし前述のとおり内心の自由を認めることは、その思想や嗜好自体の正当性をまったく意味しない。

また上掲した二点はゆるやかに独立しながらも、「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得るにあたってはその正当性を証し立てる必要があるのだから、じつのところ論点は一つという見方もできる。

ところが牧村氏は、そこへ《胸のうちでそっと思う》ことの是非というまったく無関係な第三の論点を勝手に持ち出してきた。

言い換えるなら、牧村氏は「男のレズビアン」の不当性を主張する人々が、さも内心の自由まで否定しているかのように印象操作しているのである。

内心の自由をめぐっても是非はあるだろうが、たとえ差別的・暴力的な思想や嗜好であろうと《胸のうちでそっと思う》かぎりは問題ない、というか周りの知ったことではないので勝手にすればいいとする見方が一般的だろう。つまり牧村氏は「男のレズビアン」を擁護するにあたり、そのように否定されようのない事柄を盾にすることで「男のレズビアン」を擁護する牧村氏自身を否定されようのない立場に置き、第三者の批判をあらかじめ退けようとしているのである。

ようするに牧村氏にとって「男のレズビアン」自体の正当性すらそのじつどうでもよく、たんに牧村氏自身の承認欲求を満たすために「男のレズビアン」を“ダシにしている”にすぎないのだ。

このような牧村氏の論点ずらしは「男のレズビアン」に否定的な人々に対してはもちろん、当の「男のレズビアン」にとってもきわめて不誠実と言わざるをえない。なぜならば「男のレズビアン」自体の正当性を証し立てないかぎり「男のレズビアン」は内心の範疇に制限され、社会的な認知・承認まで得ることはありえないからだ。つまり牧村氏の議論は「男のレズビアン」を擁護しているかのように見せかけて、そのじつ当の牧村氏自身の承認欲求を満たすことにしか役に立たない。

男性が「レズビアン」を名乗ること、つまり《胸のうちでそっと思う》にとどめず社会的認知・承認までも要求する行為は、言い換えるならレズビアン女性」に対して、男性である自分を「レズビアン」として認めろ、受け容れろと迫る行為だ。これによって「レズビアン女性」は「男のレズビアン」を受容しないかぎり、「男のレズビアン」を“差別”する差別者として糾弾・恫喝に晒される事態に陥る。

だが本来は女性のジェンダーアイデンティティに基づく概念である「レズビアン」を男性が名乗ることは、まさしく男性によるレズビアンアイデンティティの侵犯であり、簒奪に他ならない。ゆえにそれはけっきょくのところ、男性異性愛者が「レズビアン女性」に性欲を向けることの受容を当の「レズビアン女性」に求めることと本質的に変わらない。

繰り返すが、男性が女性を愛することが「異性愛」である以上、シスジェンダー男性の性自認に基づく「男のレズビアン」が「同性愛者」として“差別”されることなどありえない。つまり「男のレズビアン」なる語義矛盾を肯定するのであれば、同性愛者嫌悪と異性愛至上主義に基づく《レズビアン差別》の構造について告発・批判することが不可能となる。

ゆえに「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得たところで「レズビアン女性」の社会的認知・承認には何ら繋がらない。否、それどころかレズビアン」のありようが「異性愛者」に都合良く定義されることにより、ひいては「レズビアン」に対して「男のレズビアン」を含めた〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを要求・期待する行為が正当化される事態を抑止することもできない。

* * *

さて当ブログではこれまで、上に見たような牧村朝子氏による巧妙かつ陰険な「レズビアン・バッシング」の事例の数々について折に触れて検証してきた。

しかし誤解しないでいただきたいが、私はなにも牧村氏の揚げ足を取るために牧村氏の言動を逐次チェックしているわけではない。牧村氏のマスメディアにおける発言は、Twitter上のリツイート機能で流れてきた記事をたまたま目にするだけであり、そして目にした記事の大半は、まさしく上に見たようなフワフワ・キラキラとした文体を装いながらそのじつ「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見を撒き散らすものばかり、というのが実情なのだ。

周知のとおり牧村朝子氏は、かつて「レズビアン・タレント」という肩書でマスメディアに登場していた人物である。だが、現在は「レズビアン」と名乗ることをやめている(ついでに芸能事務所も辞めているので「タレント」と呼べるかも微妙である)。牧村氏によると、自分で自分に「レズビアン」などのレッテルを貼ることで、自分自身の可能性を閉ざしてしまうというのがその理由なのだそうだ。レズビアンアイデンティティの獲得を“レッテル貼り”などと決めつけること自体が、まさしく「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見に他ならないのだけれど、牧村氏がどのようなセクシュアリティをもとうと私の知ったことではない。

翻って私は、ハンドルネームに明らかであるとおり百合作品を嗜好する男性異性愛者である。そのような立場の者が「レズビアン当事者(では現在の牧村氏はないのだが)」の言説を批判することは、男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニングである、などと見なされなかねない。

だが牧村氏の一連の言説はいずれも、これまで見てきたとおり(また上掲の記事にも明らかなとおり)印象操作や論点ずらしなどのごく初歩的な詭弁術を駆使したものであり、その論理的誤謬を指摘するにあたって男女の性差を持ち出す必要はないはずだ。

げんに牧村氏自身、「レズビアン」を名乗っていた頃から自分は「レズビアン」である以前に「人間」なのだ、という話をよくしていた。そも「人間」のアイデンティティである「レズビアン」を、わざわざ「人間」と二項対立に置くこともありがちな詭弁であるが、いくらセクシュアリティが自己申告であるとはいえ、自分に都合の良い時だけ「レズビアン」としての当事者性を持ち出すのは論者としての誠実さを自ら貶めるに等しい。

「(元)レズビアン当事者」としての立場から「レズビアン」を論じる牧村氏の言説が、なぜこうも常に“外して”しまうのかといえば、けっきょくのところ牧村氏には《レズビアン差別》を批判するという意識がなく、ただ「(元)タレント」として、マジョリティである異性愛者(非同性愛者)に都合の良い言葉を忖度する習性が身についているためであろう。

そも牧村氏に言わせると、差別主義者を罵倒・嘲笑することは「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」になるというのだから、もはや《レズビアン差別》を批判する以前の問題であり、むしろ牧村朝子氏は実質的に《レズビアン差別》を容認する立場の人物と捉えて差し支えない。

「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5) - 有限ノ未来 limited future

だから牧村氏には「レズビアン」の主体性(アイデンティティ)を尊重する意識もなく、「レズビアン」が男性を愛することは“可能”であるかとか、男性が「レズビアン」になることは“可能”であるかといった、じつに非人間的な「可能性基準」の思考に陥ってしまうのである。

いずれにしても牧村氏が「(元)レズビアン当事者」であることを理由に、自身の「レズビアン」に対する蔑視と偏見の告発・批判を免れるのであれば――あるいは私が「百合萌え」の男性異性愛者であることを理由に、牧村氏の言説の差別性に対する告発・批判が無効化されるのであれば、それは《レズビアン差別》を容認する体の良い口実にすぎない。

だから私が牧村朝子氏を批判することが《男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニング》であるように見えるとしても、それは錯覚であり皮相な印象批判でしかない。

が、それでも人情として印象が良くなることに越したことはない。そこで、当ブログの人名表記は原則として敬称略であるが、本記事以降、牧村朝子「氏」にかぎっては、例外的に敬称を付けることにした次第である。

追記 以上のとおり、私は「男のレズビアン」に対して否定的な見解をもつ男であるが、その私がTwitter上で「百合魔王」を自称していることについて論理矛盾と捉える向きもあるかもしれない。

しかし、そも「百合」は「レズビアン」を指す言葉ではない。正確にいうと、七〇年代後半にゲイ雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學が《ゲイ=薔薇族》に対応して作った「レズビアン」の呼称は百合族である。

二一世紀の今日、「百合」という呼称はもっぱらマンガなどのオタク・カルチャーにおいて、女性キャラクター同士の恋愛を描く作品を示すものとして用いられ、新宿二丁目などの「レズビアン当事者」のコミュニティを指す「Lカルチャー」とは一線を画している。げんに百合作品の多くに「レズビアン(のアイデンティティを有する女性)」のキャラクターは登場しない。

また「Lカルチャー」が「レズビアン当事者」の当事者性に根差す文化であるのに対し、「百合」という表現自体は「女性」のジェンダーに立脚しながら、百合作品の作者および消費者は〈男/女〉双方にまたがっていて、明確に“誰のもの”と規定することはできない。

一部では「女性向けの百合」「男性向けの百合」などと線引きしようとする向きもあるけれど、そも百合作家の多くはペンネームを用いており性別すら不明である中で、そのような二項対立的分類は非実際的かつ無効であり、ようは自分の気に食わない「百合」の表現に“男性向け”とレッテルを貼って排除したいというユーザーのエゴイズムにすぎない。

話は逸れたが、いずれにしても「百合」は「レズビアン当事者」の当事者性とは無関係であり、ゆえに“レズビアンのもの”ではない以上、男性である私が「百合魔王」を称することは《レズビアンアイデンティティの簒奪》にはなりえないのである。

「魔王」とは偉そうだ、何様だ、という批判はあろうけれど、ファンタジーやRPGの世界では「魔王」という職業(?)自体が「男性」のジェンダーとして認知されており、男性が「百合魔王」を名乗ることはあくまでも「男の百合萌え」以上の意味をもたないと私は考えている。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアン・アイデンティティの簒奪にすぎない

(2018年7月13日 追記

Malesbian……メイレズビアン

男性を意味するmaleと、レズビアンとをくっつけた言葉だ。DIVAでの説明文はちょっと悲しいことになっている。「自分で自分をレズビアンだと思っている、無害だけどちょっぴりブキミなストレート男性」。これは、掲載先がレズビアンバイセクシュアル女性向けの雑誌であり、「男子禁制よ☆」みたいなノリで書かれているからこういう表現なんだろうけど……それにしたって、ブキミ、って言い方は失礼なんじゃないかなあ。

まあ、わからなくもない。レズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅すヤカラなどにつけ狙われてきた人のトラウマを思えば、ブキミ、と書いてしまった気持ちも想像できることはできる。けれど。そういう男どもの存在がゆえに、さらに「ぼくはレズビアンだ」と言い出しづらくなっている……むしろそういう男どもと自分とが同性であるということを受け止めたくなくて「ぼくはレズビアンだ」と言いたくなっているのかもしれない、レズビアンを自称する男の人たちの話を、今回はしたい。ちゃんと、したい。

ググっても出てこない、彼女にも言えない、ただ胸のうちでそっと「ぼくたちはレズビアンだ」と想像して恋をする彼ら。彼らを「メイレズビアン」という名前でレズビアンとは別にくくることを、わたし個人は、あえてしないでおこうと思う。むしろ、「レズビアン」という言葉が誰のものなのか、あらためて過去を振り返り、考えたいのだ。「男がレズビアンになれるわけないでしょ!」なんて、顔をしかめる前に。

胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち(牧村朝子)|ハッピーエンドに殺されない

https://cakes.mu/posts/20962

牧村朝子による上掲の記事は期間限定で無料公開されていたというが、さきほど私が目にした時点ではすでに期間を過ぎていたため、どのように結ばれているのかわからない。例によって例のごとく、牧村のこうした毎度の“炎上商法”に加担するつもりはないので、課金もしたくない。

しかし牧村の結論がどうあろうと、私の論旨は表題のとおりである。

そも「男のレズビアンというのは、クィア理論の古典的なレトリックの一つだ。

クィア理論においては、レズビアンが「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを獲得すること自体が、レズビアンでない人々を排除したり、またレズビアンでない人々にレズビアンアイデンティティを強制する行為として糾弾の対象とされている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ - 有限ノ未来 limited future

そこへきて「男のレズビアン」という言葉は、レズビアンアイデンティティを“攪乱”するための手段として「レズビアン」という概念を本来の定義である女性としてのジェンダーアイデンティティから切断し、概念自体の無効化を狙うものである。

ちなみに私が「男のレズビアン」という言葉を初めて知ったのは、2005年にナツメ社から出版された『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一石田仁/海老原暁子 ナツメ社))という本の中の「クィア」の項目である(文中では「レズビアンの男」と記載)。

もっとも「レズビアン」という概念の定義がどうあれ、実際の「レズビアン当事者」の中には実質的なFtMトランスジェンダーであったり、ジェンダーアイデンティティが曖昧であるという人も存在する。しかしそうした個別の事例を理由に概念の定義を否定するのは詭弁である。そも性自認が“曖昧”であるのと、明確な「シスジェンダー男性」としてのアイデンティティに依拠しているのとでは、まったく意味が異なってくる(もしそうでないなら、シスジェンダー男性とトランスジェンダー男性が対等の立場であるというおかしな話になってしまう)

元より「レズビアン」という概念は、女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学を可視化するために存在する概念だ。

裏を返せばレズビアン」の概念を否定すること、あるいは概念の定義を曲解することは、まさに《女性が女性であることを理由に男性(異性)との恋愛やSEXを要求・期待されるという異性愛至上主義および性別二元制に基づく社会的・政治的力学》に対する告発・批判を無効化し、《レズビアン差別》を正当化するための算段に他ならない。

ようするにレズビアン」という言葉をなくそうとする試みは、「レズビアン」に対して《男性(異性)を愛すること》を要求・期待する行為を正当化するための算段にすぎないということだ。

牧村は「レズビアン」という言葉の成り立ちについて歴史的観点から考察しており、それはそれで読み物として興味深いものの、しかしいずれにしても「男のレズビアン」なる観念の擁護を目的としている時点で、やはりその前提にはレズビアンアイデンティティを否定する思想が横たわっているように思えてならない。

ただし牧村は、読者の気を引くために、あるいは自分の“言いたいこと”をもっともらしく見せかけるために事実を捻じ曲げて書くというひじょうに厄介な癖があるので、じゅうぶん注意が必要である。

「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判 - 有限ノ未来 limited future

今回の件にかぎらず、牧村がマスメディア上で「レズビアン」に対して(かつては「レズビアン・タレント」として注目を集めたという“当事者性”を利用しながら)否定的な言説を撒き散らしてきたことは当ブログで検証してきたとおりである。 

詳細は記事上部の「牧村朝子」タグをクリックしていただきたいが、とりあえず直近のものとしてはこのようなものがある。

「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて - 有限ノ未来 limited future

じっさい男性の異性愛者が「わたしはレズビアンだ」と表明したところで、それこそ“ブキミ”なやつだと思われることはあっても、「レズビアン女性」に対するような迫害を受けることはない。なぜなら男性異性愛者が女性を愛することは「異性愛」にすぎず、また異性愛者」である以上は《男性(同性)を愛すること》を社会から要求されることもありえないからだ。

それこそがまさに男性の特権であり、また男性がそうした男性としての社会的・政治的特権性に依拠しながら「わたしは『男のレズビアン』だ」と主張することは、どのように言い繕っても、男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪に他ならない。

換言すれば《レズビアン差別》の問題とは、すなわちそのような〈異性愛者/同性愛者〉および〈男性/女性〉の社会的・政治的力関係の非対称性を指すのであり、「男のレズビアン」を称する男性が“善人”であるか“悪人”であるかといったことは何の関係もない。

ましてや「差別」を行使する者が“善人”であるからといって「差別」の行使が正当化されたり、あるいは「差別」の行使に対する告発・批判を免れるなどということがあってはならない。

このようなことは本来であれば言わずもがなであるけれど、「差別」という社会構造の問題を、善悪という「倫理」の問題に摩り替えるレトリックは、牧村にかぎらず「差別」を擁護する者たちの常套句であるため(上掲した牧村の「フロイト擁護」に際してもその詭弁が用いられている)、あえて付言しておく。

ゆえに、それは直接的・身体的暴力性を伴わずともレズビアンを騙ってレズビアンイベントに入り込み盗撮するヤカラや、レズビアン向けアプリにレズビアンを自称して登録して女の子の個人情報を聞き出した後「裸の写メを送れ。さもないとお前がレズビアンだとバラすぞ」と脅す》行為と本質的・構造的に違いがない。なぜならレズビアン」の定義に「男性」を含めることは「レズビアン女性」に対して《「男性(=男のレズビアン)」を愛すること》の要求を可能とするレトリックであるからだ。

したがって、男性としてのジェンダーアイデンティティを有する人の中に「女性的な部分(女の心)」がありうるのだとしても、そうしたありようを「男のレズビアン」という語彙で言い表すことはまったくの別問題である。ましてや男性が「レズビアン」を名乗ることは、男性が「百合」を嗜むこととか「もし自分がレズビアンだったら」と空想(妄想)することとは、何の関係もない。

あるいは牧村の表題にあるとおり《胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う》こと自体は自由であると言えるかもしれない。だが、それはナチズムや小児性愛などといった、いかなる差別的・暴力的な欲望であってもそれらを対外的に表明しない(胸の内でそっと思う)かぎりは自由であるという話でしかない。

クィア理論に基づく「男のレズビアン」という観念がレズビアンアイデンティティの否定を目的としている以上、男性が「レズビアン」を名乗る行為は「レズビアン女性」との連帯を意味しない(そも「レズビアン女性」の側は男性との連帯など求めていない)

むしろそのような試みは「レズビアン」という概念・用語を“無意味化”することで、ようするにレズビアン」を「レズビアン」でなくするという意味であり、ゆえに「レズビアン女性」から“言葉を奪う”結果にしかなりえないのである。

「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはない~『あさがおと加瀬さん。』をめぐるホモフォビア言説の表出

(2018年6月8日 追記)

原作を読んだ際の印象について訊かれた高橋は「オーディションを受けるときに原作を拝読したんですが、百合作品と聞いていましたが、読み終わったあとは、人と人との恋愛ですごく素敵な話だなと感じました」と語った。

あさがおと加瀬さん。』、6月9日公開!完成披露上映会を開催|マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20180518-632434/

同性愛を題材にした作品が話題になるたび、メディア上で《これは同性愛ではなく、普遍的な「人間愛」を描いたものだ》といった類の陳腐な言説が溢れ返る事態に、私はほとほと嫌気がさしている。

なおアニメの中で「百合ップル」を演じた高橋未奈美佐倉綾音は後日、バイセクシュアルを公表している女性アイドルの最上もかと鼎談を行ったが、その中でも高橋と佐倉は次のような発言をしている。

高橋 女の子同士の恋愛だったなってことを忘れさせてくれるくらい普通に恋をしてて。私、少女マンガが大好きなんですが、百合も同じ恋愛マンガなんだなって気付かされましたね。

佐倉 すごくわかります。彼女たちって普通に恋をしているんですよね。相手が女の子とか関係なく。(攻略)

高橋 私も友達に女の子同士のカップルがいたので、違和感みたいなものはないですね。「実は付き合ってるんだ」って言われて、普通に「おめでとう!」って。それに人を好きになるって、その人のことを好きになるってことだと思うので、性別とか関係ないのかなって思いますし。ただ幸せになってほしいなと思うだけですね。

佐倉 (前略)これぐらいの年代の女の子って恋と友情って曖昧じゃないですか? 友達に対しての距離感とか。

 劇場OVAあさがおと加瀬さん。」特集、高橋未奈美 × 佐倉綾音 × 最上もが座談会&フォトギャラリー|「ただまっすぐに恋してる」女子高生同士の恋愛を女性3人はどう観る?
https://natalie.mu/comic/pp/asagaotokasesan02

 《「性別」ではなく「その人」を好きになるのだ》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》といったクリシェ(決まり文句)も、主に異性愛者が「同性愛(者)」に“理解”を示す上で用いられるものだ。加えて《私も友達に女の子同士のカップルがいた》などと身の回りの「当時者」をダシにして自分に差別意識がないことをアピールするのは《俺には黒人の友達がいる(I have black frends)》と呼ばれる古典的なレトリックである。

しかし「性別(女性であること)」もまた「その人」のアイデンティティの一つであるのに、その事実をありのままに受け止めようとしない時点で、けっきょくは「同性愛(女性同士の「恋愛」の成立)」を否定していることに変わりはないのだ。

その意味で《恋と友情って曖昧》と解釈すること――ましてそれを「これぐらいの年代の女の子」に特化・限定することは、『あさがおと加瀬さん。』に表現される女性同士の「恋愛」を「友情(非恋愛)」で希釈し、将来的には《真性恋愛》と規定される「異性愛」に至るまでの《擬似恋愛》に貶める意味をもつ。

そも女性キャラクターのみで人間関係がほぼ完結する、明らかに「女性」というジェンダーアイデンティティを前提として人為的に構築された世界観で《性別とか関係ない》などといわれても、しらじらしいだけである。

また「女性」のジェンダーアイデンティティをめぐっては、最上が次のような発言をしている。

最上 僕、最近すごく実感したのが、やっぱり男性と女性って違う生き物なんだなって。もう脳が違うというか、思考回路が全然違う。なんというか、根本的に理解できないことってあると思うんですよね。女の子同士のほうが理解し合えることって多いですよ。

佐倉 女性ならではの経験ってありますもんね。そういう部分を最初から共有できているというのは大きいかもしれない。

高橋 男だからとか女だから、みたいな言い訳もできないし。

佐倉 性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違いって話ですからね。そこまで突き詰めて考えられるのも、百合作品というか同性同士ならではだなと思います。

最上はバイセクシュアル当事者の立場から《男性と女性って違う生き物》《女の子同士のほうが理解し合える》として男女の性差を強調しているのに対し、非当事者である高橋はその流れを無視してまったく無関係に《男だからとか女だから、みたいな言い訳もできない》と横槍を入れ、それを佐倉が《性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違い》と追認する。

鼎談を通して和やかな雰囲気でありながら、そのじつ会話として成り立っておらず、「当時者」の言葉を理解しようともしない「非当事者」の頑なな姿勢が伝わってくる。そも《人間としての考え方や価値観》とは何だろうか?

 もっともその意味では、仮に《女性ならではの考え方や価値観》が存在するとしても、それはすべての「女性」が“共有”できる「考え方や価値観」ではなく、まして女性同士であるからといって誰もが“理解し合える”わけではないという非情な現実を、この噛み合わない会話が図らずも示していると言える。

そも、これが男女の恋愛を表現する作品であれば、異性を愛することと「その人」を愛することの両立を、多くの人は自明のものとして受け入れる。ところが女性同士(あるいは男同士)の関係性になったとたん、本来であれば自明であるはずの「性別」と「人間」の結びつきがなしくずしに解体されてしまうのである。

女性同士の恋愛の表現について、男女の恋愛を表現する《少女マンガと同じ普通の恋》であるとうそぶきながら、そういう当人たちこそが「百合」に対して男女の恋愛と異なる“異常”な扱いをしているという論理矛盾が浮き彫りとなっている。

* * *

いちおうお断りしておくと、こうした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」は原作の『加瀬さん。』シリーズの世界観や表現とは何の関係もなく、読者・観客や評論家、アニメの出演者などといった外野から一方的にもたらされる解釈である。

さらに言えば、なにもオタクカルチャー(百合/BL)に限定した話ですらない。じじつ同年四月末に日本でも公開され、男性の同性愛を美しく描いた作品として高い評価を受けた洋画『君の名前で僕を呼んで』でも、ルカ・グァダニーノ監督自ら次のような見解を表明している。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」

君の名前で僕を呼んでルカ・グァダニーノ監督インタビュー|i-D
https://i-d.vice.com/jp/article/vbxk4d/luca-guadagnino-call-me-by-your-name-director-interview

 作品のテーマや登場人物のセクシュアリティを表すのに「百合」や「ゲイ・ロマンス」といった語彙を用いることが“レッテル貼り”に繋がるという発想は、じつのところ現実の人間に対して「同性愛(者)」という言葉を用いてはならず、一人の「人間」として扱うべきだという、まさしく“政治的”なイデオロギーに立脚する。その意味で、むしろ監督こそ「彼の欲望」を《社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけ》ていると言える。

元より「同性愛」とは、たとえばわたしは〈女性〉であるという自認をもつキャラクターが、他の〈女性〉に恋愛感情ないし性欲を抱いた場合に成立する“関係性”であり、その意味ではたしかに“欲望”それ自体を表す概念ではない。

「同性愛」という“関係性”と、恋愛感情ないし性欲という“欲望”は、それぞれ別次元の事象であるが、しかしだからこそ両立するのである。「ゲイ・ロマンス」なるものが《あまりにも強く純粋な欲望》を表現することができないというのは、それこそ監督自身の「ゲイ・ロマンス」さらには「ゲイ」という存在自体に対する偏見と蔑視の表明にすぎない。

あるいは「ゲイ・ロマンス」に対する偏見と蔑視が、そのじつ「ゲイ」という存在に対する偏見と蔑視の敷衍に他ならない事実は、監督自身が《それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じ》であるとして愚直に証明しており、したがって「ゲイ・ロマンス」に対する否定的感情が現実の「ゲイ当事者」に向けられたものではないという(日本国内では主として「BL/腐女子」へのバッシングの正当化に用いられる)屁理屈も通用しない。

そも「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはないにもかかわらず、「同性愛」と「人間愛」をあたかも排他的な二項対立の関係性に設定する前提自体がおかしいのだ。

あるいは『あさがおと加瀬さん。』を通して、そのような当たり前の真実に目覚めたというなら、ようはそれまで同性愛者をまともに人間として扱わず、化け物じみた《変態》と決めつけていたことの証左であろう。

せめてそのようなホモフォビア(同性愛者嫌悪)を少しでも反省するのかと思いきや、けっきょくは自分とたまたま波長の合った特定の作品を「百合作品」の定義から手前勝手に分断し、「百合作品」および「同性愛(者)」に対する自分自身の凝り固まった偏見と蔑視をさらに強化してしまう。

* * *

もっとも《百合作品と聞いていましたが(中略)人と人との恋愛》といった物言いは一つのクリシェ(決まり文句)でしかなく、考えなしの発言であっても、とくに《同性愛者差別》を目的としたものではないとする見方もあるだろう。まさに、それ自体がヘイトスピーチの正当化を目的としたクリシェでしかないのだけれど、次の発言を見るかぎりでは、少なくともその根底に根深いホモフォビア(同性愛者嫌悪)が存在する事実は疑いようもないのではないか。

作品の魅力について、高橋は「この映画を、デートムービーとして見てもらいたい。百合作品を観るのではなく、デートをする時に観る映画としてお勧めしたい」と言うと、佐倉は「相当良い雰囲気になってしまいますからね!」と便乗し、木戸も「付き合いますよ!」とアピールした。

佐倉綾音、男性だらけの客席へ人生初のブーケトス 狙った女子高生に届かず謝罪 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2111596/full/

百合作品がヒットしたとたん「百合作品」であること自体を否定されるというパラドックスは、かつては『マリア様がみてる』や『青い花』、近年では『やがて君になる』に対しても見受けられた現象である。

ある作品が「百合」と解釈ないし分類されることによって間口が狭まることになり、「百合」に興味のない“一般の”観客を遠ざけてしまうというのが否定派の言い分だ。

しかし、それこそ「百合」が嫌悪されるべきものであるという当人のホモフォビアを露呈しているにすぎない。マジョリティである男女のラブロマンスなど古今東西ありふれているのだから、女性同士の恋愛にかえって興味を覚えるという人だっているだろう。“普遍的”であるといえば聞こえはいいが、裏を返せばありきたりで型にはまった退屈な作品であるという見方もできる。

元より、そのことと女性同士の恋愛およびその表現に《変態》というレッテルを貼りつけることは別問題である。「ノーマル/アブノーマル」の枠組みはたんなる価値判断ではなく、人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定する異性愛至上主義の政治的イデオロギーに他ならないからだ。

じつのところ、特定の作品を「百合」と解釈ないし分類すること自体が、作品の可能性を狭めるのではない。「百合」を一方的に嫌悪されるべきものと決めつけた上で、解釈の可能性から体良く切り捨てようとする当人の差別意識こそが、逆に「百合作品」および「同性愛(者)」に卑小な“枠”を押しつけている。

言うなれば“枠”は「百合作品」および「同性愛(者)」の側にあるのではなく、当人の差別意識の内側にこそ存在するのだ。

そも恋愛というプライベートな関係性において“普遍性”なる観点を持ち込むことにいったい何の価値があるだろうか? 愛の形は“普遍的”であるどころか、性的な事柄を含めて当人たちにしかわからない作法やこだわりが千差万別に存在するはずだ。

さらに言えば恋愛に“普遍性”を要求する思考は、まさしく人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定した上で(あるいは人間のセクシュアリティに「本質(※「本能」とも呼ばれる)」が存在するという思い込みに立脚した上で)、《生殖》に結びつかないセクシュアリティを《変態》として排除・抑圧する異性愛至上主義の最たるものだ。

とはいえ現実社会において「同性愛者」の存在がマイノリティである以上、同性愛をテーマにした娯楽フィクションもやはりマイノリティとならざるをえないのかもしれない。表現という行為がアニメや映画といった商業メディアと密接に結びついている以上、収益が見込めない(売れない、カネにならない)コンテンツは価値がないという烙印を押されてしまう。

しかし観客の間口を狭めるのがいけないというなら、たとえばバスケットボールをテーマにした『スラムダンク』はバスケのルールを知らなければ楽しめないので、バスケに興味のない観客やスポーツが嫌いな観客の存在をあらかじめ排除していることになる。それにもかかわらず「百合作品」に対してだけ文句をつけるのは、やはり女性同士の恋愛(同性愛)が本質的に嫌悪されるべき《変態》であるというホモフォビア(同性愛者嫌悪)を前提としているためであろう。

あまつさえ『あさがおと加瀬さん。』を《百合作品“ではなく”デートムービーと言い張るに至っては、もはや“間口”うんぬんさえ口実にすぎず、自身の出演作に対して自身の嫌悪する「百合(同性愛)」の解釈を認めたくないというエゴイスティックな差別意識があからさまだ。かねてよりアニメ業界においては若い女性の声優をアイドル視する風潮があるけれど(おそらく本稿も、そのような「信者たち」によって“炎上”させられることは間違いない)、主演とはいえいち出演者にすぎない声優に、なぜ作品のテーマ性や世界観を規定(あるいは否定)してしまえるほどの権限が委ねられているのか、いち観客にすぎない私にはさっぱりわからない。 

追記 『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』などを手掛けたアニメ監督の谷口悟朗が「週プレNEWS」内でアニメ業界の“幼児性”を指摘している。谷口によると、今や女性声優はアイドル化されているためシビアなアドバイスもできず(ダメ出しされると気分が落ち込んでその後のイベント出演などに差し障りがあるため、事務所が抗議してくるのだとか)、「セックス」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるのだという。
アニメ映画『あさがおと加瀬さん。』には原作どおり女性キャラクター同士の「セックス」のシーンは出てこないものの、同様に「百合」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるようだ。とくに高橋未奈美 の一連の発言からは「百合作品」に出演することが自身の「アイドル」としてのイメージダウンにつながりかねないという忌避感と、その“幼稚性”が如実に表れている。

幼稚性はここまできた…「コードギアス」監督がアニメ業界に警鐘http://wpb.shueisha.co.jp/2018/06/07/105837/

それにしても「百合作品」の解釈を頭ごなしに否定しながら、その代わりに出てくるのが「デートムービー」とは……あまりにも唐突で、どのような理路に基づいてそのような解釈が飛び出てきたのか記事を読んでもちんぷんかんぷんだが、さも特定の恋愛関係にあるパートナーのいない人はこの映画を楽しむ資格がないと言い放つに等しく、じつに排他的で“間口を狭める”発言である。

誰と映画を観ようと、あるいは一人で観に来ようと人の勝手ではないか。いや、それ以前にどのような映画の観方をしようと観客の自由であって、いち出演者である声優に私たち観客が指図される筋合いはないはずだ。

なお、当日のイベントでは高橋ら出演声優による「ブーケトス」も行われたとのことだが、この趣向もいただけない。

上掲した彼女たちの発言、そして何よりも日本国内において未だ同性婚が法制化されていない現状を鑑みれば、「女の子に結婚してほしい」といってもその相手はあらかじめ〈異性(男性)〉に限定されていて、〈同性(女性)〉との結婚など想定すらされていないのだろう。わざわざ百合作品の映画を観に来たのに、そのような異性愛至上主義を押しつけられたのではたまったものではない。

 

性別二元制と異性愛至上主義に囚われた『性別のない世界の話』の薄っぺらさ

Twitter上で右腹(@sgin001)という同人作家が発表した『性別のない世界の話』という漫画が、4万件以上のリツイート(いいねは13万件以上)を経て私のTLに流れてきた。

『性別のない世界の話』というくらいだから、てっきりクィア理論やジェンダーフリーのような社会構築主義に基づく政治的イデオロギーを具現化した話かと思ったら。

実際に読むとそれ以前の問題で、すっかり虚脱してしまった。なんだこりゃ。

 一読して、我が目を疑った。衝撃を受けた。私自身の《性別》にまつわる固定観念を根底から揺さぶられたから、ではない。あまりの内容の陳腐さに、である。

「性別のない世界」などといかにも大上段に構えたスケールのデカいタイトルとは裏腹に、そのじつ学校の教室と思われる閉鎖的な空間の中で、登場人物は学生カップルと思しき【ハル】と【ナオ】の二人のみ(モブキャラすら描かれない)という、きわめて排他的な人間関係によって構築された世界観。創作の上で閉鎖的・排他的な世界観を設定すること自体はべつに悪くないけれど、この二人の外側の「世界」がどうなっているのか、読者にはさっぱりわからない。作者の貧困な想像力を、ありのままに反映した格好だ。

作者の想像力の貧しさはキャラクター造形においても同様である。【ナオ】は、そのままマンガ表現に典型的な男性キャラクターの造形で男性的な話し方をするが、一方の【ハル】は、マンガ表現に典型的な女性キャラクターの造形でありながら男性的な話し方をし、スカートではなくズボンを履いて一人称は「僕」。ただし二人とも〈男/女〉の性自認をもたない、いわゆる「クエスチョニング」「Xジェンダー」などと呼ばれる人々のようであるが、そのような人々は「性別のない世界」を創世するまでもなく現実社会にもすでに存在している。

また近頃は現実社会でも「ジェンダーレス」なるファッションが注目を浴びている。ところが、そこへきて作者は、どういうわけだかよりにもよって既存の「制服(学生服)」という保守的なデザインをあえて選択し、現実社会の〈男/女〉のジェンダー(性様式)を踏襲している。ただ【ハル】に関してはそれを形式的に反転させただけである。

ファンタジー作家として、一から新たなジェンダーを創出してみせようという気概すら見いだせない。否、ジェンダーの概念がその定義上、既存の「女性/男性」の延長線上にしか存在しえないからには、作者が本気でキャラクターの《性別》をなくしたいと考えるなら「白ハゲ(Twitterでよく見かける、髪もなく服も着ていない極度に簡略化された無個性なキャラクターの漫画)」にするしかないのではないか。

しかし女性造形のキャラクターに男言葉を喋らせてズボンを履かせただけで「性別のない世界」とは笑止千万、羊頭狗肉《性別のない世界》などというラディカルな命題に反して、作者自身はむしろきわめて保守的で頑迷な女性観の持ち主のようだ。

そして何よりも最悪なのは、「性別のある世界」である現実社会における、性別二元制と異性愛至上主義に根差した差別的な固定観念を、作者がこれら自作のキャラクターを通して無批判に追認させていることだ。

 

ナオ:
同じ性別の人は恋できないとか

ハル:
なんで?

ナオ:
わ、わかんない

ハル:
その人のこと好きになっても 同じ性別だったら一緒にいちゃダメなの?

ナオ:
そうらしいよ そもそも 同じ性別の人のことを 好きにはならないんだって

 

上掲の【ナオ】のセリフが《同じ性別の人は恋“してはならない”とか》《同じ性別の人のことを好きにならない“とされている”のが「常識」なんだって》というものであったなら、性別二元制と異性愛至上主義を基幹とする現実社会の「常識」に対しての風刺となりえたかもしれない。が、実際にそうなっていない。よって、つまりこれは現実社会を生きる作者自身の「恋愛」についての持論をそのまま開陳したものと受け止める他ない。

しかし言うまでもないが「性別のある世界」である現実社会においても《同じ性別の人のことを好きになること》は成立する。一方で「恋愛」の定義を異性間のみに特権化し、同性間の「恋愛」の成立を否定・否認する思想は、今や「LGBT」という言葉がすっかり人口に膾炙した現実社会にも未だ根強く蔓延っている。後者について無批判であることで、他ならぬ作者自身が、そのような性別二元制と異性愛至上主義の差別的イデオロギーに囚われている事実を露呈してしまった。

言い換えるならこの漫画は、現実社会の〈同性愛者〉に対する類型的な「ヘイトスピーチ」を、ただ漫画の形で焼き直しただけの代物であり、すなわち「マンガの形を借りたヘイトスピーチに他ならない。

しかも「性別のない世界」と謳いながら、その世界観を体現する二人が「性別のある世界」を仮想する際に、あろうことか【ナオ】は《もしハルが女の子だったら おれは男の子になるよ 男の子だったら 女の子になる》として、現実社会の性別二元制と異性愛至上主義に基づく性役割にそのまま自ら適応しようとするのである。

この薄っぺらな世界観のくだらない漫画が露呈しているのは、こうしたいわゆる《性差否定》のイデオロギーが、じつのところ性別二元制や異性愛至上主義の解体に何ら繋がらないどころか、むしろ望みの「性別」を愛することがあらかじめ肯定・是認されている〈異性愛者〉の特権性を強化するものでしかないという残酷なくらいありのままの現実だ。

* * *

この漫画に寄せられたリプライを読むと「泣ける」「素晴らしい」「自分もその世界に行きたい」などという反応が目立つ。だが男性異性愛者の私には、このような人間としての可能性も多様性も何もかも剥奪された「世界」は、どう見てもただのディストピアとしか思えない。

あまりにも当たり前すぎることだが、人間の可能性や多様性は《性別》だけに発揮されるのではない。言い換えれば《性別》とは恋愛やSEX、ファッションだけの問題ではなく、将来の進路や職業、家庭内での役割、スポーツ、音楽や映画などの趣味など、人生と社会生活のあらゆる場面と密接に関わっている事柄である。

そこへきて「性別のない世界」を目指すということは、同時に既存の現代社会のありとあらゆる可能性と多様性を放棄するに等しい。現実社会の性別二元制に適応できない人々が、このような不自由きわまりない「世界」に隔離されなければならないとすれば、体の良いアパルトヘイトと変わらないのではないか?

私たちが生きるこの「世界」の中に《性別》が存在することで、〈同性愛者〉ないし性別二元制に適応できない人々が差別されるというのであれば、理想とすべきは《性別》をなくすことではなく、人がどのような「性」を営もうと差別されることのない「世界」ではないだろうか。

 

 

森奈津子は「性的じゃない女性同士の関係性」を否定なんかしていない #百合展2018

 

  

今月に開催を予定されていたヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が中止になったことを受け(※来月に会場を替えて延期)、バイセクシュアル当事者の女性ポルノ作家・森奈津子Twitter上で発した声明の中から《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》という部分だけが、レズビアン差別主義者・濱公葉によって恣意的に切り出され、あたかも森が、女性同士の精神的な結びつきを否定して「百合」を《性的な要素》だけに矮小化しているかのような「ヘイトデマ」が横行する事態となっている。

 

だが上掲した森の発言は、ようするに女性同士の関係性における「恋愛(=非性的)」と「性愛(=性的)」の線引きは、そのじつあいまいで恣意的なものだという話をしているにすぎない。女性同士の精神的な結びつきを否定しているわけでは、まったくない。

 

ただ、そのような森の主張は、森の思想的背景(いわゆる文脈)を理解しないことには、たしかにわかりづらいのかもしれない。

 

かつて森は、現在の「コミック百合姫」の前身にあたるマガジン・マガジンの「百合姉妹」という雑誌の中で『酒とユリの日々』というコラムを連載していた(ちなみに「百合姉妹」は5号で廃刊となり、一迅社に移行して「コミック百合姫」として再出発してからは、その10号まで『森奈津子の百合道場』という人生相談の連載をもっていた)。

 

百合姉妹」5号(2004年8月号)の中に、このような記述がある(P141 ※強調は引用者)。

 

 近年、小説や映画などの創作物に関しては、「百合物」と「レズビアン物」は別のジャンルとして語られる傾向にある。つまり、精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」なのだという。
 しかし、現実のレズビアンバイセクシュアル女性も含む)は、通常、百合的な心理も経験しているものだ。百合姉妹」の読者にも大勢のレズビアンがいることを、私は知っている。
 それだけに「リアルなレズビアン物よりも、百合というファンタジーを楽しみたい」という、主に男性による意見を聞くと、奇妙な印象を受けるのだ。
 男性が女性同士の精神的交流の美学を理解してくれることは、非常にうれしい。実際、私も、男友達と百合談義に花を咲かせることもある。百合の美学を語りあえる異性の同志の存在は、心強く思う。
 しかし、彼らが「百合はファンタジー」など主張しはじめると、私は首をかしげてしまうのだ。「じゃあ、百合を考案したのは、あなたたち男性なのか? 百合はあなたたち男性のために創られたのか?」と、意地悪な質問をしたくなるのである。
 百合は決して、男性による男性のためのファンタジーではない。古くから女性同士がひそやかにはぐくんできた愛の形なのだ。(中略)
 どうか、百合を「ファンタジー」の一言で語らないでほしい。あなたの身近なところでひそやかに展開されているかもしれない一つの美しいドラマとして、愛していただきたい。


濱公葉が依拠する《精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」》なる二元論は、皮肉にも森自らが今から14年も前に提示したものであった。裏を返せば濱公葉の「百合」に対する認識は14年前の時点(当時は『マリみて』ブームが終息しつつあった頃)から一歩も進んでいないことになる。
 
繰り返すが「百合」が女性同士の《精神的交流の美学》だけでなく《肉体関係を伴う》ことが珍しくなくなった今日において「レズビアン物」という用語は時代遅れで、もはやアダルトビデオでしか用いられなくなった(正確に言うとAVにおいてさえ「レズ物」という表記が一般的で「レズビアン物」という座りの悪い呼び方はほとんどされない)。

 

とはいえ「百合萌え」を表明する者の中にも濱公葉のように《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的同性愛」は許さない》《「百合」はキレイだから好きだけど「レズ」は汚いから嫌い》という異性愛至上主義とレズボフォビア(レズビアン嫌悪)に基づく「百合観」を臆面もなく開陳する差別主義者(断っておくと森が言うように男性だけの問題ではなく女性ファンの中にも少なくない)が混じっていることも事実である。

 

これも繰り返しになるけれど、かく言う森奈津子自身は異性愛至上主義が形を変えた「両性愛至上主義者」にすぎない。また前回は話がややこしくなるのであえて軽く流したが、かねてから森はTwitter上でフェミニストレイシスト・カウンター(いわゆる「レイシストをしばき隊」界隈)に対して独自の勝手な思い込みに基づく誹謗中傷やデマを繰り返してきた(じつのところ発端のツイートの動機も、そうしたフェミニスト・バッシングの一環である)。そのような森奈津子というロートルの作家をオピニオン・リーダーのように祭り上げるつもりは毛頭ない。

 

ただ上掲した森の訴えは、14年の時を経てもなお、未だ普遍性をもっていると言える。むろん、それは喜ぶべき事態ではない。

 

森の「百合小説」は古臭くて読むに堪えないが、いつの日か上掲した森の訴えもまた「なにを当たり前のことを」と一笑に付される時が来てほしいと、男性の百合ファンである私は願ってやまないのである。

濱公葉(sin_itami)による「レズビアン」差別発言について:追記 #百合展2018 #欅坂46

前回の記事を公開した直後、相互フォローをしていたレズビアン当事者の方から一方的にブロックされてしまった。まさに「仲間からも撃たれるとは思わなかった」といった心境だ。

 

その方はどうも森奈津子のことをそうとう憎んでいるみたいで(それは俺だって同じだ)、今回の件で俺が森奈津子を擁護したっぽく見えるのが気に食わなかったらしい。

 

しかも、あろうことか濱公葉の言い分(というかデマに基づく悪質な印象操作)を鵜呑みにして、森奈津子が「百合」を《性的な要素》に限定して女性同士の精神的な結びつきを否定していると誤解しているのだ。

 

逆だよ! むしろ濱公葉のほうが「百合」を精神的な結びつきに限定して《性的な要素》を排除しようとしてるんじゃないか。

 

あの長いエントリーで俺が言いたかったのは、そもそも女性同士の精神的な結びつきと「性欲」を二元化して、コレは「百合」でアレは「レズビアン」、などと切り分けることは不可能だと言うこと。

 

かなりの長文だし差別問題やセクシュアリティの基礎理解がない人にはわかりにくかったかもしれないけど、森奈津子憎しでカッカしてないでちゃんと読んでほしい。俺だって森奈津子を擁護するようなマネはしたくないというのが本音。でもいくら森奈津子が憎くたって、発言を捻じ曲げて言ってもいないことを言ったことにしたり、その性的指向を否定するようなことを認めてはならない。あたりまえだ。

 

* * *

 

あと濱公葉の一連の発言で、見落としてたけどこんなのもあった。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

百合展2018のページには『女性同士の友情や愛情を意味する「百合」』とありますね。森さんが仰るように「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定されるとすれば、友情とはなんでしょうか? もちろん友情と性的関係は相互排他的ではないですが。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

 補足すると、私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」という決めつけに対して異論を提出しているだけです。それを無視する人の多いこと多いこと。

 

まず森奈津子《「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定される》とか「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」なんて、一言も言っていない。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。

 

「恋愛感情(恋愛)」と「性欲(性愛)」の線引きは恣意的なものだという話をしているだけだ。濱公葉は素で読解力がないのか認知が歪んでしまっているのか、おそらくその両方であろう。

 

また「百合」における「友情」は「恋愛」に至る過程であっても、女性同士の「友情」が「百合」であるという定義を導くのは論理の飛躍だ。女性同士の「友情」がすべて「恋愛」につながるわけではないし、むしろ「恋愛」の可能性を否定する目的で「友情」という観念が持ち出されることすらある。

 

つまり「友情」という言葉には、それが「恋愛」に至る可能性を示唆する意味と、その可能性を否定するという二面性があるということ。

 

「友情」を「性欲」に置き換えても同じことが言えるだろう。「恋愛」は「性欲」と渾然一体になった観念として捉えられる一方、そうした「性愛」を忌避して「恋愛(純愛)」を過剰に美化する風潮もある。

 

「百合」と「レズビアン」を《性的な要素》の有無に基づいて二元化する濱公葉の定義は、そのような「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」の延長線上にある。例によって例のごとく本人はレズビアンを嫌ってなどいないと言い張るだろうけれど、「レズボフォビア」に基づいた定義を採用し続ける以上、濱公葉は「レズボフォビア」に加担せざるをえない。「差別」とは好き嫌いといった「感情」以前に、まさしくそのような社会の「構造」の問題に他ならないのだから。

 

いずれにしても、そうした対人感情の二面性は「恋愛(精神的な同性愛)」と「性欲(肉体的な同性愛)」を排他的な二項対立の関係に置く濱公葉の凝り固まった世界観では捉えられない。濱公葉《私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。》と寝言を言っているが、だとすれば《性的な要素》という恣意的な基準に基づいて「百合」と「レズビアン」を区別する必要もないはず。濱公葉は「区別」と「差別」は違うという、差別主義者のお決まりの言い訳を垂れ流しているにすぎない。

 

ただ、あらゆる「区別」が「差別」につながると短絡するのも同様に問題で(前回も述べたが「百合」と「レズビアン」の違いはたしかにあり、ただしそれは濱公葉の言う《性的な要素》の有無とは無関係ということ)、むしろ「差別」に陥る事態を回避するために必要な「区別」もある。形式論に陥ってはならない。

 

そこをいくと濱公葉および「百合展2018」が「百合」の定義に「友情」を含めているのは、「精神的な同性愛」を女性同士の「友情」の範疇に押しこめ、ひいては女性同士の「恋愛(同性愛)」の可能性を巧妙に排除する異性愛至上主義に根差した発想である。

 

またその意味で私は「百合展2018」に賛同する者でもない。思うところはいろいろある(きらら系の百合四コマ作家を軒並み排除した人選も腑に落ちない)。ただ「百合展」の中止にかこつけて、濱公葉のような異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まったセクシストが、まるでどかした石の下からムカデがわらわらと湧いてくるみたいに出しゃばってくるのが気に食わないだけである。