「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ

(2015年8月21日 更新)

2014年度「関西クィア映画祭」の宣言文において、レズビアンに対するヘイトスピーチが行われています。

その内容の差別性について、私は再三に亘り子細な検証と指摘を行ってきました。しかし同映画祭実行委員会(代表者不在)は、支離滅裂とも言える詭弁を弄して居直るばかりであり、クィアを称する自らの政治的党派性とそれに依拠するレズビアン差別》の行使を正当化・特権化しています。

ここに私は実行委員会に対し、問題の差別的な宣言文の撤回と謝罪、および総括を要求します。

・問題の差別的な宣言文

関西クィア映画祭について http://kansai-qff.org/#about

・公開質問状とその回答

公開質問状(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141013/p1

回答(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141014/p1

公開質問状(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p1

回答(2)&公開質問状(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p1

公開質問状(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141017/p2

回答(3) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p1

回答(3)追記 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141018/p2

通告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141021/p1

回答(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p1

通告(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141206/p2

公開質問状(4) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141219/p1

回答(5) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141223/p1

・経過報告

報告(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141224

・シンパからの反応

@lolonzlol編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141015/p2

@isidaiori編 http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141101/p1

@yu_ichikawa編(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p1

@yu_ichikawa編(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141110/p2

・総括

総括(1) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p1

総括(2) http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20141020/p2

「関西クィア映画祭」実行委員会Twitterアカウント

実行委員会 @kqff_official
斬 @ZAN__
福永玄弥 @Genya_F
冨川瞳(とみー) @hitomikawa
 
(2017年10月10日 追記)

実行委員「斬(@ZAN__)」氏のアカウント名を「@__ZAN」と誤表記しておりました。謹んでお詫び申し上げます。

なお「斬(@ZAN__)」氏は一連の実行委員会との議論において実行委員会側の窓口役を務めていた人物ですが、現在、当方はこの方からブロックされています(ちなみにメールでのやり取りのみで、Twitter上での絡みはいっさいありません)。

性別二元制と異性愛至上主義に囚われた『性別のない世界の話』の薄っぺらさ

Twitter上で右腹(@sgin001)という同人作家が発表した『性別のない世界の話』という漫画が、4万件以上のリツイート(いいねは13万件以上)を経て私のTLに流れてきた。

『性別のない世界の話』というくらいだから、てっきりクィア理論やジェンダーフリーのような社会構築主義に基づく政治的イデオロギーを具現化した話かと思ったら。

実際に読むとそれ以前の問題で、すっかり虚脱してしまった。なんだこりゃ。

 一読して、我が目を疑った。衝撃を受けた。私自身の《性別》にまつわる固定観念を根底から揺さぶられたから、ではない。あまりの内容の陳腐さに、である。

「性別のない世界」などといかにも大上段に構えたスケールのデカいタイトルとは裏腹に、そのじつ学校の教室と思われる閉鎖的な空間の中で、登場人物は学生カップルと思しき【ハル】と【ナオ】の二人のみ(モブキャラすら描かれない)という、きわめて排他的な人間関係によって構築された世界観。創作の上で閉鎖的・排他的な世界観を設定すること自体はべつに悪くないけれど、この二人の外側の「世界」がどうなっているのか、読者にはさっぱりわからない。作者の貧困な想像力を、ありのままに反映した格好だ。

作者の想像力の貧しさはキャラクター造形においても同様である。【ナオ】は、そのままマンガ表現に典型的な男性キャラクターの造形で男性的な話し方をするが、一方の【ハル】は、マンガ表現に典型的な女性キャラクターの造形でありながら男性的な話し方をし、スカートではなくズボンを履いて一人称は「僕」。ただし二人とも〈男/女〉の性自認をもたない、いわゆる「クエスチョニング」「Xジェンダー」などと呼ばれる人々のようであるが、そのような人々は「性別のない世界」を創世するまでもなく現実社会にもすでに存在している。

また近頃は現実社会でも「ジェンダーレス」なるファッションが注目を浴びている。ところが、そこへきて作者は、どういうわけだかよりにもよって既存の「制服(学生服)」という保守的なデザインをあえて選択し、現実社会の〈男/女〉のジェンダー(性様式)を踏襲している。ただ【ハル】に関してはそれを形式的に反転させただけである。

ファンタジー作家として、一から新たなジェンダーを創出してみせようという気概すら見いだせない。否、ジェンダーの概念がその定義上、既存の「女性/男性」の延長線上にしか存在しえないからには、作者が本気でキャラクターの《性別》をなくしたいと考えるなら「白ハゲ(Twitterでよく見かける、髪もなく服も着ていない極度に簡略化された無個性なキャラクターの漫画)」にするしかないのではないか。

しかし女性造形のキャラクターに男言葉を喋らせてズボンを履かせただけで「性別のない世界」とは笑止千万、羊頭狗肉《性別のない世界》などというラディカルな命題に反して、作者自身はむしろきわめて保守的で頑迷な女性観の持ち主のようだ。

そして何よりも最悪なのは、「性別のある世界」である現実社会における、性別二元制と異性愛至上主義に根差した差別的な固定観念を、作者がこれら自作のキャラクターを通して無批判に追認させていることだ。

 

ナオ:
同じ性別の人は恋できないとか

ハル:
なんで?

ナオ:
わ、わかんない

ハル:
その人のこと好きになっても 同じ性別だったら一緒にいちゃダメなの?

ナオ:
そうらしいよ そもそも 同じ性別の人のことを 好きにはならないんだって

 

上掲の【ナオ】のセリフが《同じ性別の人は恋“してはならない”とか》《同じ性別の人のことを好きにならない“とされている”のが「常識」なんだって》というものであったなら、性別二元制と異性愛至上主義を基幹とする現実社会の「常識」に対しての風刺となりえたかもしれない。が、実際にそうなっていない。よって、つまりこれは現実社会を生きる作者自身の「恋愛」についての持論をそのまま開陳したものと受け止める他ない。

しかし言うまでもないが「性別のある世界」である現実社会においても《同じ性別の人のことを好きになること》は成立する。一方で「恋愛」の定義を異性間のみに特権化し、同性間の「恋愛」の成立を否定・否認する思想は、今や「LGBT」という言葉がすっかり人口に膾炙した現実社会にも未だ根強く蔓延っている。後者について無批判であることで、他ならぬ作者自身が、そのような性別二元制と異性愛至上主義の差別的イデオロギーに囚われている事実を露呈してしまった。

言い換えるならこの漫画は、現実社会の〈同性愛者〉に対する類型的な「ヘイトスピーチ」を、ただ漫画の形で焼き直しただけの代物であり、すなわち「マンガの形を借りたヘイトスピーチに他ならない。

しかも「性別のない世界」と謳いながら、その世界観を体現する二人が「性別のある世界」を仮想する際に、あろうことか【ナオ】は《もしハルが女の子だったら おれは男の子になるよ 男の子だったら 女の子になる》として、現実社会の性別二元制と異性愛至上主義に基づく性役割にそのまま自ら適応しようとするのである。

この薄っぺらな世界観のくだらない漫画が露呈しているのは、こうしたいわゆる《性差否定》のイデオロギーが、じつのところ性別二元制や異性愛至上主義の解体に何ら繋がらないどころか、むしろ望みの「性別」を愛することがあらかじめ肯定・是認されている〈異性愛者〉の特権性を強化するものでしかないという残酷なくらいありのままの現実だ。

* * *

この漫画に寄せられたリプライを読むと「泣ける」「素晴らしい」「自分もその世界に行きたい」などという反応が目立つ。だが男性異性愛者の私には、このような人間としての可能性も多様性も何もかも剥奪された「世界」は、どう見てもただのディストピアとしか思えない。

あまりにも当たり前すぎることだが、人間の可能性や多様性は《性別》だけに発揮されるのではない。言い換えれば《性別》とは恋愛やSEX、ファッションだけの問題ではなく、将来の進路や職業、家庭内での役割、スポーツ、音楽や映画などの趣味など、人生と社会生活のあらゆる場面と密接に関わっている事柄である。

そこへきて「性別のない世界」を目指すということは、同時に既存の現代社会のありとあらゆる可能性と多様性を放棄するに等しい。現実社会の性別二元制に適応できない人々が、このような不自由きわまりない「世界」に隔離されなければならないとすれば、体の良いアパルトヘイトと変わらないのではないか?

私たちが生きるこの「世界」の中に《性別》が存在することで、〈同性愛者〉ないし性別二元制に適応できない人々が差別されるというのであれば、理想とすべきは《性別》をなくすことではなく、人がどのような「性」を営もうと差別されることのない「世界」ではないだろうか。

 

 

森奈津子は「性的じゃない女性同士の関係性」を否定なんかしていない #百合展2018

 

  

今月に開催を予定されていたヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が中止になったことを受け(※来月に会場を替えて延期)、バイセクシュアル当事者の女性ポルノ作家・森奈津子Twitter上で発した声明の中から《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》という部分だけが、レズビアン差別主義者・濱公葉によって恣意的に切り出され、あたかも森が、女性同士の精神的な結びつきを否定して「百合」を《性的な要素》だけに矮小化しているかのような「ヘイトデマ」が横行する事態となっている。

 

だが上掲した森の発言は、ようするに女性同士の関係性における「恋愛(=非性的)」と「性愛(=性的)」の線引きは、そのじつあいまいで恣意的なものだという話をしているにすぎない。女性同士の精神的な結びつきを否定しているわけでは、まったくない。

 

ただ、そのような森の主張は、森の思想的背景(いわゆる文脈)を理解しないことには、たしかにわかりづらいのかもしれない。

 

かつて森は、現在の「コミック百合姫」の前身にあたるマガジン・マガジンの「百合姉妹」という雑誌の中で『酒とユリの日々』というコラムを連載していた(ちなみに「百合姉妹」は5号で廃刊となり、一迅社に移行して「コミック百合姫」として再出発してからは、その10号まで『森奈津子の百合道場』という人生相談の連載をもっていた)。

 

百合姉妹」5号(2004年8月号)の中に、このような記述がある(P141 ※強調は引用者)。

 

 近年、小説や映画などの創作物に関しては、「百合物」と「レズビアン物」は別のジャンルとして語られる傾向にある。つまり、精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」なのだという。
 しかし、現実のレズビアンバイセクシュアル女性も含む)は、通常、百合的な心理も経験しているものだ。百合姉妹」の読者にも大勢のレズビアンがいることを、私は知っている。
 それだけに「リアルなレズビアン物よりも、百合というファンタジーを楽しみたい」という、主に男性による意見を聞くと、奇妙な印象を受けるのだ。
 男性が女性同士の精神的交流の美学を理解してくれることは、非常にうれしい。実際、私も、男友達と百合談義に花を咲かせることもある。百合の美学を語りあえる異性の同志の存在は、心強く思う。
 しかし、彼らが「百合はファンタジー」など主張しはじめると、私は首をかしげてしまうのだ。「じゃあ、百合を考案したのは、あなたたち男性なのか? 百合はあなたたち男性のために創られたのか?」と、意地悪な質問をしたくなるのである。
 百合は決して、男性による男性のためのファンタジーではない。古くから女性同士がひそやかにはぐくんできた愛の形なのだ。(中略)
 どうか、百合を「ファンタジー」の一言で語らないでほしい。あなたの身近なところでひそやかに展開されているかもしれない一つの美しいドラマとして、愛していただきたい。


濱公葉が依拠する《精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」》なる二元論は、皮肉にも森自らが今から14年も前に提示したものであった。裏を返せば濱公葉の「百合」に対する認識は14年前の時点(当時は『マリみて』ブームが終息しつつあった頃)から一歩も進んでいないことになる。
 
繰り返すが「百合」が女性同士の《精神的交流の美学》だけでなく《肉体関係を伴う》ことが珍しくなくなった今日において「レズビアン物」という用語は時代遅れで、もはやアダルトビデオでしか用いられなくなった(正確に言うとAVにおいてさえ「レズ物」という表記が一般的で「レズビアン物」という座りの悪い呼び方はほとんどされない)。

 

とはいえ「百合萌え」を表明する者の中にも濱公葉のように《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的同性愛」は許さない》《「百合」はキレイだから好きだけど「レズ」は汚いから嫌い》という異性愛至上主義とレズボフォビア(レズビアン嫌悪)に基づく「百合観」を臆面もなく開陳する差別主義者(断っておくと森が言うように男性だけの問題ではなく女性ファンの中にも少なくない)が混じっていることも事実である。

 

これも繰り返しになるけれど、かく言う森奈津子自身は異性愛至上主義が形を変えた「両性愛至上主義者」にすぎない。また前回は話がややこしくなるのであえて軽く流したが、かねてから森はTwitter上でフェミニストレイシスト・カウンター(いわゆる「レイシストをしばき隊」界隈)に対して独自の勝手な思い込みに基づく誹謗中傷やデマを繰り返してきた(じつのところ発端のツイートの動機も、そうしたフェミニスト・バッシングの一環である)。そのような森奈津子というロートルの作家をオピニオン・リーダーのように祭り上げるつもりは毛頭ない。

 

ただ上掲した森の訴えは、14年の時を経てもなお、未だ普遍性をもっていると言える。むろん、それは喜ぶべき事態ではない。

 

森の「百合小説」は古臭くて読むに堪えないが、いつの日か上掲した森の訴えもまた「なにを当たり前のことを」と一笑に付される時が来てほしいと、男性の百合ファンである私は願ってやまないのである。

濱公葉(sin_itami)による「レズビアン」差別発言について:追記 #百合展2018 #欅坂46

前回の記事を公開した直後、相互フォローをしていたレズビアン当事者の方から一方的にブロックされてしまった。まさに「仲間からも撃たれるとは思わなかった」といった心境だ。

 

その方はどうも森奈津子のことをそうとう憎んでいるみたいで(それは俺だって同じだ)、今回の件で俺が森奈津子を擁護したっぽく見えるのが気に食わなかったらしい。

 

しかも、あろうことか濱公葉の言い分(というかデマに基づく悪質な印象操作)を鵜呑みにして、森奈津子が「百合」を《性的な要素》に限定して女性同士の精神的な結びつきを否定していると誤解しているのだ。

 

逆だよ! むしろ濱公葉のほうが「百合」を精神的な結びつきに限定して《性的な要素》を排除しようとしてるんじゃないか。

 

あの長いエントリーで俺が言いたかったのは、そもそも女性同士の精神的な結びつきと「性欲」を二元化して、コレは「百合」でアレは「レズビアン」、などと切り分けることは不可能だと言うこと。

 

かなりの長文だし差別問題やセクシュアリティの基礎理解がない人にはわかりにくかったかもしれないけど、森奈津子憎しでカッカしてないでちゃんと読んでほしい。俺だって森奈津子を擁護するようなマネはしたくないというのが本音。でもいくら森奈津子が憎くたって、発言を捻じ曲げて言ってもいないことを言ったことにしたり、その性的指向を否定するようなことを認めてはならない。あたりまえだ。

 

* * *

 

あと濱公葉の一連の発言で、見落としてたけどこんなのもあった。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

百合展2018のページには『女性同士の友情や愛情を意味する「百合」』とありますね。森さんが仰るように「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定されるとすれば、友情とはなんでしょうか? もちろん友情と性的関係は相互排他的ではないですが。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/974431901078269952

 補足すると、私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」という決めつけに対して異論を提出しているだけです。それを無視する人の多いこと多いこと。

 

まず森奈津子《「百合」という語が単に性的な要素によってのみ規定される》とか「「百合」の全てが性的な要素や、レズビアンという言葉のみで説明可能だ」なんて、一言も言っていない。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。

 

「恋愛感情(恋愛)」と「性欲(性愛)」の線引きは恣意的なものだという話をしているだけだ。濱公葉は素で読解力がないのか認知が歪んでしまっているのか、おそらくその両方であろう。

 

また「百合」における「友情」は「恋愛」に至る過程であっても、女性同士の「友情」が「百合」であるという定義を導くのは論理の飛躍だ。女性同士の「友情」がすべて「恋愛」につながるわけではないし、むしろ「恋愛」の可能性を否定する目的で「友情」という観念が持ち出されることすらある。

 

つまり「友情」という言葉には、それが「恋愛」に至る可能性を示唆する意味と、その可能性を否定するという二面性があるということ。

 

「友情」を「性欲」に置き換えても同じことが言えるだろう。「恋愛」は「性欲」と渾然一体になった観念として捉えられる一方、そうした「性愛」を忌避して「恋愛(純愛)」を過剰に美化する風潮もある。

 

「百合」と「レズビアン」を《性的な要素》の有無に基づいて二元化する濱公葉の定義は、そのような「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」の延長線上にある。例によって例のごとく本人はレズビアンを嫌ってなどいないと言い張るだろうけれど、「レズボフォビア」に基づいた定義を採用し続ける以上、濱公葉は「レズボフォビア」に加担せざるをえない。「差別」とは好き嫌いといった「感情」以前に、まさしくそのような社会の「構造」の問題に他ならないのだから。

 

いずれにしても、そうした対人感情の二面性は「恋愛(精神的な同性愛)」と「性欲(肉体的な同性愛)」を排他的な二項対立の関係に置く濱公葉の凝り固まった世界観では捉えられない。濱公葉《私は「百合」とレズビアンは相互排他的な概念だというようには言っていません。》と寝言を言っているが、だとすれば《性的な要素》という恣意的な基準に基づいて「百合」と「レズビアン」を区別する必要もないはず。濱公葉は「区別」と「差別」は違うという、差別主義者のお決まりの言い訳を垂れ流しているにすぎない。

 

ただ、あらゆる「区別」が「差別」につながると短絡するのも同様に問題で(前回も述べたが「百合」と「レズビアン」の違いはたしかにあり、ただしそれは濱公葉の言う《性的な要素》の有無とは無関係ということ)、むしろ「差別」に陥る事態を回避するために必要な「区別」もある。形式論に陥ってはならない。

 

そこをいくと濱公葉および「百合展2018」が「百合」の定義に「友情」を含めているのは、「精神的な同性愛」を女性同士の「友情」の範疇に押しこめ、ひいては女性同士の「恋愛(同性愛)」の可能性を巧妙に排除する異性愛至上主義に根差した発想である。

 

またその意味で私は「百合展2018」に賛同する者でもない。思うところはいろいろある(きらら系の百合四コマ作家を軒並み排除した人選も腑に落ちない)。ただ「百合展」の中止にかこつけて、濱公葉のような異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まったセクシストが、まるでどかした石の下からムカデがわらわらと湧いてくるみたいに出しゃばってくるのが気に食わないだけである。

 

「レズビアン」は「バイセクシュアル」よりも“優遇”されているのか?

Twitter上にこのブログの他の記事が流れてきて、なにげなく過去ログを辿っていくと、このような記事が目に留まった。

 

いわせてカフェ「LGBTってなに?」|長島可純Official Blog

 https://ameblo.jp/amour02/entry-12346959081.html 

 

当人はノンセクシュアルバイセクシュアルでFtXであるという。

 

・「好き」という言葉を使うのが怖かった

 当事者であるということを公表していると、SNS上で「好き」と書くだけで恋愛に結びつけられ、詮索されることがあります。

 以前私は、ある女性候補者のことを応援していました。その人のことは、候補者として、とても尊敬していたし大好きでした。あるとき、ツーショットをSNSに投稿し、そこにまた会えてうれしかったことと共に、「大好き」と書きました。それに対して、「両思いなのか」というコメントがありました。もちろん私は否定しました。すると今度は「同性愛じゃなくて安心しました」と。私がこのとき真っ先に思ったのは、候補者に迷惑をかけてしまったのではないか、安易な発言によって足を引っ張るようなことをしてしまったのではないか、ということでした。それ以来ずっと、「好き」という言葉を意識的に遠ざけてきました。使うときはその前に長い前置き…友達として、憧れです、尊敬として、変な意味じゃなく…そうでもしなければ、不安でたまらなかったのです。

 

ここまでは典型的なホモフォビア(女性の場合はレズボフォビア)の事例であり、真に迫るものがあるけれど、その後が解せない。

 

 でも、友達同士であったとしても、「好き」という言葉を使う人たちは私の周りにもたくさん居るし、私自身も言われることがあります。だけど、それに対して「レズなの?」なんていう人はそんなにいないと思うんです。ゼロではないと思うけど。なぜ、バイセクシュアルです、と言うだけで、なんでも恋愛に置き換えられてしまうんだろう。それは今でも悩み、考えていることです。

(※強調は引用者)

 

それこそ、この人の思い込みでしかない。そも世間(つまり多くの非同性愛者)の認識において「バイセクシュアル」は独立したセクシュアリティというより、むしろ「レズビアン」の中に「バイセクシュアル女性」もいるという位置づけなのだから(むろんそのような認識自体が異性愛中心主義に根差す《同性愛者差別》の産物であることは言うまでもない)、一般にこうした文脈(女性の女性に対する「好き」の表明)で矢面に立たされるのはもっぱら「レズビアン(レズ)」である。

 

それにしてもバイセクシュアル当事者の中には、なぜかバイセクシュアルがレズビアンやゲイよりも冷遇されているといった話をやたらと強調したがる人がいる。

 

《英語(とたまに韓国語)のクィアフェミニズム系記事の翻訳の貯蔵庫。》と銘打たれた以下のブログの記事もその一例であろう。

 

また、バイセクシュアルの女性は、他の女性よりも性暴力を経験する可能性がずっと高いこともわかっています。

(原文:We also find that bisexual women are far more likely to experience sexual violence than other women. ※強調は引用者)
 

なぜ私たちのフェミニズムは様々なアイデンティティの交差(intersection)を前提としたものでなければならないのか(そしてそれを実践する3つの方法)|feminism matters
http://yk264.hatenablog.com/entry/2016/01/17/152618

 

「他の女性(other women)」というからには、そこには「異性愛者女性」のみならず「レズビアン女性」や「トランス女性」も含まれるのであろう。しかし「レズビアン女性」や「トランス女性」が、「バイセクシュアルの女性」よりも《性暴力を経験する可能性がずっと低い》というのであれば、その論拠となるデータを示すべきであるが、著者はただ“わかっている(We also find)”と無責任に断言するだけである。

そしてそのようなこじれた被害者意識が、例の「関西クィア映画祭」による「レズビアン女性」へのヘイトスピーチの根底にもどっしりと胡坐をかいていることは言うまでもない。

 

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/30141220/p1

 

元よりレズビアンバイセクシュアル女性よりも“優遇”されるといった話は、あくまでもレズビアンのコミュニティにおいては、そのようなこともありうるといったていどの話である。そうした特殊な状況下における事例を一般化するのは、痴漢対策の女性専用車両について《男性差別》と騒ぎ立てているミソジニストの屁理屈と何も変わらない。

 

そこから一歩外に出れば、バイセクシュアルの多くは「異性愛者」として生きることに順応し、自らが「マイノリティ」との認識をもたないのが実情だ。

 

じじつバイセクシュアルは《異性を愛する可能性》に開かれているという点で、レズビアン/ゲイが《異性を愛さないこと》について受ける迫害・糾弾を免れるという特権性を享受している。一方でレズビアン/ゲイは、けっして《異性を愛する可能性》に“閉ざされている”のではなく、むしろ常に“開かれる”ことを要求・期待する社会的圧力に晒されている。

 

LGBTの中でバイセクシュアルが周縁化されているといった話はしばしば目にするけれど、そも「マイノリティ」であるとの認識がないバイセクシュアルは、その多くがLGBT運動に参加する動機や必然性をもたない。だからこそ、LGBTコミュニティの中のバイセクシュアルは相対的にマイノリティになってしまうという逆説も発生している。

 

さらに言えばバイセクシュアル」であっても〈男性〉と〈女性〉とで、やはり社会的・政治的力関係の格差がある。

 

ネット上でオープンにしているレズビアンは、しばしば男性から実際の行為を見学させてほしいとか自分も混ぜてほしいといったメールを送りつけられるというセクシュアル・ハラスメントに遭うが、これについてはバイセクシュアル女性も同様であり、実質的に両者は似たような扱いをされていると言っていい。レズビアンは、その非異性指向(男性を愛さないこと)を“治療”してやるという名目で異性愛(男性とのSEX)を要求・期待される傾向にあるが、バイセクシュアル女性の場合は、まさに男性を愛することができるという理由で、やはり異性愛(男性とのSEX)を要求・期待されるのだ。

 

そうしたセクシュアル・ハラスメントの事例に限定して考えるなら、「レズビアン女性」と「バイセクシュアル女性」のどちらが“優遇”されているかを議論することは、たんにハラスメント被害の告発を無効化すること以外に何の意味もないだろう。

 

しかし言い換えるならバイセクシュアル女性」に対する「差別」は、じつのところその両性指向(ないしは性的指向の可変性・流動性)について向けられる事柄ではなく、やはり《レズビアン差別》の延長線上に位置づけられるのである。いずれにせよ、間違っても「レズビアン女性」が「バイセクシュアル女性」より“優遇”されているなどという倒錯した結論を導くことはできない。

 

ましてや、そこで《人が愛し合うことに性別は必要ない》《「性別」ではなく「人間」を愛するのだ》といった《性差否定》の政治的イデオロギーに基づく「バイセクシズム(両性愛至上主義)」に陥るなら(件のブログ主がそのような物言いをしているわけではない。念の為)、セクシュアリティの個別性を否定・否認して単一の価値基準を押しつける行為であり、けっきょくはレズビアン(非異性愛者)」に対して《異性(男性)を愛する可能性》に“開かれる”ことを要求・期待する、まさしく「同化主義に基づくヘイトスピーチと言っても過言ではない。

 

「欅坂46」便乗署名の発起人 濱公葉(sin_itami)というレズビアン差別主義者について #百合展2018 #欅坂46

今回は、欅坂46のファンの皆さんにも読んでいただきたい内容です。一方で広く世に訴えるため、欅ファンにとっては自明の事柄や欅に対して否定的な情報についてもあえて記載しています。
 
* * *
 
去年の7月に発売された、欅坂46のアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されている『月曜日の朝、スカートを切られた』という曲が、実際の痴漢被害者からのクレームを受け、インターネット上で抗議の署名が集められるという事件がありました。

 

炎上! 欅坂46「月曜日の朝、スカートを切られた」はどこが問題なのか? 秋元康の歌詞にある女性蔑視思想(編集部)|LITERA(リテラ)
http://lite-ra.com/2017/08/post-3354.html

 

署名といっても、実質的にはプロデューサー兼作詞担当者である秋元康への意見表明であり、『月スカ』を発禁にすべきだとか公の場で流すなといった具体的な対応を要求するものではありませんでした。それに対して欅坂46のファンから、逆に秋元康に対して表現規制に屈するなと要求する署名や、また署名発起人の女性に対して抗議を取り下げるように要求する署名など、一つのアイドルソングをめぐっていくつもの署名活動が展開されるという異例の事態に発展しました。
 
そんな中で、このような署名がありました。

 

『【改稿版】秋元康氏は差別と暴力に関する声明を出すべきだ』
※後述の理由によりリンクは貼りません。

 

発起人の濱公葉(正確には「濱 公葉 ◢│⁴⁶」と表記していますが、機種依存文字が含まれているため、タイトルを含めて本文では「濱公葉」のみの表記とします)なる人物は、自身も欅坂46のファンであり、ファンの間から件の歌詞に疑問を呈する指摘する声が上がったことは多様な意見を担保する上で有意義であると評価します。
 
ただ、その内容は『月スカ』を始めとする欅坂46の楽曲およびプロモーション・ビデオに対する濱公葉個人の評論や感想を長文で書き連ねたものであり、興味深い部分はあるものの、取り留めのない内容に辟易として途中で読むのをやめたという人が大半ではないでしょうか。実際、この署名は現時点で200人ほどしか賛同者が集まらず、濱公葉が何か具体的な行動を起こすことはなかったようです(発端となった痴漢被害者の抗議を含め、一連の署名活動はいずれもそのままうやむやになった模様)。
 
さて後日、私はこの濱公葉の名前を、意外なところで目にすることになります。

 

ふともも展に続き「百合展」も中止に 「若者のマルイ」苦しい決断
http://news.livedoor.com/article/detail/14427300/

 

東京・池袋のマルイ池袋店で今月17日に開催される予定だったヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が、直前になって中止されたというニュースです。あらためて説明すると「百合」とは、いわゆる女性同士の恋愛(同性愛)をテーマにしたマンガなどの娯楽フィクションの総称です(なお上掲記事および「百合展」の説明では《女性同士の友情や恋愛を意味する》と書かれていますが、女性同士の「友情」がかならずしも「恋愛」に繋がるわけではないので、その定義は不適切です)。

 

註 なお「百合展2018」の東京開催は4月に延期され、会場は「ライトボックススタジオ青山」に移転とのこと。


百合展2018
http://yuriten.com/2018/

 

中止の決定を受け、女性ポルノ作家で自身もバイセクシュアル当事者である森奈津子(@MORI_Natsuko)が、Twitter上で声明を発表しました。
 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973563128435757062
ふともも展を「性的」として抗議し中止に追い込んだフェミニストの皆様には、百合展が中止になった理由も、ぜひ、ご説明いただきたい。同性愛者差別的にならないよう説明することが可能ならば、ぜひ、ご教示ください。百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973700365525778432
百合物というジャンルが確立していないうえに、同性愛者差別が人権問題だと社会で認識されていなかった四半世紀前から百合物・レズビアン物を書いてきた私には、わかる。このような作品を批判してくるのは「レズきもい」という差別主義者だけでなく、反ポルノ勢(中にはレズビアンもいる)でもあると。

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973956734308855808
百合表現を「よい百合表現」「悪い百合表現」に分けて、「悪い百合表現」はレズビアン差別を助長するものとして叩く――どういうディストピアSFですか? そして「異性愛者向けの百合表現」があるとして、それのなにがいけないのでしょう? 異性愛者は百合物を楽しんではいけないのですか?

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/974223045668741120
レズビアンたちが百合展中止を嘆いている一方で、当事者ではない異性愛者女性や男性がレズビアン的表現を「よい百合」と「悪い百合」に分けて、「悪い百合」を排除しようとしているという、地獄絵図が展開されてますね。多数派の奢りに無自覚な多数派の、なんと多いことよ。

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973769567699898368
百合展に対し「女性以外が見るのは、性的搾取だから中止になって当然」と主張されている方々には、バイセクシュアルの一当事者として申しあげたい。「我々女性同性愛者を、あなたがたの思想に都合よく利用するな。それこそ、我々に対する精神的レイプだ。傲慢なエセ人権派ども、すぐさま失せろ」と。


森奈津子の発言を補足しますと、上掲記事にあるとおり、そもそも今回の「百合展2018」の中止は、それ以前に同じ店舗で開催される予定であった「ふともも写真の世界展2018」が性差別的であるとの抗議を受けて中止となり、「ふともも展」でフィーチャーされていた写真家が「百合展」にも参加予定であったことから、その余波を受けて(いわば巻き添えを食らって)「百合展」のほうも取りやめになったという迂遠な事情があります。つまり「ふともも展」と異なり「百合展」に対しては誰からも抗議が来ていません。
 
「ふともも展」の内容およびその中止については、私はあえて評価しません。「ふともも展」を批判するのはいいとして、《性的消費》という概念はたしかに抽象的でわかりにくいですし、それなら他に“抗議”すべき差別的な表現(それこそ女性同士の恋愛を男性の代用だとか一過性の擬似恋愛と決めつけたり、女性同士のSEXを男女のそれよりも劣っていると決めつける異性愛者向けの恋愛コラムなど)は他にいくらでもあると思うからです。
 
ただ本件は別として、森奈津子は常日頃からバイセクシュアル女性としての当事者性を声高に主張しながらも、一方で自身も性差別的な発言を公然と垂れ流し、過去には当ブログでも批判したことがあります。

 

セクシズムを行使するのは「被差別者」ではなく【森奈津子】である
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20140525/p1

 

もっともそのような「当事者」の言葉を借りるまでもなく《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》《異性愛者は百合物を楽しんではいけないのですか?》という指摘自体は的確なものです。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973779814032306177
女性同士の愛がテーマの百合展がエロ本? あなたのようにレズビアンをエロ目線でしか見ることができない者どもに、我々同性愛・両性愛の女たちは苦しめられてきた。しばしばセクハラも受けてきた。あなたのような変なエロ目線の方はあっち行ってくださいね。気持ち悪いので。

 

https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/973953049130450945
「男性目線のポルノ」などという女性の味方ぶった単語を使い、レズビアニズム表現をつぶそうとする……あなたこそ、レズビアンの敵では? そもそも、なぜ、あなたが「よい百合表現」「悪い百合表現」の線引をするのですか? 大変傲慢な態度ですね。驚かされました。

 

「ふともも展」がポルノであるかはさておき、少なくとも「百合展」の宣伝には「エロ本」呼ばわりされるに値する直接的・具体的な性表現はありませんでした。
 
たしかにトップページに飾られている男性写真家の、学生服を着た若い女性同士が薔薇を手に見つめ合うロマンティックな写真は、同時にモデルの女性たちの表情作りが巧みなこともあって、そこはかとなくエロスの匂いも感じ取れます。しかしこのていどの“エロティック”な表現なら、男女物のラブ・ロマンスや女性向けのファッション雑誌にはありふれています。
 
そのようなありふれた表現でさえ、女性同士というだけで異様かつ奇異なものに見られてしまうのは、そのように見る側こそが、そも女性同士の恋愛ないしレズビアンの存在自体を異様かつ奇異なものとして捉える「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」を無意識の内に内面化しているにすぎません。
 
とはいえ、Twitter上では「百合展」中止の理由について「フェミ団体」ないし「LGBT団体」の圧力・検閲に屈したなどというまことしやかな憶測やデマが無責任に拡散されています。繰り返しますが「百合展」の開催を妨害した「フェミ団体」「LGBT団体」など現実にはいっさい存在しません。
 
一方で、「百合」というテーマが女性の同性愛という世間の偏見に晒されやすいセンシティブな要素を内包していることから、今回の「百合展」中止に便乗して「百合」に対するバッシングを行う者たちが(団体ではなく個人単位で)現れるようになりました。
 
しかしそれらは例外なく、当人の異性愛至上主義とレズボフォビアを表出しているだけであり――また例によって例のごとく、当人は他者の差別意識を賢しらにあげつらう一方で自身の内なる差別意識にはまったくの無自覚です――何ら傾聴に値しないどころか、それ自体がまさしくヘイトスピーチに他なりません。
 
そのようなセクシスト(性差別主義者)の中の一人が、上述した濱公葉です。
 
濱公葉(@sin_itami)は、今回の「百合展」中止を批判する森奈津子に対し、粘着的な罵倒を繰り返しています。しかしそれらは、自身の凝り固まった異性愛至上主義とレズボフォビアの差別的偏見をむき出しにした、きわめて差別的かつ醜悪きわまりないものです。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/973923502842523649
性的じゃない百合だってたくさんありますよ。あなたは今、性的じゃない女性同士の関係性に萌える多くの人を敵に回しました。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/973948883121287168
森さんご自身が過去形でしか表現していないことからも明らかですが、起源がいついかなる場合も現在の定義に当てはまるわけではありません。 私にケチをつけるのは構いませんが、百合と性的な要素を必ずしも結び付けない百合好きたちに対してもあなたは「去れ」と仰るのか?

  

濱公葉は、【百合好きたち】が百合作品における《性的な要素》のある表現――「百合展」もそこに含まれるという前提のようです――を是認・肯定することにより、《性的な要素を必ずしも結び付けない百合》が相対的に否定されるのだと言います。
 
しかし実態は真逆であり、濱公葉こそが《性的じゃない女性同士の関係性》を過剰かつ不必要に神聖視することで「女性同士の性的な関係性」という表現・解釈の可能性を一方的に否定・排除しているのです。
 
そも「性的じゃない女性同士の関係性」と「女性同士の性的な関係性」は言葉の上では矛盾しながらも、じつのところ共に「百合」すなわち女性同士の「恋愛関係」という事象を異なる側面から捉えた表現にすぎず、排他的な二項対立の関係にある事柄ではありません。ただ、現実のレズビアン当事者のありようと同様に「百合」の表現にも多様性があるというだけです。
 
元より、恋愛表現について“性的”であるか否かの判断をどのように線引きするのでしょう。たんにペニスを膣ないし肛門に挿入して射精することが「SEX」であるというなら、男性器をもたない女性同士は「SEX」ができないことになります。
 
あるいはディルドなどの道具を用いればいいのでしょうか。しかしいずれにしても「SEX」の成立にペニスが不可欠であるという固定観念は、まさしく「性」の意義を《生殖》に規定した上で、《生殖》に結びつかない女同士・男同士の「性」を《変態》として排除する、異性愛至上主義の最たるものです。
 
また女性同士にかぎらず人間の「恋愛関係」において、肉体的接触によるものでなくとも、なんらエロスや快感を伴わないのであれば、それのような「関係性」を「恋愛」と呼んで他の関係性から特化する必然性はありません。
 
すなわち「恋愛感情」と「性欲」の線引きも、本来であればあいまいなものであり、言うなれば「性欲」の一種として「恋愛感情」が位置づけられるという解釈すら可能なのです。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/973943215228272647
「百合」とレズビアンには密接なかかわりがありますが「「百合」=レズビアン」では、ありません。「百合」は、女性同士の関係性について萌えの文脈が適用された場合に使われる用語です。(萌えとエロが必ずしも同じではないことは論をまたないと思います。)

 

たしかに、かつて「百合」の愛好者たちの間では、《性的じゃない女性同士の関係性》に終始する「百合物」と、《性的要素》の伴う「レズビアン物(レズ物)」が区別されていたといいます(これについては他ならぬ森奈津子自身が「百合姉妹」という百合作品の専門誌でそのように述べていました)。
 
が、それはあくまでも「百合」が社会的に認知されていなかったゼロ年代初頭までの話です。今ではポルノ漫画でなくとも、女性同士が性的関係に至る描写が登場する「百合漫画」は珍しくありません。
 
なぜなら、濱公葉が言うように「百合」を「百合物」と「レズビアン物」の二項対立で捉えるという発想は、まさしく「同性愛」の多様なありように「精神的な同性愛」と「肉体的な同性愛」という恣意的な線引きをした上で、《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》という異性愛至上主義に基づいて〈同性愛者〉のありようを規定する《同性愛者差別》に他ならないからです。
 
そのような精神性偏重志向によって、よしんば「精神的な同性愛」だけは肯定されたように見えたとしても、それは異性愛至上主義に都合良く〈同性愛者〉のありようを限定した上で、異性愛至上主義に適応しない〈同性愛者〉がさらなる迫害を受ける状況を生み出すものであり、〈同性愛者〉自身の主体性および「性」の自己決定権を否定する《人権侵害》すなわち《同性愛者差別(レズビアン差別)》以外の何物でもありません。

 

註 ただ「百合」と「レズビアン」は異なるというのはたしかにそのとおりです。そも「レズビアン」という概念は、当人の自己認識に基づくセクシュアル・アイデンティティであり、そこをいくと一般的な「百合漫画」の中に「レズビアン」のアイデンティティを有するキャラクターは(一部の例外を除いて)登場しません。

 

そのあたりのややこしい(笑)話に興味のある方は、当ブログの以下の記事をご参照ください。


レズビアン当事者」の同人作家・玉置こさめによる紋切型の「保毛尾田保毛男」擁護と「百合」バッシングに反論する
https://herfinalchapter.hatenablog.com/entry/20171016/p1

 

加えて、男性器の伴わない女性同士の「性愛」を否定する考え方は、言い換えればSEXには〈男性〉の存在が不可欠であるとして(ゆえにそのような思想をもつ人は、女性同士がディルドを使用することも否定します)、女性同士の性的関係に〈男性〉が介入する行為を正当化するものです。
 
すなわち濱公葉が「精神的な同性愛」を特権化する一方で「肉体的な同性愛」を排除することは、〈男性〉である濱公葉が〈女性〉のあり方を一方的に規定し、その〈女性〉を〈男性〉の支配下・庇護下に置くものであり、これは女性同士の「性」を否定しながらも、実質的には〈男性〉の〈女性〉に対する《性的搾取》の一種として位置づけられます。
 
そも《性的搾取》とは性的主体性の否定であり、〈男性〉である濱公葉が〈女性〉の性的主体性に基づく「性の自己決定権」を否定するのであれば、それは〈男性〉が〈女性〉の性的主体性に反して望まない性的関係を強要する行為の裏返しでしかありません。
 
そのようにして〈男性〉の特権的立場から「女性」の表現である「百合」に不必要かつ不寛容な分断と対立をもたらし、百合文化の多様性を否定する濱公葉のようなセクシストこそ、まさしく百合文化の「敵」と断定せざるをえません。
 
あるいは、このように弁明するかもしれません。濱公葉は、あくまでフィクションの「百合」についての持論を述べているのであって、現実社会の「レズビアン」を想定したものではない――と。
 
しかしそうであれば、まさに濱公葉が、フィクションの「女性」を表現する秋元康に対して「差別と暴力に関する声明」を要求する理由もありません。
 
私は件の『月スカ』の歌詞が、痴漢被害者に“泣き寝入り”を強いるものだとは思いません(そのような逐語的解釈は、いくらなんでも読解力がなさすぎです)。しかし、それでもプロの作詞家である秋元康が「痴漢」という現実社会の性犯罪、まして「スカートを切られた」という生々しい被害の体験を――たとえ欅のメンバーたちのような若い女性を抑圧する、理不尽な社会の「差別や暴力」のメタファーであるとしても――題材に選んだ以上、現実の痴漢被害者の存在について配慮することは必要であると考えます。
 
その意味で先述のとおり、欅坂46ファンである濱公葉が、秋元康に対して「差別と暴力に関する表明」を求めたこと自体は、勇気のある素晴らしいアクションと言えるかもしれません。
 
ところが濱公葉は、今回の「百合展」およびそれを支持する女性作家の森奈津子に対するバッシングを通して、レズビアンバイセクシュアルを含めた〈女性〉に対する、〈男性〉である自身の特権的な支配欲・庇護欲を露わにしたことで、皮肉にも自らの言葉を自分自身で否定する格好となってしまいました。
 
森奈津子は「レズビアン」ではなくバイセクシュアルの当事者ですが、しかし女性(同性)との性的関係を公表する女性であるという側面においては「レズビアン」と同じ立場性を共有し、ゆえに《レズビアン差別》の対象となります。上述のとおり森奈津子自身が異性愛至上主義を内面化したセクシストであるとしても、その性的指向を理由に迫害されることが許されてはなりません。
 
その意味でも濱公葉の「ヘイトスピーチ」は、フィクションの「百合」に対する稚拙で時代遅れな持論の開陳(お断りしておきますが、それ自体が現実社会の「女性同性愛者」に対する「ヘイトスピーチ」に相当します)に留まらず、現実社会の「女性同性愛者」をダイレクトに攻撃・迫害している点で、何一つ擁護できる要素がありません。

 

https://twitter.com/sin_itami/status/973950424905539584

森奈津子先生から!
異性愛男性認定をいただきました!
ではここで私の中身をカミングアウトいたしましょう!
性的指向・嗜好はヘテロ寄りのジノセクシュアルフレキシブル!
性自認アジェンダー寄りのジェンダーフルイドです!
戸籍上の性別は男!
ポリアモリーロリコン

 

濱公葉の正体が、そのような異性愛至上主義と〈男性〉の特権性を笠に着た「レズビアン差別主義者」である事実は、濱公葉自身の性的指向とは何の関係もありません。
 
なぜなら異性愛至上主義は、現実社会の基幹を成す政治的イデオロギーであるがゆえに、性的指向に関わらず普遍的に共有することができるからです。それはまさに私が、かつてバイセクシュアル当事者である森奈津子の無自覚に内面化された異性愛至上主義について告発・批判したことと同じです。

 

同様に、濱公葉がどのような性自認をもとうと《戸籍上の性別は男》である以上は〈男性〉として〈女性〉に対する社会的・政治的特権性を享受し、ゆえにその社会的・政治的責務から免れることは不可能です。まして「ロリコン」という、まさしく欅のメンバーたちを含めた若年層(グループ内のセンター・ポジションを務める「てち」こと平手友梨奈は若干16歳)の〈女性〉に対する性的搾取の構造と密接に結びついている「性的嗜好」を表明するならなおさらです。
 
あまつさえ濱公葉は、そうした政治的イデオロギーの問題を、自身のセクシュアリティの問題に摩り替えた上で「ジノセクシュアルフレキシブル」「アジェンダー」「ジェンダーフルイド」などといった一般的に認知されているとは言い難い難解な専門用語や概念を捲し立てることで、バイセクシュアル当事者の女性作家である森奈津子に対してマウンティング(権力性の誇示)を仕掛けています。
 
これは自身の差別意識を第三者から指摘されても認めようとすらしない濱公葉の見苦しい自己正当化であるだけでなく、〈男性〉が〈女性〉を無知と決めつけ、知識をひけらかすことで優位に立とうとする「マンスプレイニング」と呼ばれる差別行為を見出すことができます。
 
こうなるともはや濱公葉は「レズビアン差別主義者」であるばかりでなく、そもそもレズビアンを含めた〈女性〉に対するミソジニー(女性蔑視)を内面化した男性であり、その結果として〈女性〉の中でもとくに弱い立場にある「レズビアン」が攻撃に晒されているという認識が妥当かもしれません。
 
* * *
 
私は欅坂46が大好きです。
 
日本のアイドル史上に刻まれるであろう、去年の紅白での『不協和音』の壮絶なパフォーマンスに衝撃を受け、翌月の自分自身への誕生日プレゼントとして『真っ白なものは汚したくなる』の初回限定盤2種を買い求めて以来、通勤中の車内で飽きずに毎日聴いています。
 
今回の「百合展」中止を受けて「百合」に対するセクシストからのバッシングが押し寄せている最中にも『不協和音』『サイレントマジョリティー』『エキセントリック』『ガラスを割れ!』に大いに鼓舞されました。多作・量産ゆえの玉石混合や毀誉褒貶はあるとはいえ『世界には愛しかない』の「詩(誇張ではなく、実際にポエトリー・リーディングがフィーチャーされている)」を聴くかぎり、やはり秋元康は天才と言わざるをえないと思います。
 
去年の紅白で目覚めたばかりのにわかファンである私には、濱公葉なる人物が、欅坂46のファンダムにおいてどれだけの存在感や影響力をもっているのかはわかりません。ですが私は、濱公葉のせいで欅を嫌いになりたくありません。
 
その決意と、濱公葉による《レズビアン差別》の実態を世に伝えるべく、私はあえて今回の記事をまとめることにしました。
 
濱公葉は「秋元康氏は差別と暴力に関する声明を出すべきだ」と、一見するともっともらしいことを言っています。中には彼をフェミニストと誤認する人もいるでしょう。しかしそのようなアピールの動機が、じつのところレズビアンバイセクシュアル、さらには欅のメンバーたちを含めた〈女性〉に対する〈男性〉の支配欲・庇護欲を満たすためのものでしかなかったという実態がすでに判明している以上、濱公葉の署名に加担することは、むしろ彼自身の差別思想の免罪符に利用されかねません。
 
『月スカ』騒動も過去のものとなった今、わざわざ新たに署名する人もいないでしょうが、あえてお願いします。欅のことが好きな人も嫌いな人も、濱公葉の署名には絶対に参加しないでください。
 
異性愛至上主義とレズボフォビアに凝り固まった、濱公葉のようなセクシストに対しては、「百合」からも、欅からも、「去れ!」と言うほかありません。