総括:『おとボク』シンパとの対話

 もうこの退屈な話題にもいいかげん飽きてきました。べつに蒸し返すつもりはないのですが、ここ2ヶ月近く、家庭の事情で思うようにネットにアクセスできる環境にいなかったため、エントリーするのが遅れてしまいました。『おとボク』を巡る一連の議論(と呼ぶに値するかはわかりませんが)に関し、色々な意味で誤解されている部分があるようなので、ここであらためてハッキリさせておく必要があると思いまして。

 そもそも、僕が菅野たくみ氏と関わることになったきっかけは、9月30日の朝に彼から送られてきた一通のメールでした。
 内容は、「なぜ男が「百合」にハマるのか?」内の記事『僕は『おとボク』に恋しない。』に対して、氏が自身のブログ(http://blog.elder-alliance.org/?eid=535125)で反論をしたという報告。ようするに、僕が『おとボク』について述べた見解に対し、『おとボク』シンパの代表格である菅野氏が異議申し立てを行なったわけです。

 ところが、その「反論」の内容というのは……ただ自分が運営する『おとボク』ファン・サイトのURLを貼り付けただけ(苦笑)

 僕の書いた記事のどこがどう間違っているといった具体的ない指摘は一切ナシ。また、実際に菅野氏のサイトを見ても、僕が『おとボク』を嫌悪する理由について触れている箇所は一つもありませんでした。
 いくら『おとボク』シンパが『おとボク』の魅力を強弁したところで、それが僕の求めているものと相容れないかぎりは、僕が『おとボク』を受け入れる理由にはなりません。菅野氏が列挙する『おとボク』の魅力とやらを、僕はまったく「魅力」に感じない。すなわち、「同じ前提を共有していない」わけだから、反証として成立していないし、ましてや記事の内容を訂正する必要性も認められません。「せめて誤解を助長されないための配慮をいただきたく存じます。」と言われても、そもそも、僕の書いた記事のどこが「誤解」に当たるのか具体的に指摘してもらわないと「配慮」のしようがない(苦笑)

 冒頭で断り書きを入れているとおり、件の記事は僕が『おとボク』を嫌悪する理由について述べたにすぎず、けっして『おとボク』という作品の存在意義そのものを否定しているわけではありません。だが、菅野氏はそれを「批判」と受け取った。もちろんそれも自由です。しかし、そうである以上は、僕が指摘した事柄について、その正当性(非正当性)を一つひとつ論証していく必要があります。
 それを怠っておきながら、「一読して切って捨てる程度の文章」などと言われたところで、「ようは自分に都合の悪い意見から目を背けているだけじゃないの?」としか思えないのですよ。

 菅野たくみという論者の問題点は、文章読解力が致命的に欠如していること。そして話がすべて自己完結していることです。

 菅野氏はメールの中で、僕の『おとボク』に対する不快感が「『おとボク』でなくこの作品なら当てはまる」として、当該の作品のタイトルを、どういうわけだかご丁寧にメーカー名まで付して(苦笑)提示してきました。
 ようは「『おとボク』を他の“百合っぽい女装系エロゲー”と一緒にしないでくれ」と言いたいようですが、僕はべつに『おとボク』だけを槍玉に挙げたのではなく、“百合っぽい女装系エロゲー”なるジャンルそのものに対する違和感を述べたつもりです。
(それでも、菅野氏ブログのコメント欄で「否定しない」と書いたのは、あくまでも“必要悪”として認めているという意味であって、僕自身がそういったゲームを好んでプレイしているという意味ではありません)
 それに対して、「『おとボク』とその他の“百合っぽい女装系エロゲー”との違い」を提示されたところで、これまた論点を履き違えているのだから反証にはなりえません。

 そもそも、その『恋する乙女と守護の楯Axl-Soft、2007)』なる作品に僕の指摘が「ぴったり当てはまる」とする根拠自体が的外れ。エロゲーのプレイヤーが「主人公視点」なのか「第三者視点」なのかというのは、おそらく菅野氏にとっては重要なこだわりなのでしょうけれど、そんな菅野氏の超個人的な問題に僕を巻き込まれるのははなはだ迷惑です。

 また菅野氏は、僕が文中で批判した本田透の『おとボク』評について、「おとボクというゲームを真剣にプレイし、クリアしたという証左」と擁護していますが、しかし何をもって「正しい」と判断するのでしょうか? 物の感じ方は人それぞれなのだから、実際に『おとボク』をプレイした結果、菅野氏や本田と正反対の感想を抱くことだってありうるはず。
 だいいち、菅野氏の僕に対する一連の反論のとんちんかんな内容を読むかぎり、失礼ながら彼に人並みの文章読解力が備わっているようには到底思えず、そんな人の「正しい解釈」などまるで信憑性がないのですけれど。

 まして、「制作者ですら『なぜヒットしたか全然わからない』とされた、おとボクがヒットした理由についての分析」ということは、たんなる菅野氏の“脳内補完”である可能性もあります。
 もちろん、作品をどのように楽しもうと読者の自由ですし、僕自身も「柘榴ノ杜」内のコンテンツ『富江最終章考』において『富江 最終章 〜禁断の果実〜』という映画の“脳内補完”を試みていますが、それでも元来百合物でない『おとボク』を「百合として楽しめる」と言い張る錬金術まがいのレトリックは度が過ぎています。いくら微笑ましいファン心理とはいえ、作品のあるべき姿を捻じ曲げてまで擁護するのは、もはや「批評」と呼べるものではないし、ましてやそれを根拠に他人を説き伏せようとするのはフェアではありません。

 たしかに僕は『おとボク』をプレイしていない。したがって、その内容、すなわち菅野氏が『おとボク』の魅力として挙げる「細部の描写に特色があり、実際にゲームをプレイしないと分からないという特徴があります。これは、あらすじ・概略などからは決して見えてこない」云々について否定することはできません。

 しかし、裏を返せば、実際にプレイしなくてもわかる範囲であれば、自由に意見を述べる権利があるということ。

 というか、「細部の描写」はあくまでも作品のテーマを表現するための“手段”にすぎず、“テーマそのもの”ではないのですが。『マリみて』の文体を表層的に真似て、「細部の描写」にいくら凝ってみたところで、作品自体の“本質”まで取り込んだことにはならないのです。

 いかに「おとボクのゲームを正しくプレイ」しようと、『おとボク』が「百合ではない」という厳然たる事実は変わりません。裏を返せば、本来「百合」になりえない『おとボク』を「百合」だと言い張っている時点で、「おとボクのゲームをきっちりプレイ」することには何の意味もないことを、他ならぬ菅野氏自身が証明しているわけですね(苦笑)。

 お断りしておきますが、僕は『おとボク』が「百合でないから」駄作であるなどとは一言も言っていませんよ。菅野氏ブログのコメント欄でも書きましたが、『おとボク』に代表される“百合っぽい女装系エロゲー”は「百合とは似て非なるもの」として扱うべきであって、「百合」としてカテゴライズするのは不適切だと言いたいのです。『おとボク』を「百合」とカテゴライズすることに固執しているのは本田透や菅野氏に代表される『おとボク』シンパの方々なのです。そこを取り違えてはいけません。

 また、僕の記事が『おとボク』に対する「誤解を助長」しているというのであれば、そもそも百合物でない『おとボク』を「百合物」と呼ぶことで、同性愛に対する「誤解を助長」しているのは本田透ですし、菅野氏はそれに付和雷同したことで同じ批判が向けられるでしょう。
 僕は『おとボク』というゲームの内容自体について批判することはありませんが、彼らの異性愛中心主義に基づく言説については、きっちりと「批判」します。

 たしかに、僕が『おとボク』に“偏見”を抱いていることは認めますが、“偏見”と“誤解”は違いますよね。
 少なくとも僕は、僕自身が『おとボク』を嫌悪する理由と、その論拠を明確に提示しています。だから菅野氏に「独善的な意見や言い回し」などと言われる筋合いはありません。それでも“偏見”を抱くこと自体が許されないというのなら、『おとボク』シンパである菅野氏も、僕のようなアンチの視点に立って公正に物事を見ることができていないのだから、それこそ“偏見”ですよ。

 繰り返しますが、『おとボク』のプレイヤーが「主人公視点」か「第三者視点」かなんてことは、僕が『おとボク』を嫌悪する理由には何の関係もありません。おそらく僕が文中で用いていた(現在は修正済み)「覗き見タイプ」という言葉に反応したものと思われますが、それだって言葉尻を捉えずに文脈を正しく把握できたなら、生じるはずのない誤解です。

 同様の“そそっかしさ”は、その後の対応にも見受けられます。菅野氏は『おとボク』のコミック版を取り上げた僕のブログ記事について、「Ossie様もすでにおとボクの魅力はおわかりのご様子。」などと早合点していますが(苦笑)、これも当該の記事をきちんと読めばわかるとおり、僕はあくまでも「あらきかなおの作品」として評価したにすぎず、『おとボク』に対するスタンスそのものを変えたわけではありません。
 というより、コミック版『おとボク』への評価に関しては、僕がもともとあらきかなおのファンだということもあり、かなり“甘め”になっていることをお断りしておきます。だから「コミック版に対する評価が甘すぎる」という批判なら甘んじて受けますが(苦笑)、かといって「原作に対する評価が厳しすぎる」という意味にはなりません。

 ……それにしても、菅野氏のレスにある「小難しい議論」という言い回しには笑ってしまいました。エロゲーのプレイヤーが「主人公視点」か「第三者視点」か、などという他愛もない「ヲタ話」のどこが“小難しい”のでしょうか? さっぱりわかりませんが、ようするに「俺はこんなに“小難しい”ことを考えて文章にできる頭の良い人間なのだ」と言いたいのでしょうか。

 しかし、いくら「小難しい議論」とやらを弄したところで、「それでも俺は好きなんだー」といった趣味の主張に終始し、その正当性を論理的に実証できないのであれば、そんなものは小学生の読書感想文と何も変わりません。それこそ「一読して切って捨てる程度の文章」ですよ。