「当事者性」の孕む暴力

 差別問題を論じるにあたって、「当事者」「非当事者」といった分け方をすることがあります。

 しかし、何をもって「当事者」とするのでしょうか?

 同じカテゴリーに属するマイノリティであったとしても、抱えている問題は人それぞれです。

 なので、同じマイノリティであっても差別を問題に感じていない人がいます。

 そんな「非当事者」が、逆境に真っ只中にいる「当事者」に対して

「差別なんて気の持ちようだ。むしろ差別を気に病む方の『心の弱さ』が問題だ」

 ……などと説教を垂れたところで、状況は改善されるでしょうか?

 たしかに差別の問題は、差別を受けた側が、「他者から差別された」という事実について羞恥心や劣等感、罪悪感を抱いてしまうことにもあります。いじめ、DV、性犯罪などについても同じことが言えるでしょう。
 そのため、他者に救いを求める勇気がもてず、自分一人で解決しようとして問題をよけいこじらせてしまったり、さらにはもって行き場のない心の痛みが、暴力的な形で外側に表出されたりします。
 そんな「当事者」に向けて、まずは「自分を責める必要はまったくないのだ」と諭すことは意義があるでしょう。

 しかし、他人の内面に踏み込む権利が誰にもない以上、心の傷を克服するのはあくまでもその「当事者」自身です。

 その意味では、その「当事者」以外に「当事者」になれる人はいないと言えます。

 にもかかわらず、「自分と同じように生きるべきだ」「自分と同じように考えるべきだ」「自分と同じように感じるべきだ」などと、相手の事情や都合もわきまえずに自分の考えを押し付けるのは無責任きわまりない。

 もしかしたらその「非当事者」は、かつて「当事者」と同じような困難に直面した時、“そうすること”によって乗り越えることができたのかもしれません。かつての自分の姿を他の「当事者」に投影して、もどかしい思いをしているのかもしれません。

 しかし、他人を自分と同一視するのは慎むべきです。相手に共感し、相手の立場になったつもりで考えることは正しい。だけど、それはあくまでも空想上の体験であり、相手が直面しているのは「現実」の問題です。
 相手は自分の操り人形ではありません。他人が自分の思い通りに感じ、考え、行動しなければならないなどと考えるのは、実質的に相手を「支配」しようとすることと何も変わりません。

 だから、「当事者」が“自分を責めること”を責める権利など誰にもないのです。

 自分だけ「正しい知識」をもっていたとしても、世間に「間違った知識」が蔓延していたら、自分を貫くことなどできません。だから差別は“社会全体”の問題なのです。

 その意味では、“差別のある社会”に生きる誰しもが「当事者」と言えます。僕自身、そう考えてサイトをやっています。

 だからこそ僕は、同じ「当事者」が他の「当事者」を“差別”することを黙って見過ごすことができません。
 差別を「当事者」の“心の持ちよう”に還元するのは、結果的に問題を外部から“隠蔽”することに他ならないからです。

 心に“痛み”を感じるのは「心がある」からです。他人を傷つけることで自らの“痛み”から逃れようとする、「心ない人」にはなりたくありません。