「差別されるのがイヤなら差別する側に回れ」?

 評論家・山形浩生のサイトに「いじめ問題」を取り上げた記事があります。「Voice」という雑誌の07年1月号に掲載されたものです。

いじめる側の理屈を考えないいじめ対策は無意味

(前略)
 いじめから逃れる手は、ないわけじゃない。しかも、かなり実効性のある確実な手だ。なぜ知っているかといえば、ぼくがいじめから脱出するのにその方法を使ったからだ。
 それは、自分がいじめる側にまわることだ。
 相手は新しい転校生でもなんでもいい。新しい標的を見つけて、そっちにいじめの関心を誘導することだ。
 卑怯で残酷なやり方ではある。でも、いじめられているガキにはそんな判断をする余裕なんかありはしない。そして、それがいかに解放感をもたらしてくれたことか。もう標的じゃなくなったという爽快感。先週まで自分をいじめていた連中が、一転して自分の仲間になっているといううれしさ。自分が社会の中に居場所を持てたという帰属感。自分がいじめることができるんだという力の認識。そしてこれをやめたら、自分がまた元の地位に転落するという確信。
(中略)
 で、いじめはどうすればなくなるか? ぼくは知らない。が、世の中であれこれしたり顔で言っている人々はもっと知らないだろう。かれらはいじめられる苦しさもしらないし、それ以上にいじめる楽しさもしらない。そして、その両者が実はほとんど表裏一体だということなんか、決して考えもつかないだろう。いじめっこは、いじめられる苦しみを知らないからいじめるんだ、と多くの人は思っている。でも、いじめる側だって(一部の完全にたがのはずれた連中はさておき)それは熟知しているのかもしれない。熟知していればこそ、そこから逃れる最も確実な手段としていじめる側にまわる子もいるんだから。いじめられる側の苦しみを改めて強調すればするほど、そうした子たちは自分がいじめの一線のこちらがわに居残れるよう必死の努力をし、そしていじめはさらに継続することになるだろう。

 これは「いじめ」という現象の本質を的確に捉えた考察です。

「いじめ」と「差別」はけっしてイコールではありませんが(神名龍子『ジェンダー素描 「差異」と「差別」と「いじめ」について考える』参照)、「虐げられる側の気持ち」が身に沁みてわかるがゆえに、それを回避するための手段として「虐げる側」に回るという悪循環の形式は共通しています。

 昨日、僕はこのように書きました。

 もしかしたらその「非当事者」は、かつて「当事者」と同じような困難に直面した時、“そうすること”によって乗り越えることができたのかもしれません。かつての自分の姿を他の「当事者」に投影して、もどかしい思いをしているのかもしれません。

 あるマイノリティの当事者が同じ「当事者」に向けて「差別されたことを気に病むほうがバカだ」などと口にするのも、「いじめられるのがいやだからいじめる側に回る」というシステムをなぞっているように思えます。

 また、去年の参議院選挙でレズビアン尾辻かな子氏が立候補したことについても、一部当事者の間から「『マイノリティの可視化』なんて必要ない。自分たちは静かに生きていきたいんだからほっといてほしい」といったようなバッシングがありました。これも「いじめられるのがいやだからいじめる側に回る」という図式の再現と言えるでしょう。当事者である尾辻氏が矢面に立つことで、非当事者からの尾辻氏に対する攻撃が、そのまま当事者全体に対する攻撃となってしまう……という不安を反映しているのではないでしょうか。 

 しかし、当事者が同じ当事者を抑圧している様を見て、非当事者が自らの差別意識を正当化してしまう危険があります。「ほら、同じ当事者の間でさえ意見が分かれているじゃないか。だから当事者の問題に非当事者が首を突っ込むのはかえって足手まといになる。やはり当事者だけで解決させるべきだ」――

 もちろん「同じ当事者」であるからといって統一された見解を共有する必要はありません。しかし、それならなおのこと「当事者」「非当事者」という単純な二極化はナンセンスです。そのような認識は、結果的に「当事者」を一つの枠に押し込め、マイノリティを社会から孤立させてしまいます。