差別に対して「中立」であれ?

 ここのところ、維新政党・新風の失墜ぶりが甚だしい。

 維新政党・新風は、ネット上で巻き起こった「嫌韓流」ブームの波に乗り、一時期は2ちゃんねるを中心に熱狂的な支持を集めていた極右団体である。その構成員であり、後に党の代表となった松村久義(昨年逝去)が、2004年の参議院選挙に出馬した際、同性愛の違法化および同性愛者の処罰・隔離を主張していたことは記憶に新しい。

 →東京メトロポリタンゲイフォーラム '04 第20回参議院議員選挙 東京選挙区候補者回答

 しかし、いかんせんしょせんは「極右」。その度を越した排外思想に起因する過激なパフォーマンスの数々によって、一定のリテラシーをもった支持者は徐々に離れていった。かつては2ちゃんねるのヒーローとして祭り上げられていた新風だが、今ではすっかり「ヲチ対象」として、2ちゃんねらーの恰好の遊び道具となっている。

 事の経緯はまとめサイトを参照→新風連ヲチスレテンプレ置き場

 さて、ここからが本題。

 今日、ふと何げなく、インターネットの電子辞書「Wikipedia」で、上述の『松村久義』の項目を開いてみた。

 ご存知のとおり、「Wikipedia」の記事は「中立的な観点」に則って編集することが義務付けられている。
 だが、件のページの中で、この「中立」という概念について疑問を抱かざるをえないやりとりを目にしてしまったのである。

 当初『松村久義』の項目には、「Hkato」というユーザーによる以下の記述が掲載されていた。
(正確に言うと、それ以前にも何回か編集されているのだが、本件とは無関係なのでここでは割愛)

===同性愛者に対する差別発言===
2004年の参院選の際、松村は、法的に同性愛を禁止し、同性愛者を処罰・監禁するべきだという主張を展開したため、同性愛者団体のみならず、維新政党・新風の党員、支持者たちからも顰蹙を買った。

 しかし、これに対して「Maihamanezumi」というユーザーが、

顰蹙を買ったという出典が不明。また現代日本においてあまりなされない主張とはいえ「差別発言」とするのは中立的とは言えない。

 ……ということを理由に以下の書き換えを行なった。

===自由奔放な言論===
2004年の参院選の際、松村は、法的に同性愛を禁止し、同性愛者を処罰・監禁するべきだという主張を展開した。

 これをきっかけに、HkatoとMaihamanezumiの間で「編集合戦」が勃発する。以下、それらに付随する両者のコメントのみ抜粋。

Hkato:
これが差別発言でなければいったい何?というくらい非常識な発言ですがね
 
Maihamanezumi:
出典不明、非中立であるため戻す。常識は事実とは違います。
 
Hkato:
(「===自由奔放な言論===」を「===同性愛者に対する差別発言===」に変更。コメントなし)
 
Maihamanezumi:
あまり必死にならないで下さい。中立が基本ですよ。外部リンクもゲイのサイトだけが載っているのは不自然なので削除しました。
 
Hkato:
外部リンクを両方とも載せればいいだけのこと

 ……以降、Maihamanezumiからの反応はなく、現在に至るまでHkatoによる記述がほぼ採用されている。

 他人には偉そうに「中立」を要求しておきながら、自らは「あまり必死にならないで下さい。」などと「中立」さの欠片もない挑発的な口の利き方をするMaihamanezumiによれば、

同性愛は法律で禁止すべきである。

日本社会から、ホモの排除を要求する。

同性愛者を隔離し、異性愛社会への感染を防ぐ。

 ……などといった松村の発言を「差別」と呼ぶことは「中立的とは言えない」らしい。

 しかし、それらについて「自由奔放」という肯定的な言葉で表することが、はたして「中立的」と言えるだろうか?

 このことからわかるとおり、人が差別について「中立」の態度を取ることは不可能なのだ。なぜなら、それはすなわち差別を容認することと同義だからである。

 ましてやMaihamanezumiは、松村の発言が「差別」に当たらないとする自論の根拠についていっさい述べていない。他者に「中立」を説くのであれば、自身の正当性を他者が「中立」に判断するための材料を提示すべきである。

 じつのところMaihamanezumiは、「中立」を盾にしながら、自らの差別意識を絶対化しているにすぎない。

 差別をする者が、自身の言動を「差別」と認めることは、まずありえない。彼(女)らの詭弁術を見破る知性を、私たちは磨いていかなければならない。