サンデー毎日の「ゲイ映画」紹介記事

サンデー毎日 2009年4月12日増大号」内
『映画も人の世も最初に「道」を切りひらく「誰か」が存在する』
(P36 著:木下昌明 刊:毎日新聞社
 
 かつて映画の主人公に、観客(筆者)は安心して同化しラブシーンにうっとりしたものだが、近年、男同士や女同士のラブシーンが増え、これには途方にくれることもしばしばである。同性愛に対する社会的関心の現れなのだろうか。
 昨年は「ブローバック・マウンテン」がアカデミー監督賞、今年は「ミルク」がアカデミー主演男優賞に輝き、同性愛を扱う映画は市民権を獲得しつつある。が、ミルク役を演じたショーン・ベンのラブシーンにはうっとりどころか「役者って大変だなぁ」という思いが先に立つ。とはいえ、同性愛ものが理解できるようになったのは「ミルク」のもとになったロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセンの「ハーヴェイ・ミルク」(1984年)のお陰だ。
 これは70年代のサンフランシスコを舞台に、さまざまなマイノリティーの人権を求めてたたかい、暗殺されたミルクという一人のゲイの生涯を描いたドキュメンタリーだ。(中略)なかでも、学校から同性愛の教師をしめだす<提案>に全米を巻き込んで反対したミルクのエネルギーは多くの共感を呼んだ。(中略)
 また、人は自ら好んでゲイになるのではなく、突然ある時、ゲイと気づかされる。そしてゲイであるとは、同性愛をさげすむ社会と立ち向かわなければ自分自身にはなれないこと、そのためには恐れずにカムアウトすることが大切である――と映画は訴えている。
 近々公開の「ミルク」と併せて見るといい。目からウロコの一作だ。

 なんとも奇怪な記事である。「近々公開」の映画があるならその内容について紹介すべきところを、そちらのほうは木下個人の好みに合わなかった(知るかよ)という理由で自分が気に入ったという大昔のドキュメンタリー映画を取り上げる。この記事は「News Navi」というコーナーに掲載されたものだが、25年前の作品について述べた記事のどこが「News」なのだろうか。

 まぁ、それはさておくとしても、「男同士、女同士のラブシーン」についてさんざん「無理解」な文章を書き立てておきながら、「とはいえ」という接続詞に続けて何の根拠も示さずに「同性愛ものが理解できる」などと自負されたところで読者はそれこそ「途方にくれ」てしまう。
 また映画評論家でありながら「観客」の中に同性愛者が含まれている可能性をまるで考慮しない想像力のなさにも唖然とする。自身をさも「観客」の代表であるかのように位置づけた上で、その偏狭なホモフォビア的感性を「観客」全体に押し着せる態度が何よりの証拠である。

 そのことについて、「同性愛もの」の存在自体を否定しているのではなく、異性愛者がそれを観て「うっとり」する現象が異常なのだ、というレトリックは通用しない。その論法に倣うなら、同性愛者が「異性愛もの」を観て「うっとり」した場合も、同様に「異常」という帰結が導き出されてしまう。
 俗に「異性愛もの」を「ノーマル」と称する向きもあるが、そのようにして「同性愛もの」を「アブノーマル」と決めつける発想は、たんに現実社会における異性愛至上主義の構造をフィクションの世界で再現しているにすぎない。

 ついでに言うなら、「同性愛の教師」という言い回しもスゴい。かつて同性愛者のことを「同性愛」と称していた時期があった。しかし、それは同性愛者を同じ「人間(者)」扱いせず、あたかも「物」として扱っているようなニュアンスがある。こうした無神経な言葉遣いをする木下が、いったい同性愛の何を「理解」した気になっているのか甚だ疑問だ。

 けっきょくのところ、木下が同性愛者に対して向ける「関心」の内容は、「理解」でも「共感」でもなく「同情」にすぎない。「同情するなら金をくれ!」というドラマの台詞が大昔に流行ったけれど、それはしょせん<セクシュアル・マジョリティ=異性愛者>の社会的権威に依存した優越意識に起因するものであり、ひいては木下自らが「同性愛をさげすむ社会」の側に属する人間であることを露呈している。

 もっとも、この薄っぺらな記事にもそれなりの意義はある。
 従来、文中の『ハーヴェイ・ミルク』に代表されるドキュメンタリー映画は、セクシュアル・マイノリティ当事者が直面している現実社会の問題を非当事者にアピールする手段として有効なものと考えられてきた。
 ところが、この記事が実証してみせたのは、そのように被差別者の不幸を強調することが、むしろ<非当事者=セクシュアル・マジョリティ>の優越意識を肥やすことに繋がるという「不都合な真実」である。むろん、まったく無意味とまでは言わないが、諸刃の剣であることは認識すべきだろう。

(2009年4月14日 追記)

 大幅に加筆修正してサイトにアップしました→同性愛啓発における「ドキュメンタリー的手法」の功罪