少子化問題にまつわる同性愛擁護のレトリックを検証する。

 ちょうど1年前の今日、私はサイトの中で、ブログ「みやきち日記」における森永みるく『くちびる ためいき さくらいろ』評に対する反論を行なったが、そこで指摘したみやきち氏の場当たり的な物言いは、2009年1月27日付けでアップされた『10代レズビアンは同年代異性愛女性よりも妊娠のリスクが高いんだそうですよ。』というエントリーにおいても顕著に発揮されている。

 当該エントリーの中から要点を抽出する。

「同性愛が蔓延すると少子化が進み、人類が滅びる!」みたいな妄想を抱えて必死にシャドウボクシングしている異性愛者の皆様は、こういった報告をどう受け止めるんですかねえ。

「男とヤれるならレズじゃないじゃだろう」? それは間違い。同性愛者が異性とセックスしない/できないというわけではありません。それは、異性愛者が同性とセックスしない/できないわけでもないのと同じ。

要するに、自分の性的指向を否定するため、あるいは隠すために、過剰なまでに異性愛的な性行動をとってみせないとならない、ってことがあるんじゃないか、ってことでしょうか。これはかなりうなずけると思うんですよ。

やっぱ本当に少子化云々を憂えるなら、妄想だけででっちあげた「一生子供を作れない性的少数者像」叩きに夢中になるよりも、LGBTが安心して(←ここ重要)子供を作ったり(何度も言うけど異性とセックスできる同性愛者は少なくないし、たとえセックスしなくても人工授精だってできます)育てたりできる社会的システムを作ることに力を注いだ方が建設的よねー。

 つまり、みやきち氏は「同性愛が蔓延すると少子化が進み、人類が滅びる!」という異性愛至上主義のクリシェを否定するために、「一生子供を作れない性的少数者像」スケープゴートにする形で、レズビアンの中に「安心して(略)子供を作ったり(略)育てたり」することを望んでいる者がいるという反例をもちだした。それはすなわち、レズビアン当事者であるみやきち氏自らが、レズビアンの側に対して少子化を回避するための「社会的システム」へのコミットメントを要求していることを意味する。

 しかし、そうしたみやきち氏の論旨展開は相も変わらず粗雑なものである。

「同性愛者が異性とセックスしない/できないというわけではありません。それは、異性愛者が同性とセックスしない/できないわけでもないのと同じ。」というのはたしかにその通りで、後者の例では「ニューギニアのサンビア族では、男性同士の性交行為が通過儀礼として制度化されている」という報告もある(Wikipedia『同性愛』より)。いずれの性的指向においても、単純な「行為」としてセックスをすることと、相手に対して自発的に性欲(≒恋愛感情)を抱くことは、まったくの別問題だ。

 だが、「自分の性的指向を否定するため、あるいは隠すために、過剰なまでに異性愛的な性行動をとってみせ」る場合の性行動が“自発的”な性欲の発露であるはずがないし(“自発的”であればバイセクシュアルだ)、またその結果としての妊娠も、おそらく当人にとっては(「同年代異性愛女性」の妊娠と同じように)不測の事態であろうから、母親になりたいという“自発的”な意思に基づく妊娠と同一視することはできない。

 しかるに、そんな彼女たちを救済する手段としてLGBTが安心して(略)子供を作ったり(略)育てたりできる社会的システムを作ることに力を注」ぐことを主張するのは、むしろ彼女たちレズビアンをそうした自暴自棄の性行動に駆り立てる異性愛至上主義の「社会的システム」をいっそう強化することになりはしないか。仮に子作り・子育てを希望するレズビアンがいたとしても、まずいったんはそういったジェンダー・バイアスから解き放つプロセスが必要不可欠である。

 また同様のクリシェとして「異性が嫌いだから同性に“走る”」というものがあるけれど、それに対して「レズビアンの中にも男性経験のある者はいる」というレトリックを用いるなら、男性経験のないレズビアンは同じレズビアンの中でも差別されることになる。

 そして、さらにそれを突き詰めていけばレズビアンをやめる必要はないからバイセクシュアルを目指せばいい」という“バイセクシズム(両性愛至上主義)”に帰結する。そうなると「グヘヘ俺が『父親』になってやるぜ」といった“ホモフィリア嗜癖も、正当化されるとまではいかないにせよ、完全に否定しきれないていどの正当性を帯びてしまう。

 むろん、みやきち氏にそんなつもりはないのだろうけれど、そうしたレトリックが成立する余地を許してしまう脇の甘さが「場当たり的」なのである。

 加えて「生殖を望まない異性カップル」の存在を視野に入れていないのは、少子化問題をめぐる議論としては片手落ちだ。また「子作り(生殖)」と「子育て」を一括りにしている点も気になる。「子育て」がしたいだけなら、なにも自分たちで作らずとも養子を取るという選択があるのだから「異性とセックスできる同性愛者は少なくない」ということをいちいち強調する理由がない。みやきち氏は、それほどまでにレズビアンを男とセックスさせたいのだろうか。

 そもそも、セックス「できる/できない」こととセックス「する/しない」ことの間には大きな開きがある。現代の建築技術をもって大阪城を再現することは「できる」が、その必要がないから誰も「しない」ことと同じである。

 以上のことを鑑みれば、むしろ子供が欲しくても経済的事情から断念せざるをえない異性カップルを支援する「社会的システム」の構築を先決とするほうが、主張としてはよりスマートであろう。その実現によって、LGBTが安心して(略)子供を作ったり(略)育てたりできる社会的システム」も自ずと達成されるはずである。

 しかし何だかんだ言ってもみやきち氏の思想には、セックスの“本義”を生殖に求める異性愛至上主義の固定観念が(おそらくは本人ですら自覚できないほどに)深く根を下ろしているように見受けられる。

「異性とセックスしない/できない」ことが同性愛者の定義ではないように、みやきち氏がレズビアン当事者であることは、異性愛至上主義の回避を証明する根拠にはけっしてならない。

 当事者性に依拠するみやきち氏の論説が、かつて私が指摘したとおりヒステリックな感情論に終始し、はなはだ論理的整合性を欠いている理由も、そのあたりの自己矛盾に端を発しているようだ。