「コバルト」新人賞の“ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)”的百合小説〜桜田エミ『お嬢様のお守り袋』

 『マリみて』の新刊が今月末に出るという。何か具体的な情報は得られないものかと思い、書店で「Cobalt」(2012年5月号 集英社)を手に取ったところ、たまたま「第157回コバルト短編小説新人賞」の結果と、その入選作品が掲載されていた。

 入選作品は桜田エミ『お嬢様のお守り袋』。同作は同誌の年間最優秀賞の候補にも挙げられているが、こちらは受賞を逃した。

 レトロなタイトルからもわかるとおり、舞台はおそらく明治から戦前にかけての日本。主人公の女学生【みつ子】は子爵家の長女【鳩子】の「御相手さん(遊び相手)」を務める一方で【鳩子】に恋心を寄せていた。しかし【鳩子】は伯爵家の長男【晃】に執心している。

 そんなある時【みつ子】は【鳩子】が手製の「お守り袋」に入れて大切にしていた【晃】の直筆のメモ書きを、ひょんなことから手に入れるも、うっかり紛失してしまう。そこで【晃】の元へ赴き、何か代わりとなる手書きのものを貰おうとするが、それを機に【晃】にも恋をしてしまう。

 やがて【鳩子】と【晃】の間に縁談がもちあがる。【みつ子】は自身の複雑な心中を「いやな煙」という言葉で表す。

(p.541-452)
 帰りがけ、うつむいて御太鼓橋を渡る。足下には苔が生えていた。
(どうしていやな苔が生えちゃうのかしら)
 どうしていやな煙が出ちゃうのかしら。いつまでも、きれいな心でいたいのに。
(わたしはなにが悲しいのかしら)
 大好きなお嬢様がお嫁に行ってしまうこと。
 それとも……瞼の裏に晃様の笑顔が張り付いてしまったこと?
(男の人なんかきらいだわ。わたしはずっと、お嬢様と遊んでいたかったわ)
 折り紙をしたわ。お手玉をしたわ。カルタもしたし、お人形遊びもしたわ。折り紙はお嬢様のほうがお上手で、お手玉はわたしのほうが上手だったわ……。お屋敷の奥の小さなお部屋で、わたしたちは楽しかったわ。しあわせだったわ。お嬢様が並べる絹の端切れのように、やさしい色やきれいな色をした素敵な手触りの時間だったわ。いやな煙なんて、一筋だって立ちのぼらなかったわ……。
「わたしって、ひとめで好きになっちゃった相手は、ずっと好きなのよ。困ったものね」
 鳩子様のことも。
 そしてきっと、晃様のことも。

 ところが、ふたたび【晃】の元を訪れた際、彼の正体がじつは【晃】ではなく、その従弟の【豊】であったことが判明する。従弟といっても父はすでに伯爵家から勘当されており、平民として暮らしているという。つまり【みつ子】との間に身分差はない。

(p.544)
 心の中の黒い煙は、いつの間にかさっぱりと掻き消えた。けれど黒い煙がきえたからといって、やさしいきれいな時間に戻れるわけではないことは、ぼんやりと感じる。
 みつ子は初夏の光のような鮮やかな気持ちに酔いながら、人生初の恋の山場を今まさに迎えようとしていた。

 かくして【鳩子】と【晃】、そして【みつ子】と【豊】は共に両想いとなり、めでたしめでたし、という筋書きである。

 ……いくらなんでも、そりゃないだろ。一読して、思わず口を突いて出た。

 作者は【みつ子】が【鳩子】と過ごした《やさしいきれいな時間》《お屋敷の奥の小さなお部屋》における「折り紙」「お手玉」「カルタ」「お人形遊び」などに象徴し、それを妨害する存在として男性を位置づけた上で、けっきょくは男性を受け入れさせる。

 これは端的に言って、同性への恋慕を一過性の疑似恋愛と決めつけ、異性への愛に“目覚める”ことをもって「成長」とする、じつにステレオタイプなヘテロセクシズム(異性愛至上主義)の物語にすぎない。

 仮に【みつ子】をバイセクシュアルと解釈したところで、【鳩子】への恋愛感情を描写するにあたり、上掲した、ことさら幼児性を強調する表象を並べ立てる様には、レズビアニズム――断っておくが【みつ子】が「レズビアン」であるか否かは何の関係もない――に対する作者の悪意が滲み出ている。

 あるいはセクシュアリティの揺らぎを表現したのだ、という見方もあろう。それでも【みち子】の【鳩子】と【晃】に向ける想いは、はたして同質だろうか。【みち子】の【鳩子】に対する想いは、後から現れた男性に取って代わられることで《いつの間にかさっぱりと掻き消え》てしまうほど薄っぺらなものだったのだろうか。

 ましてや【豊】を【晃】と誤認した上で恋していたのだとしたら、なおのことそう易々と【豊】へと気持ちを切り替えられるものだろうか。この奇を衒った趣向のせいで【豊】の存在がプロットの上では終盤になって唐突に浮上した格好となる。

 かくしてあたかも数学の方程式か何かのように、同性の存在が《さっぱりと》異性に置き換えられてしまう。その精神性を《鮮やかな気持ち》と表すのなら、それは思春期の少女の恋愛をヘテロセクシズムの見地から都合良く観念化・記号化したことにより、感情の淡いグラデーションが塗り潰された不毛なハイ・コントラストの効果である。

 おまけに【豊】が【晃】と“たまたま”瓜二つで、それでいて【みつ子】と“たまたま”同じ身分で、さらには【豊】の方も【みつ子】に惚れていたという三重のご都合主義は、いかにも取って付けたようで、図らずも《男と女が出会えば結ばれるのが当然》という作者のヘテロセクシズムに根ざした固定観念を露呈している。

 そのエクスキューズとして機能するのが「明治から戦前にかけての日本」という舞台設定だ。

 この当時、同性愛は精神医学の上で《変態性欲》《性的倒錯》などと位置づけられ、その社会的抑圧は、現代と比較にならないほど強大なものであった。まして青少年の“婚前交渉”はおろか友人としての付き合いさえ「不純異性交遊」と見なされていた時代である。それほど封建的な世相にあって自己を「同性愛者(ないしは両性愛者)」として認識することは、フォビア(嫌悪)の対象であるどころか、選択肢の一つとして考慮すらされなかったと捉えたほうがいいかもしれない。

 しかし大昔の日本を描いたものであろうと、それを描くのは現代を生きる作家だ。【少女に恋する少女】たちを取り巻く環境は、作品の舞台となった時代から大きく変化した。今や同性愛は「精神病」として扱われることもなくなり、少しずつ社会に可視化されつつある。功罪両面あるとはいえ『マリみて』に象徴される「百合ブーム」もその一端を担うものであろう。

 しかるに、そうした現在進行形の感性を提示できないのであれば、作者が生まれてもいない時代をあえて描くことは、人間のセクシュアリティをめぐる社会状況を後退させ、未だ根強く蔓延る差別や偏見を追認する結果にしかなりえない。

 あまつさえ《初夏の光のような鮮やかな気持ち》なる陳腐きわまりない比喩、《人生初の恋の山場》というデリカシーの欠如した無粋な言葉で物語を締め括ってしまうセンスには、表現者としての覚悟も矜持も感じられない。このような駄文書きをいつまでも許しているから、ライトノベルはまともに「文芸」として扱われないのだ、と嫌みの一つでも言いたくなる。

 なお受賞にあたっての審査を務めたのは、同号に『政と源』の後編を掲載する直木賞作家の三浦しをんと「コバルト」編集部員5名。三浦と言えば、かつては一迅社の百合漫画専門誌「コミック百合姫」誌上で百合漫画評論『百合の花粉は落ちにくい』を連載していたが、その三浦を含め、本作の論評にあたって上述したヘテロセクシズムの問題を指摘した評者は一人もいない。

 否、三浦の同連載における《あ、いっそのこと、シャラトとジョルジュが恋仲になって、娑羅とシュナックとそれぞれ偽装結婚したらどうかな。駄目か。八方丸く収まるいい方法だと思ったのだが。(有吉京子『アプローズ ―喝采―』評より)》《もういっそのこと、風花は一太とつきあってもいいかもしれない(kujira『GIRL×GIRL×BOY 乙女の祈り』評より)》《いやいや、まだ小世子と山切という線もありなんじゃないか?(門地かおり『小世子さんと微妙な生活』評より》などの数々の言辞を鑑みれば、むしろその“バイセクシズム(両性愛至上主義)”ゆえに支持されたと捉えた方が適切か。