【ネタバレあり】障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時『聲の形』

(註 連載開始前の読み切り作品を読んだ時点の感想であり、連載およびアニメ版や実写版を含めたその後の展開については述べていません。あらかじめご了承ください)

【衝撃作】 週刊少年マガジン(12号)の特別読切「聲の形」(こえのかたち)は必読です。とにかく凄い作品です
http://togetter.com/li/459336

今号の「週刊少年マガジン」(2013年3月6日号 講談社)に掲載された読み切り作品『聲(こえ)の形』が、発売早々、ネット中の賞賛を浴びている。ちなみに作者は冲方丁原作『マルドゥック・スクランブル』の漫画版の作画担当者として知られる大今良時

主人公の男子が通う小学校のクラスに、聴覚障害者の少女が転校してきたところから物語は始まる。

聴覚障害といっても様々なレベルがあるが、この少女は補聴器をつけても音が満足に聞き取れず、筆談あるいは手話でしか会話ができない。こうした重度の場合は聾学校に通うものだが、この少女は普通学級に転入してきたために、結果として他の生徒にも負担をかけ、やがてそれを理由に陰惨なイジメを受けるようになる。

少女へのイジメは男女問わずクラスメート全員が加担していたが、特に中心となって実行していたのが主人公であった。しかし調子に乗って補聴器を何度も破壊したことで、少女の親が学校に相談したことからイジメが露見。主人公だけが罪を被せられる格好となり、逆にイジメを受ける立場となる。

それから5年後、高校生となった主人公は少女と再会し、手話を通して「俺と お前 友達に…なれるか?」というメッセージを伝える。そして少女の側も、それをあっさり受け入れて“ハッピー・エンド”となる。なお最後のページの欄外には《動き出した2人の不器用な青春! 応援よろしくお願いします!》とあることから、読者の反響によっては続編の連載もすでに準備しているのかもしれない。

このテの漫画の定番として、障害者は徹底的に純真無垢な聖人君子として描かれる。

たとえば主人公が少女に暴力を振るい、怪我をさせたことで教師から説教を受けた後には、少女が自ら主人公に筆談を通して「ごめんなさい」と告げる。さらに主人公がイジメられる側に転じた際も、喧嘩に負けて怪我をした主人公の血をハンカチで拭ってあげたりする。

ところが主人公はそんな少女の行いを否定し、

言いたいことあんなら言えよっ!!
ヒキョーなんだよテメーは!!
だんまり弱いフリして先生味方につけてよォ!!
一度でも腹の底にある気持ち言ったことあんのかよ!!

……と詰め寄って少女を蹴りつける。もっとも、この時はさすがにお人好しの少女も応酬し、とっくみあいの喧嘩となる。このシーンは、主人公と少女が初めて心を通わせた出来事として作中で位置づけられている。

再会の際、その件について主人公は「傷付け合うことでしか声を伝えられなかった」と述懐する。元はと言えば健常者である主人公が、その社会的優位性に基づいて障害者の少女を一方的に“傷付け”ていた(あるいは加害者が被害者を逆恨みして勝手に“傷付”いていた)にすぎないのだけれど、追い詰められた障害者の側がいよいよ対抗したことをもって、あたかも「喧嘩両成敗」であるかのごとく印象操作するのである。

なんのことはない、使い古されたイジメ正当化の論理だ。

じじつ主人公は、イジメについては一言も謝罪することなく、あまつさえ、

(※引用者註 手話を)覚えた 一言文句言うために
お前の声が聞こえないせいでいろいろ苦労したんだよ
あの時 お互いの声が聞こえてたら どんなに良かったか

……としてあたかも少女の側に落ち度があるかのような物言いをするのである。

しかし少女はつねにノートを持ち歩き、懸命に他者とのコミュニケーションを取ろうとしていたはずだ。そのノートを、かつての主人公は池に放り投げたあげく、それを拾うために池に入った少女を「うわっ マジかよ!! きったねー!!」と嘲ったのである。

そのような状況下で、仮に少女の「(と主人公が勝手に期待していたもの)」が主人公に“聞こえてたら”、はたして主人公はイジメをやめ、かつ他のクラスメートにもやめるように働きかけただろうか。「声」の表現手段が不自由なのをいいことに、相手の感情を無視する人間に対して、いかなる「声」が届くとも思えない。

また主人公は健常者の身でありながら手話を覚えた努力をひけらかすが、その努力は障害者の側とて、それも当然のものとして経験している。その程度のことをもって健常者が障害者と同じ目線に立ったつもりでいるなら、そうした思い上がりこそが“特権”である。主人公にとってはただの自己満足にすぎないが、聾唖者にとっては補聴器やノートと同様に、生きていく上で不可欠の技能だから習得せざるをえないのである。

聲の形』において障害者の存在は、ただひたすら健常者に迷惑をかけ、健常者が必要としない努力を課され、その上でなおもそうした「原罪」を責め立てられることによって、はじめて健常者に“受け入れてもらう”ことを許される。

何かによく似た図式だと思ったら、レイプ被害者の女性が加害者の男性に転移し、あげくのはてに結婚までしてしまうというポルノの「レイプ・ファンタジー」そのままだ。少女が抵抗しなかったことを理由にイジメを正当化する主人公の姿は、被害者が抵抗しなかったことを理由に「和姦」を主張するレイプ犯と何も変わらない。

そんな主人公の言葉に反して、仮に少女が主人公に憎しみの言葉をぶつけ、そして最後に主人公との和解を拒絶するという選択を取ったなら、この作品は成立しない。物語を健常者の読者にとって気持ちの良いオチで締め括るためには、そのじつ障害者に健常者を憎むことはいっさい許されないのである。

* * *

とはいえ、作者の側はこのような批判を受けたところで痛くも痒くもないのだろう。

最初のページの欄外には《「すばらしい!」「でも載せていいのか!?」編集部に激論を巻き起こした、余りにみずみずしい青春!》とのコメントがあり、予防線の役割を果たしている。すなわち、編集部の側も読者の一部から寄せられるであろうネガティブな反響をあらかじめ見越した上で公開に踏み切ったのだという、言わば“確信犯”的な姿勢をアピールしている。

だが、じつのところそうしたポーズ自体が、作品にとって都合の悪い意見を一括して「ネガティブ」なものと印象づけた上でなされる姑息な態度である。マンガの中で「イジメ」「差別」「暴力」を描くこと、そしてそのようなマンガを掲載することに社会的な意義を感じているのならば、そうしたエクスキューズや“煽り文句”を掲げるなど必要ないはずだ。

「イジメ」「差別」「暴力」の描写を目の当たりにしたなら、誰もが衝撃を受ける。ゆえにそれらは不快でありながらも、しかしある種のカタルシスを伴う。《健常者は障害者をいたわらなければならない》《障害者をイジメてはならない》といったタブーを、あえて犯す快感である。

結果、そこで思考停止が起こる。《差別表現》に対する批判はタブー破りの快感を妨げるものとして、それこそ“うざったく”不快に感じられるようになってくる。

こうした心の働きは、ポルノグラフィの視聴における「脱感作」と同一だ。凄惨なレイプ映像を見ることで、初めのうちは強い嫌悪感を覚えたとしても、その衝撃は時間の経過とともに薄れ、やがてエロティックな情動のみが残る。

またポルノのバリエーションとして、加害者が因果応報的に悲惨なラストを迎えるというものもあるが、これも『聲の形』のストーリー展開に踏襲されている。

この趣向によって、視聴者の側が《現実の被害者》に転じることはない。ただレイプに興奮を覚えたことの後ろめたさが相殺され、心置きなくレイプを楽しめるようになるだけだ。

作者は、言葉の上ではけっしてイジメを正当化しないと言い張るだろう。だが、それでもなお『聲の形』がポルノグラフィの様式に則って作られていること――すなわちイジメを「擬似ポルノ」として読者に提供するマンガであることは揺るぎない事実だ。

「イジメ」「差別」「暴力」の描写が、たんに不快であるという理由で作品を排除しようとするのはナンセンスだ。しかし表現の差別性をめぐる議論を、読み手個人の快・不快の感情論に回収する思考は、つまるところその裏返しにすぎない。

元より、問われるべきは「イジメ」「差別」の問題に対する作者の認識や姿勢であって、それは表現の快・不快を越えた次元にある。

それをマンガの中で「イジメ」「差別」を描く試み自体に対してのヒステリックな(低次元の)バッシングに摩り替えるレトリックは、作品に関する自由な議論を妨げるものだ。

加えて本作は「全日本ろうあ連盟」がその監修に携わっている。当事者団体の“お墨付き”も得ているというわけだ。これもまた、思考停止に有利な免罪符として機能する。

非当事者の独善とナルシシズム(わざわざもったいぶって旧字体「聲」を使う嫌味なセンスにもそれが顕著だ)を自己肯定するにあたり、当事者の「声」を都合の良い“記号”として利用する行為の権威性と暴力性にも、読者は注意を払うべきではないだろうか。