自称「虹色ソーシャルワーカー」が提唱する“政治的に正しい差別”

(2013年4月10日 タイトル変更)

悠飛 @Yuhi_Ogino
https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296217141227712512
実際問題、政策等で「同性愛」という言葉が入ることは難しいし、バックラッシュされて消されやすくなると思う。だから、「性的マイノリティ」という言葉は、性同一性障害や同性愛だけでなく無性愛等も包括できるとともに、「同性愛」の隠れ蓑になる役目もある。(続く)

悠飛 @Yuhi_Ogino
https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296218642763378688
(続き)だからこそ、「性的マイノリティ」という言葉が使えなくなるということは、「同性愛」という言葉によってバックラッシュが始まり、受けられていた支援がなくなる、必要な支援が届かなくなるという事態を引き起こす可能性もある。

悠飛 @Yuhi_Ogino
https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296221337398153216
@mey_mya_chujy そう、隠れてる。別に悪いことなんてしてないのに。本当なら、真っ正面から戦えばいい。けれど、相手が強すぎて、体力を消耗して倒れる。でも、同時に「性的マイノリティ」に含まれる同性愛を使って、既成事実みたいなものを作る。今度はその事実を糧に戦う。(続く)

悠飛 @Yuhi_Ogino
https://twitter.com/Yuhi_Ogino/statuses/296222541788352512
@mey_mya_chujy (続き)今は、"戦う"と"事実を作る"の行ったり来たりをしてる途中。そして最後に「同性愛」を独立させる。「性的マイノリティ」という言葉には、戦略的な意味・意義もあると考えています。遠回りっぽいけど、「急がば回れ」という言葉で表現できると思います。

@Yuhi_Oginoのプロフィールを見ると、

めざせ虹色ソーシャルワーカー!「性的少数者(LGBT)に関するソーシャルワーク」に興味がある日本社会事業大学3年。「いのちリスペクト。ホワイトリボンキャンペーン」にてLGBTの自殺対策に関する活動をしています。(後略)

……とある。

  • なおプロフィール中にある「いのちリスペクト。ホワイトリボンキャンペーン」なる団体は、『アメリカ心理学会の同性愛に関する見解』などの重要な資料を公開する「ホワイトリボンキャンペーン」のサイト(http://ww35.tiki.ne.jp/~yossyossy/index2.html)とは無関係。ちなみに「ホワイトリボンキャンペーン」とは「性的少数者LGBT)」に限らず、白いリボンを象徴とする社会運動の総称であり固有名詞ではない。

さて、なにやらもっともらしい理屈を偉そうに並べている@Yuhi_Oginoだが、そのじつこれらは文章として成立すらしていない。

なぜなら「主語」がないからだ。

同性愛者の存在を、埋没させたり“独立”させたりする権限を有するのは、誰なのか。

なぜ@Yuhi_Oginoの勝手な都合で、同性愛者が埋没したり“独立”したりしなければならないのか。

@Yuhi_Oginoによれば《「同性愛」という言葉によって、バックラッシュが始まり、受けられていた支援がなくなる、必要な支援が届かなくなる》状況が自明化されている。あまりに悲観的で、かつ一面的な物の見方である。

だが「相手」とはいったい誰のことなのか。

同性愛者が社会を生きるあたって「相手」をするのはバックラッシュばかりではない。現実には〈異性愛者=非同性愛者〉であっても同性愛者差別に疑問を抱き、「異性愛至上主義(ヘテロセクシズム)」の社会体制を変えようと努める人間が存在する。

  • 元より、このことはマンガのジャンルの「百合」や「BL」に興味があるか否かということとはまるで関係がない。「百合」や「BL」を嗜好する〈異性愛者=非同性愛者〉は〈同性愛者〉に“幻想”を抱いているのだ(=ゆえに「百合」や「BL」を嗜好する〈異性愛者=非同性愛者〉が《同性愛者差別》を批判することは無効である)、といった決めつけは《オタクは空想と現実の区別がつかない》というタブロイド思考の発露にすぎない。すなわちそれ自体がマスメディアの作り出した「オタク」のイメージ(=“幻想”)の受け売りであり、まさに《空想と現実の区別がつかない》人間の思考である。

翻って、これはじつのところ@Yuhi_Ogino自身が「同性愛」という“言葉”を嫌悪し、またその“言葉”アイデンティティを見出す同性愛者に対してバックラッシュが始まり、受けられていた支援がなくなる、必要な支援が届かなくなる》べきであるというホモフォビアを露呈しているにすぎない。ゆえに理解者を装いつつも、同性愛者を体よく社会から孤立させ、そのアイデンティティ(「同性愛」という言葉)を放棄せざるをえないように追い込むのだ。

その証拠に《相手が強すぎて、体力を消耗して倒れる。》という言い草からして、すでに他人事だ。「虹色ソーシャルワーカー」なるものを“めざ”しているというなら、同性愛者が《体力を消耗して倒れる》前に、なぜ自分が“支援”しようとしないのか?

そも《「性的マイノリティ」という言葉》に一括されることよって同性愛者がその個別性を否定され、他の属性に埋没してしまう状況自体が「差別」に他ならない。「虹色」どころかセクシュアリティの多様性を黒色に塗りつぶす発想である。

ようするに@Yuhi_Oginoは《現行の差別よりも、自分の考える差別の方が(政治的に)正しい》と言っているにすぎない。 

だいいち「性的マイノリティ」という“言葉”自体が、学者によって政治的に作られた観念であり、当事者の意向を反映したものではない。

「すこたんソーシャルサービス」内
『“LGBT”という言葉について』
http://www.sukotan.com/ABOUT_US/about_top.html
 
 「セクシュアル・マイノリティ」は、アメリカの学者たちが使い始めた言葉で、ヨーロッパ・アメリカ社会では、日常的・一般的に使われていません。アメリカ・カナダ等に住む当事者の方からの情報でもそれは裏付けられます。
 
 では、同性愛者や性同一性障害(広くトランスジェンダー)の人たちに対して、どんな言葉が使われるかというと、頻度の上では、“LGBT”または“GLBT”が圧倒的です。Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとったものです。女性同性愛・男性同性愛・バイセクシュアル・トランスジェンダーの人たちを頭文字で並列的に並べた言葉です。それぞれが、独自に人権・市民権を獲得する運動をしてきた長い歴史が有り、それぞれの経緯や立場を尊重しつつ、いっしょに運動していこうという思いを込め、敢えて、ひとつの単語にくくらずに、対等に並べたと言われています。
 
 「セクシュアル・マイノリティ」が使われない理由は他にもあります。まず学術用語であること。もともと、「同性愛」“homosexual”という言葉さえ、医学の治療対象として作られた言葉だったので、それを拒否して、“Gay”“Lesbian”という自称を用い始めた流れがありますから、欧米の当時者が違和感を感じるのも当然です。
 
 また、実は英語では、どんな文脈で使うときも、「セクシュアル・マイノリティーズ」“sexual minorities”と複数形で言って、決して「セクシュアル・マイノリティ」“sexual minority”と単数形では言いません。なぜなら、多様な性のあり方に対応して、性に関する「少数派」と言っても、さまざまな当事者を含むわけで、一枚岩ではないからです。この違いが、日本で誤解を呼ぶことになるのです。
 
 日本語で「セクシュアル・マイノリティ」という単語を聞いた時も、極めて同質の人間で構成されている、あるひとつのグループを連想してしまいがちです。「性」に関する「少数者」はひとつの集団をなしていて、場合によっては、どこか特定の地域だけに住んでいるというイメージを持つ人もいます。「ゲイ」とくくられても、その中には、多様な人がいるのに、「全てのゲイは○○である」とまとめてみんな同じであるかのように語られてしまうことがよくあることから連想してください。
 
 したがって、当初は、「セクシュアル・マイノリティ」=同性愛者、と誤解されていた期間もありますし、今は、社会で話題になった度合に呼応して、「セクシュアル・マイノリティ」=性同一性障害の人、と認識している人も少なくありません。性同一性障害の人が戸籍を獲得する道が法的に開けたことで、「セクシュアル・マイノリティの問題は解決した」と思っている人さえいます。もちろん、性同一性障害の人たちもまだまだたくさんの問題を抱えています。「解決」はまだ先です。
 
 同性愛者と性同一性障害の人たち(広くはトランスジェンダーの人たち)の抱える課題は、共通のものも少なくありませんが、個別に異なっている部分もあります。例えば、医療の力を借りて手術が必要な性同一性障害の人たちに対して、同性愛者は、同性愛を「治す」治療を拒否します(というか医学的にも治療の対象からはずされています)。ですから、社会に対して、偏見や不利益の解消、またさまざまな保障を求めていくときも、簡単に何でもいっしょに行動できるわけではなく、それぞれが活動する中で、いっしょにできることをじっくり検討しながら進めていくのが筋です。
 
 しかし、今日本国内では、個別の呼び名よりも、「セクシュアル・マイノリティ」の方が広く行き渡りつつあります。それが新たな誤解を呼んでいるのです。とりわけ、“LGBT”の人たちをよく知らない人にとっては、やはり「セクシュアル・マイノリティ」という名の「ひとくくり」の人たちがいるらしい、という連想が働いてしまいます。しかし、これは当事者にも同じ問題を投げかけます。
 
 私は、性同一性障害虎井まさ衛さんに出会い、ゲイとしての自分のもつ課題や生き方と、虎井さんが持つ課題や生き方とは、必ずしも一致しないことがよくわかりました。お互いに語り合い、いっしょに本を出したり講演したりする中で、最初から「同じセクシュアル・マイノリティなのだから、仲良くいっしょにやりましょう」という風な「お題目」だけでは、簡単にことは進まないことも知りました。それでは「なれ合い」にしかなりません。お互いにわからないところをぶつけ、今どんな活動が必要かを知り、議論もして、そこから共通の課題を見つけつつ、信頼関係を築いていきました。“G”と“T”の間で、相互理解にはじっくり時間をかけなければいけないのです。それは、異性愛者と同性愛者が理解するのにかかる時間とそう変わらないかもしれません。そのくらいお互いに思いも状況も立場も「違って」いるのです。でも、そうした過程を経ていけば、共通の悩みもわかって、いっしょに闘える場面も見えて来ます。「セクシュアル・マイノリティ」とくくってしまうことで、当時者である私たち自身も、それぞれの違いを理解する努力を省略してわかったような気になってしまうことがあるのです。
(後略)

すこたんソーシャルサービスが述べていることは、見解の相違といったレベルではなく、あくまでも歴史的な事実認識である。

当たり前だが「性的マイノリティ」などというセクシュアリティは存在しない。よって同性愛者も無性愛者もトランスジェンダーもそれぞれ「必要な支援」が異なる。

しかるに@Yuhi_Oginoの提言は、脳内で自己完結した「戦略」に酔い痴れるあまり具体性・現実性が欠如した空論と言わざるをえない。

「性的マイノリティ」という空疎な観念によって「性同一性障害」や「同性愛」や「無性愛等」の当事者を、生身の人間ではなく、自己のイデオロギーに都合の良い“記号”として扱っている様が、じつに不気味だ。