優生思想に根差す「エセ心理学」は《差別に“利用”される》のではなく《差別そのもの》だ

やっぱり?「男女の友情は成立しない」心理学的な理由
Menjoy! - 2013年05月20日 17:01
http://www.men-joy.jp/archives/83615

男性が女性を、ただの“友達”としてみられず、恋愛対象とみてしまうのは、もしかしたら仕方がないことかもしれません。進化心理学では、恋愛感情というのは繁殖という目的を達成するために生まれたという説があります。

「男女の友情は成立しない」という主張は、ゲイ/レズビアンの存在を無視している。換言すれば、ゲイ/レズビアンを《変態》として周縁化しないことには成り立たない《差別思想》である。

  • さらには〈男/女〉の性自認を有さない人々の存在も排除されている。ただし本稿においては元の記事が〈男/女〉の関係性のみに焦点を当てており、議論の前提を共有するため、とりあえずはそれに倣うこととする。

その論拠として提示される「進化心理学」という見慣れない言葉について、「wikipedia」では次のように解説されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6
※強調は引用者。一部段落の構成を変更。

進化心理学は心理学の分野ではなく、ヒトの心を理解するためのアプローチ、視点の一つである。ヒトの心や行動は脳によって生成され、脳は自然選択によって人類の進化の過程で形作られた。しかし人間の本性の多くは無意識下に働くために、ウィリアム・ジェームズの言葉で言う「本能的盲目」(そこに説明すべき物があることに気付かない)に陥る。進化的な視点は本能的盲目を打ち破ることができると考える。

心理学の伝統的なアプローチは至近因に関する研究と言うことができる。進化心理学は至近因を形作った究極因に注目する。進化心理学者が特定の行動や心の働きを「適応的」だと言うとき、それはその行動が(少なくとも祖先の環境では、平均的には)生存と繁殖成功を高めたという意味だが、「個人が生存と繁殖成功を高めることを動機として行っている」と言う意味ではない。自然選択の結果、それは一種の直観(例えば道徳的判断のような)あるいは学習の傾向(甘い物は好みやすい、高所やヘビに対する恐怖を身につけるのはたやすいというような)としてあらわれると予測できる。

(前略)この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。例えば家族・親戚関係のある側面については血縁淘汰・包括適応度、親類関係が無ければ互恵的利他主義、進化的に安定な戦略 (ESS) といった枠組みの中で見事に説明することができる。

人間の行動のうち、生存・繁殖の成功の役に立たないように思われる行動(非適応的行動)や形質についての議論もある。たとえば同性愛のようなマイノリティの性向や、殺人・人種差別のような反社会的な行動、精神疾患などは本当に非適応的なのかという議論。若いうちに自殺することは完全に非適応的な行動だが、これには何の積極的な適応的意義もないのか、自ら命を絶つことは別の何らかの適応的な心理メカニズムの誤作動によって生じているのだろうかといった議論がある。このような社会的タブーに関連する研究には、人差別や犯罪の正当化に繋がる、あるいは正当化を試みているなどの批判がある。それに対して、人の本性を無視するよりは直視し理解する方がより良い社会を作るために有益である、人の本性を研究することと社会的・政治的に犯罪や差別を認めることは全く別の問題であるなどの反論がある。

・誤解に基づく批判
進化心理学者は繁殖のことしか取り上げないが、人間は繁殖のことを思い浮かべて行動するわけではない、という至近因と究極因の混同。利己的遺伝子論は人を利己的に作ると言うが、人は利他的な行動を多く行う、など。

議論の場において「wikipedia」を長々と引用したところで何の意味もないけれど、《見事に説明することができる。》という自画自賛にも象徴されるとおり、当該の項目は進化心理学を信奉する者の視点におもねって執筆されているため、叩き台としては適当と判断する。もっとも《この適応という観点は、実際に多くの心理メカニズムをそれが正しいかどうかはともかく、合理的に説明できる。》といった執筆者の文章力に起因する意味不明の記述に関しては脇に置く(“正しさ”から切断された「合理性」とはいかなるものか?)。

結論から言えば、進化心理学は「心理学」の看板を掲げることにより、正統な学問を装いつつも非科学的かつ差別的なオカルト思想を正当化・特権化している点で、精神分析――欧米では擬似科学の類として扱われている――と大差ない。したがって『やっぱり?「男女の友情は成立しない」心理学的な理由』という記事のタイトルは羊頭狗肉である。

またwikiの文面からは、あたかも進化心理学の批判者が《人差別や犯罪の正当化に繋がる、あるいは正当化を試みている》といった“倫理的”な理由でもって、純粋な科学的研究を妨げているかのような被害者意識が伝わってくる。しかし、じつのところ話はまったく逆だ。

そも「究極因」「人の本性」なるものの実在を検証する術がない以上、それらはどこまでいっても“初めに結論ありき”の域を出ることができない。すなわち科学を自己のイデオロギーに利用しているのは批判者ではなく、当の進化心理学者】に他ならない。

「繁殖」に繋がらない恋愛感情や性欲を《変態》に規定する思想が、優生思想の焼き直しであることは論を俟たない。

そして優生思想とは科学ではなく政治的イデオロギーだ。《ノーマル/アブノーマル》の線引きは自然に存在するものではなく、人間が勝手にレッテルを貼っているだけだ。

加えて上掲した物言いには、あたかも進化心理学に差別性がないにも関わらず、誤解・曲解によって「差別」に“利用”されてしまう、というニュアンスがある。すなわち進化心理学と「差別」の間に距離が置かれている。

なるほど、たしかに進化心理学《社会的・政治的に犯罪や差別を“認める”》ものではない。なぜならば進化心理学の存在そのものが「差別」に他ならないからだ。

《(批判者は)至近因と究極因の混同(に陥っている)》も然り。このレトリックが巧妙なのは、進化心理学に対する批判を「至近因」「究極因」というフレームに置き換えることで「究極因」の正当性の追及を棚上げしている点である。また同時に「究極因」「至近因」から独立して機能しているかのような錯覚を生じさせる。

しかし《至近因と究極因》という二元論自体、進化心理学者】が自らの議論に都合良く設定しているにすぎない。

換言すれば「究極因」なるものは進化心理学者】の脳内にしか存在しえない虚構の観念である。むろん、そのような“妄想”を共有する人間がたくさんいたところで“妄想”が事実に転じることなどありえない。

また「至近因」に関しても《同性愛者は異性を恐れるがゆえに同性に“走る”》といった類のものは、提唱者自身の異性愛至上主義に基づく偏見の露呈でしかない。

その意味で《至近因と究極因》別個に成立するのではなく、同じ一つの「因」、すなわち優性思想(異性愛至上主義)を異なる縮尺で論じるものと言える。

そして議論の前提が破綻している以上「至近因」から「究極因」帰納できないのは当然だ。ところが上掲のレトリックは、その破綻をもって逆説的に「究極因」の正当性を主張する。すなわち「至近因」の誤謬(=人間は繁殖のことを思い浮かべて行動するわけではない)を自ら認知してみせることで、あたかも「究極因」が相対的に正しいかのごとく印象操作している。じつに倒錯した思考である。

  • もっとも進化心理学の思考は演繹型とも言えるが、演繹法はその前提が真であることを証明できないかぎり成立しない。

また進化心理学は「心理学」の分野でないことを認めているが、実際には科学の分野ですらなく、オカルト(スピリチュアリズム)に近いものである。たとえば因果応報が存在する証拠と思しき事例をいくつ積み上げたところで、因果応報の存在を《合理的に説明できる》ことにはならない。なぜならばそれは因果応報の存在にとって不都合な事例を無視しているからだ。

げんに進化心理学「繁殖」と結びつかない〈男/女〉の関係性や感情といった非合理が存在する理由について《見事に説明》できていない。その矛盾を《至近因と究極因の混同》として居直り、ごまかしているだけである。

そも《至近因と究極因の混同》をいうのであれば「男女の友情は成立しない」という「至近因」をもって《恋愛感情というのは繁殖という目的を達成するために生まれた》という「究極因」を導くことも否定されるはずだ。

進化心理学の補強に都合の良い材料であれば、論理矛盾に目をつぶってでも利用するという欺瞞は、もはや科学者の態度と呼ぶに値しない。

  • 繰り返すが「至近因」「究極因」は同じものをミクロな視点とマクロな視点から捉えているだけである。

もっとも進化心理学は、一方で事実を物語ってもいる。

優生思想の論理的誤謬や欺瞞が明白となった今日においても、未だ「差別」を必要とする人間が一定数存在し、性懲りもなく浅ましき擬似科学を信奉しているという事実。

人類の負の遺産たる《差別思想》は、このようにして手を変え品を変え、私たちの社会に引き継がれていく。

その結果としてもたらされるのは、〈男/女〉の関係性を「恋愛感情」のみに制限し、一方で男同士・女同士の関係性を「友情」のみに制限する、きわめて貧しい人間理解だ。

《男女の友情》を“成立”させるのは「人の本性」ではなく、社会生活における自己決定権である。むろん男同士・女同士の恋愛も然りだ。

恋愛の意義を「繁殖」に規定することは進化心理学固有の思考ではなく、強制異性愛社会の基幹そのものである。しかるに優生思想に根ざすエセ心理学は、まさしく強制異性愛社会の一環であって、人の自己決定権を否定する論拠にはなりえてもそれを肯定する論拠にはなりえない。