「漫画の都合」で〈被差別者〉を振り回す『聲の形』大今良時インタビュー

(註 連載開始前の読み切り作品を読んだ時点の感想であり、連載およびアニメ版や実写版を含めたその後の展開については述べていません。あらかじめご了承ください)

前回:
障害者を“記号化”する健常者の「レイプ・ファンタジー」〜大今良時聲の形
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130224/p1

今年2月、「週刊少年マガジン」第12号(講談社)に読み切りとして掲載された大今良時聲の形』が、約半年の準備期間を経て、今月7日発売の第36・37合併号から連載を開始する。

それに先駆けて、今号(35号)の「少年マガジン」では編集部による作者のインタビューを掲載。併せて、芳林堂書店高田馬場店店員の天野能宏、SHIBUYA TSUTAYA店員の坂間大祐、声優の神谷浩史らによる「応援メッセージ」や、連載第1話からの先行カットも紹介している(P.18 ※以下、強調は引用者)。

カラー1ページの小さな企画ではあるが、インタビューにおける作者の発言が「差別」「イジメ」を議論する上での致命的な問題点を露呈しているため、ここに引用する。

――中には批判的な意見もありましたね。
大今 それさえも嬉しかったです。将也にも硝子にも、それぞれ良くない部分がありますから。良い人とか悪い人とか、白とか黒とか、漫画の都合で付けたくないと思っていたので。私の意図が伝わっているんだなと安心しました。

《白とか黒とか、漫画の都合で付けたくない》というフレーズはインタビューの見出しにもなっている。

しかし、このインタビュアーと作者の会話はまったく噛み合っていない。元より“批判”されるべきは非実在の人物の言動などではなく、それらを通して表出される作者自身の意識に他ならない。

「差別」や「イジメ」の問題において、被差別者および被害者の“落ち度”はまったく理由にならない。その意味では《良い人とか悪い人とか、白とか黒とか、》の線引きはハッキリと“付いて”いるのである。

むろん、その意味では「イジメ」の責任を押しつけられることにより〈加害者〉から〈被害者〉に転じた【将也】についても同様である。しかし、その事態について【硝子】に責任は一切ない。

まして【硝子】の《良くない部分》とはいったい何であろうか。イジメに対して「抵抗しなかったお前が悪い」というのは典型的な「犠牲者非難」の論法である。〈健常者〉と〈障害者〉、〈加差別者〉と〈被差別者〉、さらには〈男性〉と〈女性〉の圧倒的な力関係の差異を鑑みれば、【硝子】が【将也】に抵抗できなかったとしてもまったく不自然ではない。

ところが作者は、耳当たりの良い安直な相対主義を持ち出すことで、そのような社会的力学の一切を無視し、あくまでも【将也】と【硝子】の個人間の問題に矮小化するのである。

元より、これは〈被差別者〉を“聖域化”“特権化”することとは、まったく違う。むしろ【硝子】の“落ち度”とさえいえない態度を《良くない部分》として針小棒大にあげつらうことで、補聴器を幾度にもわたって破壊するなどといった明確なヘイトクライムと同列に置く作者の思考こそ、まさに〈被差別者〉は非の打ちどころのない「聖人君子」でなければならないという差別意識の裏返しである。

あまつさえ、作者はそうした〈被差別者〉の《良くない部分》を「暴力」によって矯正しようとする。それは戸塚ヨットスクールや長田塾に通じる「シバキ主義」的発想の域を出るものではない。

また【将也】が〈加害者〉と〈被害者〉の両面を担っているとしても、【硝子】は一貫して〈被害者〉としての立場にしか属していない。その非対象を踏まえずに《将也にも硝子にも、それぞれ良くない部分がありますから。》などというのは、【硝子】の“加害者性”をあげつらうことで〈被差別者〉にさらなるスティグマを植え付ける行為だ。

あるいは【将也】が「イジメ」を受けている状況に対して【硝子】が積極的に関与していないとしても、同じく〈被害者〉である【硝子】にその解決を求めるのは、これもまた「イジメ」を〈個人〉の責任に矮小化する発想である。二人のクラスで発生した「イジメ」の問題は、それを黙認していた教師も含めて【将也】と【硝子】の“二元論”に還元されるべきではない。

言い換えれば、こうした大局的・俯瞰的な視点が欠落し、【将也】と【硝子】の閉塞した人間関係に収斂している点も、『聲の形』という作品の構造的な問題の一つに数えられるのだ。

もっとも、第一話の時点でそのように評価してしまうのは早計との見方もあるだろう。しかし、このことは他ならぬ作者自身の発言からも裏付けられる。

――読み切り版と連載版の違いは何ですか?
大今 連載版で描きたいのは将也の葛藤です。どんなに将也が反省しても、「硝子をいじめた」という事実は消えません。そこに将也がどう向き合っていくか…。実は私の中にも、「こうすれば解決だ」というものがまだないんですが、将也と一緒に頑張って見つけていきたいです。

こうした殊勝な言辞とは裏腹に、じつのところ作者は、自らの「都合」で生み出した作品に対して傍観者の立ち位置を保とうとしている。

繰り返すが、作者の意識・思想を表出するにあたっての〈客体〉にすぎない漫画のキャラクターに物を考えることなどできない。「差別」と“向き合”う〈主体〉は、あくまでも作者である。

そこへきて《将也と一緒に頑張って見つけていきたいです。》という言い回しは、漫画家らしい詩的な表現と言えなくもないけれど、そのじつ架空の人物に責任の〈主体〉を押しつけるものだ。

裏を返せば作者は、自己の創り出す表現に対する表現者としての責任や主体性をあらかじめ放棄している。否、放棄しているというのが言い過ぎだとしても、上に見た陳腐な感傷をそれらに優先している「事実」に変わりはない。

そも前回のエントリーで検証したとおり【将也】の言い分は稚拙で身勝手な「犠牲者非難」に終始し、自己の犯した罪に対する「反省」などまったく見受けられない。その欺瞞に気づかないどころか、あたかも美談のごとく仰々しく煽り立てる無神経――そしてそれを無批判に褒めそやす頭の悪い大人たち!――が“批判”に値するのだ。

「差別」や「イジメ」は〈個人〉の問題ではなく、まさに作者自身が生きる〈社会〉の問題である。その当然の前提が作者から、そして作品の世界観から欠落している以上、いくら非実在の加害者に「反省」のポーズを取らせたところで猿の真似にもならない。そのような醜い自己陶酔のために〈社会〉の被差別者を振り回すことこそが「漫画の都合」であり「作者の都合」である。