レズボフォビアとバイフォビアを再生産する「文学」の装い〜雛倉さりえ『ジェリー・フィッシュ』

今週末に公開される金子修介監督の新作映画『ジェリー・フィッシュ』が女同士の恋愛をテーマにしているというので、その原作である小説を読んでみた。

主人公の女子高生【宮下夕紀】と、その恋人で嗜虐癖をもつバイセクシュアルの【篠原叶子】の儚い恋模様と別れを描いた短編作品。作者の雛倉さりえは自身が女子高生だった16歳の時分にこの小説を書き、現在は大学生なのだという。新潮社が主催する「女による女のためのR-18文学賞」の最終選考にノミネートされ、受賞は逃したものの、無名の新人作家(というよりただの素人)の処女作でありながらいきなり映画化されるという僥倖に恵まれる。

同社から上梓された単行本には表題作の他に、【叶子】、【叶子】の彼氏、【叶子】の女友達、【夕紀】を慕う同級生の少女をそれぞれ主人公にした書き下ろしのサイドストーリーが4作加わった短編集となっている。

現役高校生(当時)が書いたといっても「ケータイ小説」の類ではない。豊かな語彙が織り成す情景描写には、たしかに独特のセンスを感じさせる。とくに【夕紀】と【叶子】が水族館のジェリー・フィッシュ(クラゲ)の前で口づけを交わすシーンは官能的かつイマジネイティブで、そのあたりが映像関係者の創作意欲を刺激したものと思われる。

だが、なまじ文章力が有り余っているせいか、登場人物の心理や作品のテーマを過剰に言葉で語ってしまっている部分が目につく。

『崩れる春』(単行本P.216-218
 クラスでのいじめも、同性同士の恋愛も、どうしょうもなく不健全だ。だれもが十七歳のはずなのに、青春なんて言葉とは程遠い。灰色で、薄暗くて、倒錯的で、いびつで、腐っている。
(中略)
 わたしたちは、たぶんまだ、大人になりきれていないのだ。成熟したからだに幼く脆い精神をなんとか詰め込み、ちぐはぐなままで精一杯生きている。だから間違っても、いいのかもしれない。だれもがどこかにいびつな部分を抱えて生きているのかもしれない。綺麗な春なんて、最初からどこにもなかった。

上掲したのは今回の単行化にあたって加えられたサイドストーリーからの引用で、おそらく作者が大学生になってから書かれたものと察するが、主人公である女子高生の言葉ではなく、まるっきり作者自身の言葉になっている。つまり〈大人〉の目線から〈子供〉の心を“評論(しかも紋切り型で薄っぺらな)”する言葉だ。

また語彙が豊富であると書いたが、物語に登場するタイプの高校生が遣うとは思えない、非日常的な言葉や漢字が作品全体を通して頻出する。わざと小難しい言い回しをしたがるのも幼さゆえであろうけれど、作者自身の私小説ならともかく、架空の人物のリアリティを演出する上では結果として逆効果である。

加えて「同性同士の恋愛」《一過性の擬似恋愛》ないし《若さゆえの過ち》として扱う作者の態度にも違和感を禁じえない。これも〈大人=非当事者〉による“上から目線”であり、かつ〈異性愛者=非当事者〉の社会的権威性から人の「恋愛」を《不健全》《倒錯的》《幼く脆い精神》《間違(い)》などと“断罪”する無神経で驕慢な物言いだ。

これによって、女性カップルの片方が男性に心変わりしたことで破局を迎えるという陳腐きわまりない筋書き自体が《女同士の愛は実らない(=実ってはならない)=腐っている》という「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」の性規範に則ったものであることが露呈した。

またこの手の作品の常套として、女性カップルの片方は決まってバイセクシュアルであり、なおかつ男性にも手を出してはレズビアン(非異性愛者)の主人公を翻弄する。加えて肉体関係の面でも男性とは“本番”まで遂げるのに対し、女性とは軽いペッティングに終始する。バイセクシュアルは本質的にはヘテロセクシュアルであり、異性と同性を同時に愛する場合は異性を選ぶはずだ――という「バイフォビア(バイセクシュアル嫌悪)」に根差す偏見を再生産しているにすぎない。

もっとも【叶子】はその嗜虐癖が災いしてけっきょく彼氏とも別れており、作品の本質としてはバイセクシュアリティというより、セクシュアリティの揺らぎに重きを置いているとも解釈できる。しかし、それを思春期における《幼く脆い精神》に矮小化している点で、やはり異性愛至上主義の域を出るものではない。

一方で、男性キャラクターに関してはたんなる当て馬ではなく、書き下ろし短編の1話を宛うことで掘り下げて描写している。

そこをいくと、嗜虐癖と父親からの虐待を結びつけた【叶子】の人物造形はいかにも安上がりだ。一方のヒロインである【夕紀】もステレオタイプな美少女キャラで、むしろこちらこそが当て馬に見えてしまう。

作者は愛し合う少女たちの関係性を、猟奇的なSEXや児童虐待、イジメなどといったセンセーショナルな“ネタ”の一つとして消費することで悦に入っている。背伸びした言い回しを駆使して「文学」を装いながらも、読後感はやはり「ケータイ小説」のそれと変わらないのであった。