ジェーン・スー「男女間に友情は成立しない」←男でも女でもない人や同性愛者やアセクシュアルは「どうなの?」

(2015年12月21日 加筆修正)

『Vol.11 男女間に友情は成立するか否か問題が着地しました』
http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/05/vol11_23.html

昨年、惜しまれつつも解散したアイドル・グループ「Tomato n' Pine(トマトゥンパイン)」を手がけていたことで知られる音楽プロデューサー兼作詞家のジェーン・スーが、ブログ「ジェーン・スーは日本人です。」内において《男女間に友情は成立するか否か》という古典的な議論に際し、自己を〈男女間に友情は成立しない派〉に規定した上で、持論を開陳している(なお引用者の判断により一部改行・空行を詰めた)。

こんにちは。
男女間に友情は成立しない派のジェーン・スーです。
(中略)
まず、しない派である私個人の見解は

・異性とでも、ただの友達づきあいなら当然成立する。
・しかし、同性の親友と育むのと同質の友情は異性間では成立しない。
・なぜなら私にとって同性の親友とは「一緒にいて楽しく、気を遣いすぎず、困ったら悩みも話せてつらい時に頼れる上に、なにも話さず時間を共有していることすら居心地が良い相手」である。
・それが異性なら、それは私にとって最高の恋人である。

よって男女間の友情は成立せず、です。

自信たっぷりに書いている割にはいまいち要領を得ない文章だが、まず一つ言えるのはこの人物が「友情」と「友達」を別個の概念として捉えているということである。つまり「友情」の介在がなくても社交辞令的な《友達づきあい》は成立するであろうといったドライな思考だ。

この解釈に則るなら、恋人や配偶者の関係性においても「恋愛感情」は必要ないということになる。たしかに「恋愛感情」はなくても見栄やステイタスのために恋人や配偶者の存在を確保するといった「仮面夫婦」のような事例は現実に少なくないだろう。

しかし《友達づきあい》においてかならずしも「友情」が伴わないことについて、それ自体が一つの真実であるとしても〈男/女〉の《性差》を結びつける必要はまったくない。ここにまず論理の飛躍がある。

ジェーン・スーは「友情」という観念について《同性の親友と育むのと同質》であるという前提条件を勝手に付与している。だが〈男/女〉間に《性差》を認める立場に立脚するのであれば、その「友情」のあり方も非対称となるのは自明である。ようは〈同性〉の「友達」とは《同性の友情》が、〈異性〉の「友達」とは《男女間の友情》が成立するというだけにすぎない。

さて。
いい年をしてそんなことを考えていたある日、30少々のちょっとぼんやりしている女友達が
「単に、男女の友情は存在しない派には男女の友情は存在しない、だけよなあ…」
と言いだしたので話を聞いてみました。
男女間の友情が成立する派の彼女は、そもそも恋愛が苦手だそうです。
「 恋愛が苦手。だから、男女間の友情は成立する 」 
この発想は、私にとって新鮮でした。
する派は異性として魅力的で独占したい男(恋愛対象)を最初に選り分け そうではない男は最初から友達BOXにブッ込むため 男女間の友情が成立すると主張しているのだと思っていました。純粋なフリで異性からの好意の盗み喰いをして承認欲求を満たしている不埒なやつらの常套句とすら思っていた。
なんだよなんで恋愛にならないようにしてるのかよ。

男女間の友情が成立する派の女友達の話を箇条書きにすると、

・そもそも恋愛が苦手だし面倒だ。
・人生に山あり谷ありを求めず、感情の起伏を好まない。
・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。
・よって、人と接する時間と密度がそんなに濃くならない。
・自己肯定力が低く、たったひとりの恋人に選ばれるより何人もいる「友人枠」の方が自分は選ばれ易い気がする。

の5つ。文字にすると多少ネガティブに感じられるかもしれませんが する派の女友達は、「 どうせ私なんか… 」 が口癖の面倒な女ではありません。

《異性として魅力的で独占したい男(恋愛対象)を最初に選り分け そうではない男は最初から友達BOXにブッ込む》という行為が《純粋なフリ》であるということだが、そも《純粋》とはどういうことだろうか。

まず前提として《異性として魅力的で独占したい》という欲望が対置されていることから、つまりジェーン・スー《異性として魅力的で独占したい》という欲望を《不埒(=不純)》と捉えていることはわかる。しかし《異性として魅力的》である「男」を“独占”することは、【そうではない(=異性として魅力を感じず独占する必要性を感じない)男】を《最初から友達BOXにブッ込む》こととは別個の行為である。よって恋愛の対象ではない異性と恋愛以外の関係性を結ぶことを《不埒(=不純)》と決めつけるのは論理の摩り替えである。

加えて、たんに恋愛の対象ではない異性と恋愛以外の関係性を結ぶことが《異性からの好意の盗み喰いをして承認欲求を満た》すこととどう繋がるのか、あまつさえ、それがなぜ《不埒なやつらの常套句》などと“断罪”されるに値することなのか、第三者にはその理路がまるで見えてこない。そも「好意の盗み喰い」という観念の定義が不明瞭であるし、さらにそこで「承認欲求」などという手垢に塗れた心理学用語を持ち出すことは、かえってジェーン・スーの人間心理に関する思考の浅さを露呈したにすぎない。

ましてや何処の馬の骨とも知れない【30少々のちょっとぼんやりしている女友達】とやらを引っ張り出してきては〈男女間の友情が成立する派〉を代表させ、その【女友達】の言葉を借りて《・そもそも恋愛が苦手だし面倒だ。・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》などといったネガティブなレッテルを貼りつけるのは、いかにも乱暴で恣意的な印象操作だ。

ようはこの【女友達】のように「男女間の友情が成立する」と主張する人間に対しては《・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》というレッテルを貼られますよー(=私も貼りますよー)、という恫喝にすぎない。

すなわちジェーン・スーの論説の骨子は《男女間に友情は成立しない》ではなく《「成立する」と考えるべきではない》というのが正確なところである。

ここでは「人間心理」の問題と「性規範」が混同されている。「ザイン(存在:〜である)」と「ゾルレン(当為:〜べきである)」の混同と言い換えてもいい。

一方、男女間の友情は成立しない派(恋愛になる)の女は得てして

・とにかく恋愛状態が好き。
・いやだいやだと言いながら、感情の起伏や人生の山あり谷ありが大好物。
・意気投合すると不用意なほどに男女問わずコミュニケーションを詰めたがる。
・傷つくことは怖いが、羹に懲りてなますを吹くようなことはしない。
・自分に満足してはいないが、異性から愛される価値がないとも思っていない。

タイプが(少なくとも私の周りは)多い。私と私の海賊仲間だ。
特に美人でも若くもなく、性格が飛びぬけて良いわけでもなくても、男女間の友情は成立しない派の女から「 彼氏いない歴5年以上… 」という話はあまり聞いたことがありません。が、モテるタイプは誰もいない。
男女間の友情は成立しない派は基本がっついています。人間関係を深めていくことと距離を縮めて行くことを同義と考えたりする。(これは同義じゃないんだけどね)なかなか人を好きにならないのよーなどと言うものの、友情を恋愛に発展させない努力まではしていない。安定した関係に長くとどまっているとソワソワしてきて、結局は下手な鉄砲撃つのが好きなダイハード。自戒の念を込めて言えば恋意地が汚いとでもいいましょうか、根っこの部分では自称恋愛体質(失笑)の女なんかもそうですね。なんだよ恋愛体質って。ただのがっつきのくせに。

一方、する派は丁寧で慎重です。慎重すぎる。
さきほどの女友達には、旅行も一緒に行く男女併せて6〜7名の仲良しグループがあるそうなのですが、グループ内で恋愛に発展するワケがない! ぜったいしない! そういう錯覚が起きないように無意識に注意している! と語気を強めて言っていました。
己の恋愛より輪の調和の方が大切なする派。
心が脱獄しないよう見回りを欠かさないする派。
する派は頭の中で『ラブストーリーは突然に』のイントロが鳴る瞬間がない。
しない派中年はといえば、あのドラマが終わって20年以上経ってもまだ性懲りもなく チュクチュン♪ とあのイントロを鳴らし続けているのに! ※なんの話かわからない若い人はグーグル先生に聞いてみよう

当たり前といえば当たり前なのですが、する派の彼女は過去に男友達が恋人になった経験がない。友達として良く知らない相手となぜ付き合い始められるのか、しない派には理解が及びません。
男友達がある日彼氏に変化するしない派を見たする派は、なぜ男友達と恋愛が出来るの?と眉を顰める…のだとばかり思っていましたがそうではなく、する派の彼女にとっては異性との関係性が恋愛状態になると面倒臭いことが起こりかねないので、迂闊にそう発展しないように注意していることもあるのだな。つまり、友情が色恋に変化する可能性自体は十分認識認識しているんですね。
する派が関係性の変化を嫌い、友人という固定された関係を好む一方、しない派はすべての可能性を常に見逃さないし、関係性の変化に寛容。困ったことに変化を恐れないばかりか、ひとたび関係性が一定の状態で長く安定すると、飽きて次の変化を無意識に探すことも多々あります。

あげく《する派は頭の中で『ラブストーリーは突然に』のイントロが鳴る瞬間がない。しない派中年はといえば、あのドラマが終わって20年以上経ってもまだ性懲りもなく チュクチュン♪ とあのイントロを鳴らし続けているのに! 》などと自分には窺い知れないはずの他人の脳内の事象まで勝手に断定するのである。思い込みと思い上がりの激しい独善的な人間性が如実に伝わってくる文面で、トマパイが頓挫した原因もそこにあったのでは? ……と勘繰りたくなってしまう。

しかし何やらもっともらしい理屈を並べて必死に誤魔化してはいるが、ようはいい年をして他人との適切な距離感が計れず依存する体質の人間が「友情」と「色恋」を錯覚してしまうというだけの話である。

一方で《30少々のちょっとぼんやりしている》などという人物の「見解」を〈する派〉側の統一見解として絶対化することにより、あたかも〈する派〉には三十歳をすぎてもぼんやりしているような薄ら馬鹿しか存在しないと読者に印象づけるのはストローマン論法の典型だ。

なぜいい年をしたジェーン・スーがそんな“大人げない”真似をするのかといえば、ひとえに〈しない派〉である自己を《すべての可能性を常に見逃さないし、関係性の変化に寛容。困ったことに変化を恐れないばかりか、ひとたび関係性が一定の状態で長く安定すると、飽きて次の変化を無意識に探すことも多々あります。》として自画自賛するために、件の【30少々のちょっとぼんやりしている女友達】をダシにしているのである。

《・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》であろうとなかろうと、このような人物の「友達」にだけはなりたくないものだ。

女子校あがりは男に慣れてないからすぐ身近な男を好きになるという説もありますが、それは結果論としてのひとつの傾向であって、要因はなにか別のところにあるのではないか? と、女子高女子大あがりの私は思いたい。

しかしそう“思う”のであれば当然ながら《・そもそも恋愛が苦手だし面倒だ。・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》であることもまた《結果論としてのひとつの傾向であって、要因はなにか別のところにあるのではないか?》と言えるのだから、それを〈する派〉の条件としてジェーン・スーが定義することは明らかなダブル・スタンダードだ。

さて、ここへきてジェーン・スーの論旨展開に捻れが生じていることにお気づきだろうか。

初めは《男女間に友情は成立するか否か》の議論をしていたはずなのに、いつのまにやら「男女間の友情」についてジェーン・スーがどう思うかという話にすり替わっている。先述した「人間心理(ザイン=男女間に友情は成立“しない”)」と「性規範(ゾルレン=男女間に友情が成立することを認める“べきではない”)」の混同が、さらに顕在化された形である。

しかし《「男女間の友情」についてジェーン・スーがどう思うかという話》は、言うまでもなく「男女間の友情」が“成立する”という前提の上にしか成り立ちえない。「友情」が「色恋」に“変化”するということは、裏を返せば「色恋」に“変化”する前は「友情」が“成立していた”ということであり《男女間に友情は成立しない》という論旨自体が破綻する。

言い換えるなら、〈男女間に友情は成立する派〉は「現実」を語り、〈男女間に友情は成立しない派〉は「現実」から目を背けて「理想」を語っている

すなわち《異性の親友と育む友情》という人間関係の《可能性》を一方的に閉ざしているのは、まさしく〈しない派=ジェーン・スー〉の方なのだ。

俗に《友達以上恋人未満》という決まり文句があるけれど、そのじつ〈友達〉と〈恋人〉の間に優劣はなく、人間関係の位相を表しているにすぎない。小指よりも人差し指のほうが役に立つことが多いからといって、小指は切り落としてしまえばいいということにならないのと同じである。

それにも関わらず〈しない派=ジェーン・スー〉の世界観によれば【異性の友達】を〈恋人〉に“変化(進化)”する過程の《恋人予備軍》に“固定”する単線的な解釈しかできない。つまり【異性の友達】に対して〈恋人〉に相応しいか否かという「色眼鏡」でしか見ることができないのである。

そこでは相手の【異性】が〈しない派=ジェーン・スー〉に対して〈恋人〉の関係性を望んでいるか、否、そも「色恋」自体を必要としているか、などという事情は一切顧みられない。現実には異性・同性を問わず「色恋」自体に関心のないアセクシュアルも存在するのだが、ジェーン・スーの言に倣うならそうしたセクシュアリティ《・そもそも恋愛が苦手だし面倒だ。》という一面的な決めつけの下に切り捨てられてしまう。

いみじくもジェーン・スーは自己を含めた〈しない派〉を「海賊」になぞらえているが、《男女間に友情は成立しない》という物言いに、どうしても拭いがたい暴力的な響きがまとわりついているのは、このようにして相手側の都合や心情を一方的に無視し、自分の価値観ばかりを押し付ける傲慢さがあるからだ。

その一方、「友情」が「色恋」に“変化”する《可能性》に開かれた上で、かつ「男女間の友情」を“育む”というありようも“成立する”。ゆえに《する派は丁寧で慎重です。慎重すぎる。》だの《する派は頭の中で『ラブストーリーは突然に』のイントロが鳴る瞬間がない》だのと嫌味ったらしく決めつけられる筋合いはない。そも上に見たとおり《一緒にいて楽しく、気を遣いすぎず、困ったら悩みも話せてつらい時に頼れる上に、なにも話さず時間を共有していることすら居心地が良い》という異性のありようを〈恋人〉のみに“固定”するのは、ジェーン・スー個人の卑小な価値観にすぎない。

また見方を変えれば、ジェーン・スーの持論においては「同性間の友情」が「色恋」に“変化”する《可能性》がまるで考慮されていない。

さらに言えば、男女二元制に合致しないジェンダーアイデンティティを有する人々との人間関係についての《可能性》も想定されていない。

すなわち《男女間に友情は成立しない》という主張は、同性愛者、アセクシュアル、さらには男女二元制に合致しないジェンダーアイデンティティを有する人々を排除することによってでしか“成立しない”のである。

  • なお、言うまでもないが〈男/女〉間に《性差》を認めることと、〈男性〉にも〈女性〉にも属さない性自認を認めることは両立する。換言すれば、〈男/女〉間に《性差》を認めることと、その《性差》に基づいて〈男/女〉間の人間関係の可能性までもギチギチに限定・固定してしまう「性別二元制」に基づいたジェーン・スーの思考は別問題である。

異性間の人間関係のありようを「色恋」のみに“固定”する〈しない派〉の思考は、しょせん「色恋」の意義を《生殖》に還元する異性愛至上主義に依拠するものだ。たとえジェーン・スー当人にその自覚がなくとも、そうした自己の社会的特権性に無自覚・無頓着である「状態」こそが、まさしく「差別」を行使する権力を有する者の“特権”に他ならない。

ゆえに〈しない派=ジェーン・スー〉は、《生殖》に結びつかない異性間の「友情」、そして同性間の「色恋」を否認せざるをえないのだ。しかしそれは異性愛至上主義のイデオロギーに基づいて“政治的”に構築された「性規範(ゾルレン)」に他ならず、「人間心理(ザイン)」をありのままに捉えた上での「見解」ではない。

まして《すべての可能性を常に見逃さないし、関係性の変化に寛容。》とされる「状態」とは、むしろ対極にある「状態」であることは言うまでもない。

  • もっとも《人は皆バイセクシュアル》《友情と恋愛感情の間には明確な線引きなどない》などといった一見“ものわかりのいい”物言いもまた、じつのところ異性愛至上主義の変奏にすぎないのだが、この問題については別の機会に譲る。
  • ただ本稿においては「シスジェンダー異性愛者」以外のセクシュアリティの《可能性(多様性)》について思いを馳せようともしない、ジェーン・スー異性愛至上主義に根ざす差別思想と、その論理の自家撞着を指摘することに主眼を置いている。

加えて〈男女間の友情は成立しない派〉に敵対する〈男女間の友情は成立する派〉を《・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》と紐付けする思考は、その裏を返すと《・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》とされる人々を敵視する思考でもある。

このような信念を、私は「友達百人教」と命名している。

小学一年生の頃、私たちは《とーもだちひゃっくにんでーきるーかな〜♪》というくだらない歌を歌わされた。しかしこれによって「友達」が多い人間はより社会的価値が高く、孤独を愛する人間は社会的価値が低いという二項対立的世界観が植えつけられる。そして《・男女問わず対人関係を深めるコミュニケーションが不得手。》とされる人々に対してのイジメ(迫害)へと繋がっていくのである。

  • もっとも、ここでは「友達」の人数は本質ではない。百足の足が文字通りの百本でないのと同じで、「対人関係を深めるコミュニケーション」の度合いを観念化する“詩的”な表現として「百人」という言葉が用いられているにすぎない。

いい年をした大人が、いくつになっても集団で異端を排除する思想から“卒業”できないのであれば、貧しい恋愛観を振りかざして屁理屈をこねくり回したところで小学生の知能と変わらないということだ。

* * *

おまけ。

弄られ屋 2013年6月9日 11:16
うむ。
しない派の僕にとっては、ずっとする派からの納得のいく理由が得られなかったがこれを見てなんとなく納得できました。
相変わらず勉強になるな〜。

〈する派〉の「理由」とやらについて、〈する派〉に規定された人々が自らの言葉で語るならともかく、それを勝手に“敵視”している〈しない派〉の人間が自己の歪曲した視野で濾過したプロパガンダを読んだところで、【しない派の僕】とやらが溜飲を下げることはできても何の「勉強」にもならないことは明白である。
〈する派〉の「理由」について“納得”できないのはこの馬鹿の都合でしかないし、馬鹿を“納得”させなければならない義務など〈する派〉には存在しない。
だいいち自分が“納得”できないものを否定・拒絶するという排他的かつ閉鎖的な態度は《すべての可能性を常に見逃さないし、関係性の変化に寛容。困ったことに変化を恐れないばかりか、ひとたび関係性が一定の状態で長く安定すると、飽きて次の変化を無意識に探すことも多々あります。》という〈しない派〉のありよう(と自画自賛しているもの)と矛盾するのではないか?


どうなの?