「加害」と〈悪〉をすり替える『聲の形』は「擬似障害者ポルノ」にすぎない。

(註 連載開始前の読み切り作品と単行本の第1巻を読んだ時点の感想であり、アニメ版や実写版を含めたその後の展開については述べていません。あらかじめご了承ください)

集英社週刊プレイボーイ」には、漫画単行本の新刊を毎週1冊、1ページを割いて紹介する「この漫画がパネェ!!」というコーナーが設けられている。今週号(2012年12月16日号)では【たまごまご】なるライターが、先月出版された『聲の形』の第1巻を取り上げた(p.109)。

 障碍問題を物語で扱うのは本当に難しい。それは、漫画も例外ではない。本作の前身にあたる読み切りは、雑誌の新人賞を取っていながら数年間掲載できなかった。掲載の際にも、弁護士や全日本ろうあ連盟などに確認を取っているほどだ。
 ただ、この漫画は題材として耳の聞こえない子を巡る問題を取り扱ってはいるが、「いじめ」や「障碍への理解」だけがテーマではない。さらに深いところ、人と人とのコミュニケーションの間に生まれてしまう、答えのない葛藤に切り込んだ物語だ。
(中略)
 本作は「誰が悪い」と決めつけない。淡々といじめる側の人間の理由と、いじめられた西宮が反撃しないギャップを描いている。
(中略)
 そして、石田はいじめられる側になる。こうなるともう、障碍に対する無理解だけの問題ではない。
(中略)
 いじめのシーンは陰惨な上、白黒がつけられないため、非常に後味が悪い。それを描ける作者だからこそ、人間関係で生まれる葛藤を、表現し続けてくれることに期待したい。

作者自身を含めて『聲の形』を擁護する者たちの論調には共通点がある。
それは「いじめ」という明確な加害を伴う行為を〈善/悪〉という抽象的かつ恣意的な倫理観念の問題にすり替えていることだ。
その上で《本作は「誰が悪い」と決めつけない。》とする一方、被害者側も作者の言によれば《将也にも硝子にも、それぞれ良くない部分がありますから。》すなわち〈善〉とは言い切れないとして加害者を“免罪”するのである。
しかしたとえ「完全な悪人」は存在せずとも「完全な加害者」は存在する。その意味では完全に《白黒がつけられ》ている。そして被害者が「善人」でないことは「加害者」を擁護する何らの理由にもなりえない。
そしてさらに『聲の形』の場合は〈加害者=健常者〉〈被害者=障害者〉という明確な社会的力関係が横たわっているが、このような「差別」の構造も〈善/悪〉のフレームに置き換えることによって、両者の格差を相対化するのである。
評者が述べるとおり『聲の形』が《「いじめ」や「障碍への理解」だけがテーマではない。さらに深いところ、人と人とのコミュニケーションの間に生まれてしまう、答えのない葛藤に切り込んだ物語》であろうと〈障害者〉の存在を〈健常者〉の手前勝手な《答えのない葛藤》とやらに都合良く利用する行為を正当化するものではない。
そも作者があえて《題材として耳の聞こえない子を巡る問題を取り扱って》おきながら「いじめ」「障碍への理解」などの「テーマ」“さらに深く”突き詰めることができず、たんなる「人と人とのコミュニケーション」などという陳腐きわまりない「テーマ」に逃避せざるのは、嗜虐趣味的な見せ物としての「いじめ」を描ききることには熱心でも「障碍への理解」“深める”ことには無関心であるというだけにすぎない。あまつさえ、そのような欺瞞の箔付けとして当事者団体である「全日本ろうあ連盟」を“政治利用”している。
表現規制反対運動の一部(ということにしておいてやろう)では、ポルノを擁護する大人たちが『子供の権利条約』を盾にして子供たちに《ポルノを“主体的に”選択する権利》を付与することにより、観念の上で〈子供〉を〈大人〉と“平等”に扱うといったグロテスクな実験が試みられている。『聲の形』という「擬似障害者ポルノ」の商売を成り立たせているのも、まさしくこれと同質の“搾取”の構図である。
それにしても「障害」をわざわざ「障碍」と書くことで(pomeraでは変換されない!)当事者に“配慮”した気になっている評者の薄っぺらな「人権感覚」にも失笑させられる。《差別表現》《暴力表現》を娯楽として消費する人間が“言葉狩り”に加担するとは、是如何に。