百合好きが異性愛至上主義を批判するのは《百合が好きだから》ではない。

(2016年12月29日 加筆修正)

前回:
「禁じられた世界」という記号性に「百合ぷる」を閉じ込める「(自称)百合スト」の異性愛至上主義
(2013年12月25日 加筆修正)
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20130217/p1

以前、当ブログで取り上げた@nazo_nagon_氏の“新作”がTwitterのRTで回ってきた。

前回の「百合スト」に続いて今回は「百合クラ」という見慣れない造語が登場するけれど、どうやらこれは「百合クラスタ(百合作品のファン)」を意味するらしい。「百合」のユーザーの一部に未だ根強く蔓延る「肉体的同性愛」の忌避が、ついには「精神的同性愛」の忌避にまで及び、「百合」という概念の定義自体を否定するに至った皮肉な事態が端的に示されている。

しかし気になるのは、そうした「百合観」の問題を含めて「百合」すなわち女性同士の恋愛(性愛)に対する異性愛至上主義に基づく偏見が、たんなる個人の嗜好の問題に還元されている点だ。

【女性を愛する女性】が現実社会に存在し、また作者ならびにユーザー自身も現実社会を生きている以上、それを描く「百合」に現実社会の力学が反映されるのは自明である。

言うなれば【女性を愛する女性】が“社会的”な存在であるように「百合」もまた「社会的表現」として機能するのだ。

そして「百合」すなわち女性同士の恋愛(性愛)に対する偏見もまた、一つの「社会問題」として位置づけられる。が、それを個人の嗜好の違いとして片づけるのであれば、そうした異性愛至上主義の構造に対する告発・批判もまた「百合クラ」内部の党派闘争として矮小化されてしまう。

一方で、「百合」という表現に日ごろ接しているからこそ、そうした異性愛至上主義の構造に意識が向きやすいという側面もあるだろう。しかし、それはじつのところ「百合」が好きであるというユーザーの嗜好とは無関係なのだ。

前回も述べたとおり、異性愛至上主義は、まさしくそれが「差別」であるがゆえに批判されるのだ。またそれが「差別」であるがゆえに、そうした社会の構造にユーザーが意識を向けない以上、「百合」が異性愛至上主義によって“政治利用”される事態を抑止することもできないのではないか。