「あまちゃん女優」をも“政治利用”する『聲の形』の饒舌なるエクスキューズ

(註 連載開始前の読み切り作品と単行本の第1巻を読んだ時点の感想であり、アニメ版や実写版を含めたその後の展開については述べていません。あらかじめご了承ください)

今週号の「少年マガジン」の巻頭では『聲の形』単行本第2巻の発売に合わせて、作者の大今良時と、昨年『あまちゃん』にも出演して話題を呼んだ人気アイドル女優・有村架純の対談を見開きカラーで掲載している(P.8-9 2014年1月29日号 講談社)。有村が《じつは大の「少年マンガ好き」。》であり、同誌の愛読者でもあったことから対談がセッティングされたようである。

記事には二人の写真も掲載されており、ここで作者が男性的なペンネームとは裏腹に、じつは女性であったことが判明する。

聲の形』の特徴として、健常者の手前勝手な都合で障害者を振り回すイジメ加害者の少年【将也】の心理が饒舌に語られているのに対し、それに振り回される障害者であり被害者である少女【硝子】の心理については、まったく掘り下げられていないという非対称が挙げられる。

これが男性作家によるものであれば、女性心理を描くことの困難さを避けたというエクスキューズも成り立つであろう。しかしこの作者は自身が女性でありながら、男性異性愛者向けのメディアにおいて、男性異性愛者に都合の良い空疎な女性像を自主的に差し出していることになる。

もっとも、このこと自体はいまどき驚くに値しない。またキャラクター造形に関しては、キャラクターの心理をあえて掘り下げないことにより、読者に解釈を委ねるという手法も一つの常套である。【硝子】の造形にあたって作者が試みているのもそうした手法であろう。

さて、それを踏まえた上で次の会話を抜粋する。

有村 作中での硝子ちゃんは、何をされても怒りませんよね。ひどいことをされても、自分から歩み寄ろうとしている。その姿が胸に痛くて……。
大今 少し、謎めいていますよね、あの子。
有村 うふふ。そうですよね。ミステリアスですよね。堂々としていて、ムキにならないのがかっこいいですが、本当はどう思っているんだろう、と想像してしまいます。勝手な希望としては、硝子ちゃんには軽々しく怒ってほしくないかなあ……。

作者は自らが創造したキャラクターについて、まるで他人事のような言い草である。またそれに対する有村の反応も《軽々しく怒ってほしくない》などと健常者に都合の良い感情表現の作法を障害者にお仕着せしながら、《ミステリアス》だの《ムキにならないのがかっこいい》だのと、たんなるキャラクター造形の問題としてその政治性・差別性を自己免罪する。

そしてそこにこそ「マンガの形を借りた《差別表現》」の問題の根深さがある。

前掲した「週刊プレイボーイ」の書評がいみじくも解き明かしているように、作者は《障害者差別》というきわめて政治的な問題を扱いながら、それを「人と人とのコミュニケーション」の問題に還元することで、その政治性を回避しようと試みる。

だが、それは政治性を回避したのではなく、ただ政治性に無関心・無頓着であるというだけにすぎない。

娯楽フィクションにおいて「政治的に正しいマンガ」などというのは何の謳い文句にもならない。しかし政治とは私たちの生活に密着しているがゆえに、意識せずとも絡め取られてしまう性質の事柄である。その結果、特攻隊を賛美するといった下劣な政治性に基づく映画を無批判に消費し、あろうことか、ついうっかり“感動”してしまったりする。折しも本号の裏表紙が『永遠の0』の宣伝広告になっているのはじつに象徴的だ。

もっとも、作者が先述のとおり《障害者差別》という政治的課題から材を取ってしまった以上、作品から政治性を排除し、単純なテーマ性やキャラクター性のみを追求するなどという選択肢は与えられていない。

まして作者自身が傍観者を気取りながら、《障害者差別》を正当化する“政治的”なエクスキューズ――当事者団体の“お墨付き”やアイドルの利用なども含む――を並べ立てるのは、ただの欺瞞にすぎない。