《「同性愛者」であること》と《「レズビアン」であること》〜牧村朝子『百合のリアル』(2)

しかし、そのような本書の意義をじゅうぶん踏まえた上でも、いくつか重要な指摘をしなければならない。

まず《「(女性の)同性愛者」であること》と《「レズビアン」であること》を同一視している点。その認識は『同性愛者であることの苦痛を和らげる方法』と題された項目の中の《2.同性を愛するけれども、「同性愛者」「ゲイ」「レズビアン」「ホモ」「レズ」といった名乗りを受け入れない。ただ自分のことを「同性を愛する自分」だと思うことにする。》という記述に顕著だ(p.103)。

同項には《そもそも「同性愛」と「同性愛者」は別々の考え方であるといえます。》という文言もあるが、言葉の成り立ちがどうあれ「同性愛者」は文字どおり《同性を愛する人》という意味でしかなく、「ゲイ」や「レズビアン」などのアイデンティティとは別次元の概念である。

すなわち、たんに《女性の「同性愛者」である》というだけでは「レズビアン」とは言えない。バイセクシュアルやクエスチョニングの可能性もあるからだ。《女性の「同性愛者」である》ということ、さらには《「異性愛者」ではない》ということについて、当人がアイデンティティを見出してこそ、はじめて「レズビアン」となるのである。

いずれにせよ「同性愛者」という語を“受け入れ”ることに抵抗があるなら「同性愛」という語を“受け入れ”ることも難しい。むしろそれ以前に、同性の相手に対する自らの“想い”が「愛」なのか、それともただの「友情」なのかという時点でつまづくのではないか。百合作品においてもそうした心情が描かれることが多いので、この問題について当事者の目線からもっと掘り下げてもらいたかった(もっとも、そのような人物造形自体が非当事者の特権性に依拠する一種の「幻想」なのか)。

また「同性愛者」「ゲイ」「レズビアン」はともかく、「ホモ」「レズ」はしばしば《差別語》として機能する蔑称であるから、前者らと並列することはできない。一部の当事者の間では仲間内の符丁として用いられることもあるけれど、むろん「同性愛者」「ゲイ」「レズビアン」の誰しもがその《名乗り》“受け入れ”ているわけではない。

(続く)