「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5)

(2015年3月11日 加筆修正)

次に、第7章のタイトルに冠しているホモフォビアホモフォビアフォビア』という物言いである。同章には《「差別する人たちを差別する」ことの果てしなさ》と題された節も含まれている(p.224)。

牧村は、講師役のキャラクターを通して「同性愛嫌悪(ホモフォビア)」および「同性愛嫌悪者(ホモフォブ)」という概念を紹介するにあたり「ただしこれも、新たなカテゴリを人に押し付けるような言葉ではあるけどね」という但し書きを加えている(p.226)。

(p.226 ※強調は引用者)
マヤ「もっと細かく分類していくことも可能だけど、きりがないわね。こうした様々な背景に基づく同性愛嫌悪のことをまとめてホモフォビア、同性愛嫌悪者のことをホモフォブと呼びます。ただしこれも、新たなカテゴリを人に押し付ける言葉ではあるけどね

(p.227-228 ※強調は引用者)
アキラ「……でも、ホモフォビアって、俺も持ってるかもしれない……」
ヒロミ「えっほんと? どういう?」
アキラ「飲み会で酔ってちょっと男同士で抱き合ってたり、特定の男友達と仲良くしただけで、『ホモだー!』ってはやしたてる奴とか、いるじゃん。俺も何回かそうやって笑われたことあるんだけど、そういう時、なんか嫌だって思って、強く否定しちゃうんだよね。それって、つまりホモフォビアだろ」
サユキ「そういうのって、いちいち名前つけなきゃいけないことかね。そんなこと言ったら自分だって、『セクシュアルマイノリティである自分』が大好きすぎるような奴が、『異性愛者は悩みがなくていいな』とかほざいてるのを見るとぶん殴りたくなるよ。これは同性愛嫌悪する奴らを嫌悪する奴を嫌う、ってことだから『ホモフォビアフォビアフォビア』だっていうわけ?
マヤ「付け加えれば、同性愛者をある種の特別で個性的なかっこいい存在とみなす人もいるわね。そういう考えに基づいて演技すること祖、俗に『ファッションレズ』とか『営業オネエ』と呼んだりします』」
サユキ「ヘアメイクになった男友達がそうだったな。『メイク中にオネエ言葉でしゃべるとモデルも笑ってくれるし仕事が増える』って理由で、仕事の一環としてオネエのふりしてた」
ヒロミ「ええー、仕事のためだとしても、なんかそれって納得できなーい! やめさせようよ、そんなの! 『ホモフォビアはダサい』とか『営業オネエはカッコ悪い』ってイメージを作っちゃえばいいんじゃない?」
アキラ「それって、結局新しい区別を作って、これとこれは悪、ってすることだから、過去の繰り返しだよ
ヒロミ「うーん、駄目かぁ」
サユキ「そうだね。完全な悪者にできる加害者なんていないってことだ。セクシュアリティのことに限らず、知らないうちに誰かを傷つけていることもある。自分も、きつく言っちゃうタイプだから……気をつけないといけないなって、あんたたちと話してて思ったよ」

「同性愛者」を“嫌悪”すること(ホモフォビア)と、《ある種の特別で個性的なかっこいい存在とみなす》こと(ファッションレズ/営業オネエ)は、一見すると正反対に思えるけれど、共に「同性愛者」を“異化”“特殊視”する偏見の発露である。が、レイヤーの異なる問題であることも事実だ。ここでは情報を盛り込むという意識が先走ったあまり、文脈に無理が生じている感が否めない。

さて、日本のマスメディアにおいて《同性愛者差別》の問題が取り上げられることはほとんどないが、むしろ「在特会在日特権を許さない市民の会)」を中心とするレイシズム(人種差別主義)の台頭は注目を集め、これを受けて「ヘイトスピーチ」が昨年の流行語大賞にノミネートされる事態に至ったことは記憶に新しい。

一方、レイシストに対抗する人々の活動(カウンター)も盛り上がりを見せている。もっとも、そんな中でしばしば“暴力的”とも取られかねない表現が用いられることから「レイシストに対するヘイトスピーチだ」「どっちもどっちだ」とする冷笑的な見方もある。

とくに前者については「ヘイトスピーチ」の解釈を逐語的に矮小化し、概念の成り立ちを無視した“誤用”に他ならない。

「差別」を行使する者とそれに対抗する者との間には、明確な社会的力関係の格差が横たわっている。「朝鮮人を殺せ」と叫びながらコリアンタウンを闊歩する在特会の排外デモが、機動隊によって手厚く警備されている一方、カウンターの側はむしろ取り締まりの対象として、時に逮捕までされてしまうという非対称に、それは顕著だ。

一介の市民がそうした圧倒的な社会的権威に対抗するには、あるていど自己を奮い立たせる必要がある。その結果として発せられた言葉の、表面的な響きの烈しさのみをあげつらい“中立”で“客観的”な「第三者」を気取る態度は、ヘイトスピーチを追認し、ひいては「差別」に対する告発を無効化するものでしかない。すなわち《被差別者の言動を根拠に差別を正当化するレトリック》だ。

ようは「朝鮮人は死ね」と喚いている連中に対して「おまえらこそ死ね」と跳ね返しているにすぎない。その文脈を切り離して「死ね」という言葉の一般的な是非に拘泥することは“言葉狩り”に通じるものだ。

あるいは“暴力的”な対抗言論がレイシストを“他者化・悪魔化”するというのであれば、けっきょくのところ、そうした“暴力的”な表現を用いて自己表現する人々の居場所を奪うことになる。

対抗言論のあり方に制限を設ける発想こそ、自分と異なる対抗言論を選択する人々を“他者化・悪魔化”し、カウンターの中に分断をもたらす思考であろう。

ましてや、そのような対抗言論における個別の事例を取り上げて「ヘイトスピーチ」に含まれるか否かを問うことは、まったく別次元の議論である。

(続く)