「差別表現」自体を擁護・追認するこの国の風潮〜牧村朝子『百合のリアル』(6)

さて「性的マイノリティ」に目を向ければ、この国ではいまのところ、公の場において在日コリアンに向けられるほどの激しいヘイトスピーチに晒される事態は起こっていない。牧村の「差別」に対する感覚の鈍さもそこに起因するのだろうか。また、この非対称をもって「性的マイノリティ」へのヘイトスピーチやセクハラに“過剰反応”すべきではないという“中立”で“客観的”な見方もある。

だが、私はこうした実情からまったく別の意味を見出す。在日コリアンに対する、あれほどまでに苛烈で露悪的な差別表現でさえ、もっともらしい価値相対主義を持ち出して擁護・追認せずにはいられない者たちがいる。すなわちこの国では、程度の差など無関係に「差別表現」自体を擁護・追認する意識が蔓延していると判断せざるをえないのだ。

しかるにホモフォビアフォビア」「差別する人たちを差別する」などといった皮相な“言葉遊び”は、「差別」が〈個人〉の感情ではなく〈社会〉の「構造」の問題であることを、著者自身が正確に理解できているならば、とうてい用いることはできない。

実際は《「差別表現」自体を擁護・追認する意識》に対して異議を唱える人々こそ――たとえ排外デモの場において数の上でカウンターがデモ隊を上回ることがあったとしても――“多勢に無勢”であり、ゆえに「差別する人たちを差別する」など“構造的に”に不可能なのである。

「完全な悪者にできる加害者なんていないってことだ。」(p.228)といった言葉は、たしかに優しく、美しいものに見える。しかし、それを言うならば「嫌悪」という感情もまた人の心の動きにすぎず、それ自体に何の罪も害もない。ただ社会の差別構造に基づいて行使された途端、それは「悪口」の域を超えて「ヘイトスピーチ」として機能する。

そも「悪者」などという抽象的・恣意的な倫理観念と、「加害者」という明確な事実概念はまったく次元が異なる。「加害」という概念、それこそヘイトスピーチやセクハラなどは具体的な“行為”を指し示す。

ゆえに「悪者」であるか否かの判断はできずとも「加害者」の判断は可能だ。言い換えるなら「悪者」でなくとも他者を“加害”する【者】は存在するのであり、それを「加害者」と呼ぶにすぎないのである。

またその意味では「異性愛規範(ヘテロノーマティヴィティ)」と「異性愛主義(ヘテロセクシズム)」をあえて分別している点も見逃せない(p.34)。両者の差異はきわめて主観的・恣意的なものであり、差別性において等価であるにも関わらず、あたかも異性愛規範」の上位概念として「異性愛主義」を位置づけるかのような記述は、逆説的に「異性愛規範(=異性愛主義)」の容認に繋がる。

前述した『同性愛者であることの苦痛を和らげる方法』は、レズビアンにかぎらず「同性愛者」が自己の同性指向を受け入れることの困難さを示している。だがそうした「同性愛者」の一部にはむしろ「異性愛規範=異性愛主義」の側に過剰適応し、自ら主体的ないし無自覚に《同性愛者差別》に加担してしまうケースもある。

牧村がそうであるとまではさすがに断定したくないけれど、やはりイメージを売りにするタレントである以上、攻撃的な態度を見せることはできないという事情もあるのだろう。

なにも牧村に怒れとは言わない。ただ「同性愛嫌悪」や「異性愛規範=異性愛主義」に“お墨付き”を与えて自己保身を図るような「当事者」にはならないでほしい。

(了)