デマに加担する視聴者の“自発性”を否定する「メディア信仰」〜ドラマ『明日、ママがいない』をめぐって

「THE HUFFINGTON POST」内
グローバル化のもとで日本的ギロンはどこまで有効なのか』第10回:『明日、ママがいない』をめぐって(小笠原泰)
http://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/discussion-asumama_b_4797103.html?utm_hp_ref=japan

何であれ、「とりあえず謝る」と同様に、丸く収めるために放送を中止することで問題を見えなくして、日本社会が抱える児童に関わる社会的擁護の課題が大きく解決に向かうのであろうか。社会でオープンに問題をギロンすることなく、誰も傷つけてはいけないと言う理想論(ノーリスクで問題を解決できるとする理想論で社会の問題はおそらく解決しない)のもとに、放送中止に追い込むことによって、この社会的課題が解決に向かうとは、筆者には俄かに信じがたい。そもそも、この情報化の時代においてテレビの力を過大に評価していることも時代錯誤であろうし、本来、複数のメディアから自発的に情報を集めて判断することを前提にしていないというのも、視聴者をテレビのみに影響される単細胞とバカにしているとも言えるのでないだろうか。

もし放送が第2回から中止されていたら、視聴者は、児童養護施設を筆頭とする社会的養護の5施設(児童養護施設、母子生活支援施設、乳児院児童自立支援施設、情緒障害児短期治療施設)に4万人を超える児童が生活しているという現実や里親(養育家庭)制度を通して親子とは何かについて考え、その中の何人かが、さらに親権という大きな問題と養子縁組制度と特別養子縁組制度の違いについてまで、思いめぐらすこともなかったのではないだろうか。

事実、「明日、ママがいない」の平均視聴率(関東地区)は、ビデオリサーチの調べで、第1話14.0%、第2話13.5%、第3話15.0%、第4話13.1%と概ね安定的に高い視聴率で推移しており、児童の社会的擁護の問題に対する関心を広めていると思われる。

「情報化の時代」であっても、未だテレビがマスメディアの中心であることには変わりない。げんにインターネット上の話題のほとんどがテレビないし新聞の情報を元にしている。

また《本来、複数のメディアから自発的に情報を集めて判断することを前提にしていないというのも、視聴者をテレビのみに影響される単細胞とバカにしているとも言えるのでないだろうか。》という言辞からは「情報化の時代」が発達すれば自動的に視聴者のリテラシーも向上するという呑気なメディア信仰が伺える。

だが、じつのところ、それこそ視聴者の“自発性”を否定する思想でしかない。

人間は、自分の信じたいことを信じる生き物である。被差別者の悲惨な境遇を面白おかしく誇張し、お涙頂戴のネタにして悦に入るドラマを楽しむにあたって、当事者の言い分などはその感動に水を差す、まさに“不快”なノイズでしかない。

じじつドラマの視聴者が児童養護施設を筆頭とする社会的養護の5施設(児童養護施設、母子生活支援施設、乳児院児童自立支援施設、情緒障害児短期治療施設)に4万人を超える児童が生活しているという現実や里親(養育家庭)制度を通して親子とは何かについて考え、その中の何人かが、さらに親権という大きな問題と養子縁組制度と特別養子縁組制度の違いについてまで、思いめぐらす》に至ったのは(もっともそれ自体疑わしいが)、当事者がやむにやまれず情報を発信したからであって、視聴者の側が“複数のメディアから自発的に情報を集めて判断”した結果ではない。

まして《概ね安定的に高い視聴率で推移して》いるという単純な事実は、視聴者の「関心」の内容まで斟酌する根拠にはまったくならない。

そしてこのことは、皮肉にも当該記事につけられた賛同コメントが立証している。

Tsuguo M. (Mr_Togo)

実の所この問題に関しては、非常に不快感を感じています。
番組にでは無く、むしろ訴えを起こしている方にです。
本質的な問題に向き合わず、表層的な出来事に対して怒りをぶつけている様な、
非常に幼児的な反応に思える所が、そう感じさせます。

「誰も傷つけてはいけない」と言うのは、聞こえは良いですが。
問題を解決せずに無かった事にする訳で、起こっている事実に対する否認ですね。
問題を解決せずに、存在しなかった事にすると言う本能的な防衛機制ですが、
この様な本能的な行動が社会システムの中で容認される事に関して、
危惧を感じますね。
最近、理性よりも本能の言葉の方が優先されている様な気がしてますね。

2月16日 18:29

「誰も傷つけてはいけない」といった抽象的な作品論は、そもそも抗議者側の「訴え」の“本質”ではない。《「誰も傷つけてはいけない」と言うのは、聞こえは良いですが。問題を解決せずに無かった事にする訳で、起こっている事実に対する否認ですね。》などと、それこそ具体性の欠如した“聞こえの良い”観念論を並べ立てることで、作品の現実社会に及ぼす効果の問題を等閑視している。

このような、文章としての体裁すら成していない、まさしく「本質的な問題に向き合わず、表層的な出来事に対して怒りをぶつけている様な、非常に幼児的な反応」の、いったいどこから《児童の社会的擁護の問題に対する関心》が読み取れるだろうか。

その意味では前回、杉本穂高なる自称「映画ブロガー」の気色悪いポエムもどきを検証した際に述べたとおりもはやユーザーは「自分の信じたいこと」を“信じる”必要すらない。

差別的な表現を支持する人々は、判で押したように「イヤならば観なければいい」と強弁するが、それはそうした人々の心象を言い表しているにすぎない。杉本の言う《自分の半径5メートルのリアリティ》と、社会の実相が食い違った場合、そうした人々はテレビのチャンネルを変えるように《イヤだから観ない現実》から目を背けて「自分の信じたいこと」を“自発的”に選択する。

しかもドラマの主題が児童養護施設こうのとりのゆりかごの実態にせまるというようなことではなさそう。》ということであれば、なおさら視聴者がそれを機に児童養護施設こうのとりのゆりかごの実態」について《複数のメディアから自発的に情報を集めて判断すること》の蓋然性はきわめて低いと言わざるをえない。

むろん、そのような自己中心的な態度で現実社会を突き進めば、今回のように必然して他者と衝突を引き起こす。しかしデマやヘイトスピーチを垂れ流す側と、その被害を受ける側の力関係は対等ではない。本来であれば不正を立証する責任は告発する側にあるはずだが、それとて対等な関係性の上に成り立つことだ。

現実には、被差別者の側にだけ一方的に反証・反論のコストが課せられる。そしてそのような状況を、非当事者の多くは当たり前のように受け入れている。

こうした現実を直視しないメディア論は、デマやヘイトスピーチに加担する者たちの溜飲を下げる以外に何の意義もない。当該記事も《本連載のテーマからして、この番組の是非をここで問うことはしない。》などと、例によって“中立”“客観”を装いながら(あるいは本当に自己が“中立”“客観”の立場に立てていると錯覚しながら)、実質的には赤ちゃんポストと呼ばれる施設を設けたことで有名な熊本市にある慈恵病院】を始めとする抗議者たちをクレーマーとして貶めることばかり書いている。

おまけに「議論」という言葉をいちいちカタカナで「ギロン」と表記することによって著者なりの含みをもたせているつもりらしいが、その意図が読者にはさっぱりわからない。また《これを、同時間帯にテレビ東京とNHKBS−1が、銀メダルを獲得した渡部暁斗が出場したノルディックスキー複合個人ノーマルヒルの中継をしていたためとみるか、番組を継続する日本テレビに対する批判への賛同者が増えたためとみるか、はたまた、ネットでも言われるように、批判を受けての内容の修正によって、毒気を抜かれ、良い子化した番組に視聴者が面白さを感じなくなったためとみるか、ギロンは別れそうであるが、日本社会におけるオープンなギロンの芽が育つか、枯れるか、今後の展開を興味深く見守ってみたい。》といった冗漫な記述(これも日本語がめちゃくちゃ)も一文に情報を詰め込みすぎで読みづらく、他ならぬ著者自身が情報を的確に処理・整理できないリテラシーの低さを露呈している。