「関西クィア映画祭2014」への公開質問状(1)

『関西クィア映画祭について』
http://kansai-qff.org/#about
 
クィア / Queerって?
 
英語で「クィア」とは、「オカマ」「ホモ」「ヘンタイ」など、性の領域で“ふつう”ではないと考えられる人々への蔑称でした。これを逆手にとり、あえて「クィア」を使うことで、様々な少数派を可視化し、肯定します。また、LGBTだけでなく「普通でない」「典型的でない」生き方をポジティブにとらえ直す意図があります。
 
ひとりひとりが自分の性や生き方を選び決めていこう、規範(=であるべきだ、でなければならない)に気づき、立ち上がり意見しよう、というメッセージがこめられています。
 
タイヘン×ヘンタイ
 
性別や恋愛やセックスのあり方、生き方は多様だー私たちはそう思って集まります。しかし時間を重ねると、私たち自身も他者の性のあり方に無知だったり、時には受け入れられない、と気がつきます。また、性とは別の面での差別(民族、障害、社会的地位、言語、年齢、貧困など)も私たちの間にあります。
 
さらに、どこでも起こりがちな「少数派の中の少数派」をつくること。それに対する無関心、差別、抑圧は、私たちの間でも珍しくありません。本当に多様性と向き合い、それを手に入れるのはとても「タイヘン」なのです。
 
最近は「LGBT」の用語が流行りですが、私たちは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーヘテロセクシュアルといった簡単な言葉では表しきれない存在です。恋愛対象の性別や、自身の性別が、個人の人生の中で「変わる / 変態する」ことだってあります。さらに「フツーのヘンタイより、とってもヘンタイでありたい」という思いも含まれています。
 
第3回の関西クィア映画祭からずっと引き継がれている「タイヘン×ヘンタイ」。「ヘンでもいい」「不一致は私たちの豊かさだ」「私たちはひとりひとり違っている、という現実に向き合うんだ」という心意気を表現するには、ピッタリの言葉だと思いませんか?
 
枠をこわしてワクワクする秋
 
私たちの周りにあふれる枠。「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「わたしはレズビアンだ」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」など、人それぞれの枠にも、多様性があります。
 
今年の映画祭では、社会が個人に押しつける枠(個人を生き辛くさせる「らしさ」など)だけでなく、私たち自身の中にある凝り固まった枠にも注目し、自らの枠をこわしてみませんか?と提案します。これまで大事に築き上げてきた、仕方なく出来上がってしまった、私たち自身がつくりだしてきた「制限」「抑圧」「あたりまえ」…。では、どうすれば枠をこわせるの…?
 
その答えは私たちにも、わかりません。映画祭に来て、一緒に考えてみませんか? 恋愛や性欲の「好き」だけでない、私たちにはたくさんの「好き」があります。枠をこわしてワクワクし、誰もが幸せに「好き」を味わえる挑戦をしてみませんか? 日々の人間関係の中で、お互いのありのままを受け止め「それがあなただよ、そしてこれが私だよ」といえる自由を手に入れるために!

はじめまして。貴サイトにある『映画祭について』の解説を拝見したところ“ありえないくらいひどい記述”がなされていますので抗議いたします。

当該ページから引用します。

《私たちの周りにあふれる枠。「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「わたしはレズビアンだ」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」など、人それぞれの枠にも、多様性があります。》

なぜ「わたしはレズビアンだ」ということが「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な性差別思想と同列に置かれているのでしょうか?

レズビアン性自認性的指向に変化があろうとなかろうと“余計なお世話”です。「クィア」を称する人々への差別が批判されるべきなのは、それが「差別」だからであって《人間の性自認性的指向が変化するから》ではありません。

「差別」を作り出すのは、まさしく“差別的”なイデオロギーに他なりません。レズビアン性自認性的指向を自己規定するあり方を《クィア差別》と結びつけるあなたたちの思考は《ゲイがアナルSEXをすることでHIVが蔓延する》《同性愛者が増えることで少子化が促進される》という理屈と何も変わりません。

批判されるべきは、他人を望まない「枠」に当てはめる行為であり、自分で自分のセクシュアリティアイデンティティを規定すること自体は何一つ責められるべきではないはずです。ましてや「枠」を“こわす”べきだなどと、あなたたちに指図をされる筋合いもありません。

そもレズビアンは「枠」に“囚われている”のではなく、むしろ男性(異性)を愛する可能性に“開かれる”ようつねに社会的・政治的圧力を受けています。換言すれば、そのような社会的・政治的圧力を可視化するために「レズビアン」という概念が存在するのです。

むしろあなたたちこそ「多様性」などと耳当たりの良いことを言いながら「世の中には男と女しかいない」などの性差別思想を追認し、その一方でレズビアンの生き方を、クィア理論のイデオロギーに都合の良い「枠」に当てはめているのではありませんか?

またそのような文脈において引き合いに出されるのが、「ゲイ」でも「バイセクシュアル」でも「トランスジェンダー」でも、あるいは「パンセクシュアル」でも「アセクシュアル」でもなく、なぜ「レズビアン」なのでしょうか?

レズビアン」は〈同性愛者〉であることに加えて〈女性〉であることでも「差別」を受けています。まさに《女は男を愛するべきである》という性別二元制によって抑圧を受けているのです。

そこへきて「レズビアン」を《セクシュアリティの多様性・流動性》といったイデオロギーに都合良く“政治利用”するあなたたちの振る舞いは、レズビアン」の〈女性同性愛者〉としての政治的立場性の弱さに付け込んでいるとしか思えません。

以上、ご回答をお願いいたします。

(2014年10月17日 追記)

当ブログにおいて[「関西クィア映画祭2014」問題]のタグを付けた一連の記事にかぎり、著作権を放棄します。もし私の書き方が気に食わない、でもどのように抗議すればわからない、とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、いくらでもフレーズを“パクって”もらって構いませんから、ぜひあなた自身で抗議の声を届けてください→http://kansai-qff.org/#about