「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@lolonzlol編

(2014年10月16日 加筆修正)

「関西クィア映画祭2014」の“非差別性”を擁護するためにしゃしゃり出てきておきながら、まさに私の告発を裏打ちする「実例」にしかなってない、クィア主義者からの反応を取り上げてみよう。

発端となった私のツイート:

https://twitter.com/herfinalchapter/status/522176442658869248
この《レズビアン差別》を煽動・行使する宣言文を読んだ上で「いいね!」を押した人が現時点で781人もいるということは、単純に計算すれば「関西クィア映画祭」を通して781人の差別主義者が生まれたことになるな:
http://kansai-qff.org/#about @kqff_official

そしてそれに対するクィア主義者からの“応酬”:

https://twitter.com/lolonzlol/status/522249828932136960
@herfinalchapter @kqff_official 差別主義者との糾弾を受けましたので、私がこの宣言文を否定しない理由を表明します。「わたしはレズビアンだ」という文言が、他の性差別的な文言と併置され、レズビアン女性に対する社会的、政治的圧力を肯定しているとのことですが
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522250553049358336
@herfinalchapter @kqff_official この文章において列記されている他の言葉は、性差別的側面を含む意見であると同時に、日本社会において一般的な通念として受容されてきたものでもあります。
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522252753163132929
@herfinalchapter @kqff_official 性差別的な側面を持つ意見が、しかし一般通念として受け入れられる背景には、性差別主義や女性嫌悪、男性社会に承認された男性のみが社会を構成しているという観念が伝統的な常識として存在してきたことがあるように思います
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522254661223337984
@herfinalchapter @kqff_official 「わたしはレズビアンだ」という言葉は、社会の性差別や女性嫌悪、女性を道具としてみなす在り方に苦痛を感じる女性が、異性愛中心主義によって自分を消費されることを拒否するための防壁になりうる場合もあるように思います
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522259678655311873
@herfinalchapter @kqff_official この映画祭の宣言文で、この枠をこわしてみよう、と提示された「レズビアンであるという自認」は、ある女性の性指向の自認ではなく、ある女性が自分の身を守るために作った防壁のことではないかと受け取っていました
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522269969803796480
@herfinalchapter @kqff_official 女性で同性愛者であるという宣言や自認は、ただそれだけでは防壁として有効ではないようです。そうであれば、その枠を外して、女性であるということで社会から加わる圧力のありようを直視してみるのはよい試みだと思いました
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522273812272803840
@herfinalchapter @kqff_official 個人の性指向のみに目を向け、レズビアンかバイかヘテロかと区別に汲々とすることを一旦横に置いて、社会関係の中の例えばミソジニーミサンドリーの存在に目を向けることは、私自身にとっては有益だったと思っています
 
https://twitter.com/lolonzlol/status/522277869708267520
@herfinalchapter @kqff_official 以上の理由から、私はこの映画祭の宣言文が差別的なものだとまでは思わず、映画祭の開催を楽しみにしておりました。そして、この宣言文を肯定的にとらえた人間はすべて差別主義者であるかのようなご批判に困惑しております。

どこかで聞きかじったフェミ的な「文言」を“てきとー”に並べているだけで「論理」の体裁すらなしていませんね。出来の悪いBOTのようです。ま、このようなレベルの知性があの宣言文を追認するのでしょう。

>「わたしはレズビアンだ」という文言が、他の性差別的な文言と併置され、レズビアン女性に対する社会的、政治的圧力を肯定しているとのことですが この文章において列記されている他の言葉は、性差別的側面を含む意見であると同時に、日本社会において一般的な通念として受容されてきたものでもあります。

まず「わたしはレズビアンだ」という表明自体に《性差別的側面》は“いっさいない”にも関わらず《他の性差別的な文言》と同一視する「暴論」を、私は“糾弾”しています。

次に「わたしはレズビアンだ」との表明は《他の性差別的文言》と違い《日本社会において一般的な通念として受容されてきたもの》では、まったくありません。その意味においても非対称性が無視されています。

>「わたしはレズビアンだ」という言葉は、社会の性差別や女性嫌悪、女性を道具としてみなす在り方に苦痛を感じる女性が、異性愛中心主義によって自分を消費されることを拒否するための防壁になりうる場合もあるように思いますこの映画祭の宣言文で、この枠をこわしてみよう、と提示された「レズビアンであるという自認」は、ある女性の性指向の自認ではなく、ある女性が自分の身を守るために作った防壁のことではないかと受け取っていました

異性愛中心主義によって自分を消費される》現実が存在しているにも関わらず、なぜ《自分を守るために作った防壁=レズビアンであるという自認》を“こわしてみ”なければならないのでしょうか?

> 女性で同性愛者であるという宣言や自認は、ただそれだけでは防壁として有効ではないようです。そうであれば、その枠を外して、女性であるということで社会から加わる圧力のありようを直視してみるのはよい試みだと思いました

また仮にあなたが挙げるような“政治的役割”が見いだせるからといって、レズビアンであるという自認」の“役割”はそうした一面的な政治性だけに矮小化されるものではありません。

あるいはレズビアン当事者が「レズビアン」であるという理由で非当事者よりも高い政治意識を求められるべきでもありません。それもまたレズビアン」のありようを非当事者が抱く理想の「枠」にはめているにすぎないからです。

レズビアンであるという自認」の意義を定めるのは個々の「レズビアン当事者」であり、あなたたちではありません。ましてあなたたちに「こわしてみよう」などと指図される筋合いもありません。

あるいはその要求が提案や期待といった“ゆるい”形でなされようと、レズビアン」の性的主体性が否定・侵害されている現状においては必然して政治的強制力を伴います。その権力性・暴力性に無自覚であること自体が「特権」に他なりません。

>個人の性指向のみに目を向け、レズビアンかバイかヘテロかと区別に汲々とすることを一旦横に置いて、社会関係の中の例えばミソジニーミサンドリーの存在に目を向けることは、私自身にとっては有益だったと思っています

レズビアン」が《女性であるということで社会から加わる圧力のありよう》を“直視”しておらず《個人の性指向のみに目を向け、レズビアンかバイかヘテロかと区別に汲々と》していると決めつけるのはなぜですか?

レズビアン」のアイデンティティと《社会関係の中の例えばミソジニーミサンドリーの存在に目を向けること》は別次元であり、ゆえに両立可能な事柄です。

あなたたちの偏狭かつ独善的な“政治的正しさ”に従わない「レズビアン」を、政治的に意識が低いと見下す真似はおやめください。そのような卑小な存在として「レズビアン」を位置づけ“差蔑”する意識こそを私は“糾弾”しているのです。なぜならそれは《レズビアン差別》を正当化するヘイトスピーチに他ならないからです。

加えて「人間らしさ」と「性別らしさ」を二項対立として捉える思考は《「性別」を愛するのか「人間」を愛するのか》という“偽りのジレンマ”を「レズビアン」に課す「バイセクシズム」に繋がります。言うまでもなく、この場合の「性別」が犬猫の類ではなく「人間」を指す以上、「性別」から「人間」を切断する試み自体が成立しません。

そこへきてあなたたちが賞揚する「宣言文」は《レズビアンをやめて異性愛者になるべきだ》とする旧来のヘテロセクシズム言説をレズビアンをやめる必要はないからバイセクシュアルを目指せばいい》と言い換えたにすぎません。

また、これはクィア理論の是非を問う以前の一般論として、あなたにとって「有益」な手段がすべての人にとってそうであるとはかぎりません。セクシュアリティの多様性》を金科玉条のごとく掲げながら、なぜあなたたちの考えを人に押しつけるのでしょうか?

そも《多様性》とは社会の中で「性の自己決定権」が保障されることにより自ずと顕現する事象であって、“それ自体”を至上の価値として掲げるのは本末転倒でしかありません。「自己決定権」をないがしろにしたまま《多様性》や《自由》を追求するなら、それは必然して《搾取》に陥ります。

人は誰もが“政治的存在”であるからといって――ゆえに「レズビアン」だけを特別に“政治的”な存在として扱うこともできない――レズビアン」を《政治的イデオロギー》の道具として利用する試みは、まったく意味が違います。

レズビアン」とは人間の性のありようを言い表す概念の一つにすぎず、それ自体は《政治的イデオロギー》とは無縁の存在です。あなたたちが自分に都合良く勝手にこじつけないかぎりは。

レズビアン」はクィア理論の“政治的正しさ”を証し立てるのに都合良く“政治利用”されるべき「記号」「道具」ではありません。

「人間」です。

「人間」を「モノ」として扱う《差別思想》を容認することは、それ自体が「差別」であり、ゆえに“糾弾”に値するのです。

>以上の理由から、私はこの映画祭の宣言文が差別的なものだとまでは思わず、映画祭の開催を楽しみにしておりました。そして、この宣言文を肯定的にとらえた人間はすべて差別主義者であるかのようなご批判に困惑しております。

ま、せめて今回の私の告発をきっかけにレズビアン」を“政治的搾取”するあなたたち自身の政治的特権性と傲慢さを少しは自覚できるようになれたら、めっけもんですよね♪