「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応〜@isidaiori編

(2014年11月6日 加筆修正)

https://twitter.com/isidaiori/status/523683067857088512
私が気になるのは「レズ当事者はどう思ってるの?」って事です。herfinalchapterさんは男でレズ創作のファン、つまりはレズをポルノとして消費している側ですので、レズ当事者が「べつにぃ、何ともないです」と言えば、それを最大限に尊重するべきです。

この石田伊織(@isidaiori)という人物はTwitterにおける表現規制反対運動の「論客」であり、性差別・性暴力の表現を批判する者を勝手に「規制推進派」と決めつけた上で粘着する習性がある。どちらかと言えば旧アカウントの「@Silver_Pon」で知れ渡っていることから、以下【汁ポン】と呼ぶことにする(なお、現在「@Silver_Pon」のアカウントはまったく別の人物が使用している模様)。

今から遡ること数年前、Twitterの「#hijitsuzai」タグでアクティブに発言していた時期より一貫して表現規制に反対している私すらも、この汁ポンは規制推進に与する「敵」と見なし、ことあるごとにこうした非建設的な難癖をつけてくるので困ったものである。

あらためて説明するのも馬鹿馬鹿しいことだが、性差別・性暴力の表現を批判することと、公権力に基づく恣意的な表現規制に反対することは両立する。“わいせつ”だから逮捕した、といったロジックを追認することは、表現の差別性に対する追及をうやむやにしてしまうと同時に、青少年に向けて正確な性の知識・情報を啓発する教育活動をも妨げるからだ。

しかし裏を返せば性表現に対する批判は、その“差別性”に対する批判に限定されなければならない。その意味で「性暴力表現」とは、ただの「暴力表現」とは異なり、「性差別」に立脚している点で「性差別表現」の一環となる。

たんに「性」あるいは「暴力」を描いているというだけの理由で、その表現を(たんに自分は選択しないという意思表明に留まらず)“否定”するなら、それは「性差別=性暴力」の批判とはならず、公序良俗の行使となる。しかしこの「公序良俗」なる観念こそが、まさしく《公権力に基づく恣意的な表現規制》に繋がるものだ。

それにも関わらず汁ポンが「論敵」と見なす私を誹謗中傷するにあたって持ち出しているレトリックは、実際の規制肯定論者が用いることのない――すなわち規制反対派が「規制推進派(と一方的に見なす者)」に対するネガティブ・キャンペーンのために作り上げた、カリカチュアライズされたポルノ規制論を焼き直しているにすぎない。

しかしポルノ規制に反対の立場を取るのであれば、ここはむしろ男性異性愛者がレズビアンを題材にしたポルノグラフィをきっかけとして、現実社会の《レズビアン差別》に意識を向けることの有用性を主張するべきではないだろうか。

このような汁ポンのダブル・スタンダードは、表現規制反対運動の欺瞞を端的に表している。なんのことはない、表現規制反対派が反対しているのは自分の好きな「表現」に対する規制のみであり、「百合」や「BL」といった自分の気に食わないマイノリティの「表現」については、むしろ積極的に規制する側に加担するということだ。

加えて汁ポンは私に向けた私怨に走るあまり、レズビアン・ポルノに対する規制に与するばかりでなく、「関西クィア映画祭2014」の宣言文におけるレズビアンへのヘイトスピーチに対する私の告発を無効化することで、結果としてヘイトスピーチを擁護している。

表現の自由》を錦の御旗に掲げる表現規制反対運動において、ヘイトスピーチは《自由の象徴》として位置づけられるのである。

また告発の無効化にあたっては、「百合萌え」の男性異性愛者である私が《レズビアン差別》を批判していることを、あたかもレズビアン当事者の“代弁”をしているかのように印象操作する一方で、汁ポン自らは「べつにぃ、何ともないです」などとして、レズビアン当事者の心情を手前勝手に斟酌したあげく“代弁”している。

このようにしてダブスタを駆使し、《自分に当てはまる言葉で他人を攻撃する》のが“汁ポン・クオリティ”である。

そも「関西クィア映画祭」に対してレズビアン当事者を含めたゲイリブ団体およびLGBTのコミュニティが声を上げられない“政治的事情”については、すでに私が取材したとおりである。WWW(World Wide Web)上に文字通り「世界」のすべてがアップロードされていると錯覚し、部外者の目から見た皮相な印象だけで物事をわかった気になるのは滑稽なことだ。

ましてや個々の当事者の意志を否定し、「レズ当事者」という記号として一元化する汁ポンの行為は、まさしくレズビアンに対する“政治的搾取”と言える。

翻って私は、一貫して「関西クィア映画祭2014」が煽動・行使する《レズビアン差別》――そしてそれがいかにして社会の中で機能しているか――の「事実」を指摘しているにすぎない。それは「事実」であるがゆえに、その告発にあたって当事者性を問うことは無意味である。

したがって、非当事者が《レズビアン差別》を告発・批判したところで、「レズビアン」を〈被差別者〉〈弱者〉の立場に固定し、保護の対象として支配下に置く――自警団よろしく「レズビアン」を“守る”――パターナリスティックな事態との間には、大きな隔たりがある。まして「百合萌え」の男性異性愛者という私自身の“属性”を理由に告発を無効化することは、卑劣な人格攻撃と言う他ない。

レズビアン差別》は、それが「差別」であるがゆえに批判されるのだ。その他の理由も言い訳もいっさい必要ない。まして私は「百合」が好きだからという理由で《レズビアン差別》を批判しているわけでは、けっしてない。

また「百合萌え」を理由に「レズビアン」ないし《レズビアン差別》に対する“理解”の深さを自己主張したこともない。そも「レズビアン」を“理解”できようとできまいと《レズビアン差別》を黙認、あるいは正当化する理由にはまったくならない。

すなわち、ここでも汁ポンは他者の内面を勝手に決めつける傲慢さを発揮している。

クィア運動はおろか、表現規制反対運動においても、汁ポンのような「無能な味方」の存在は、ただ有害でしかない。