「レズビアン・ポルノ」の“消費”は《レズビアン搾取》となりうるか?

https://twitter.com/isidaiori/status/523683067857088512
私が気になるのは「レズ当事者はどう思ってるの?」って事です。herfinalchapterさんは男でレズ創作のファン、つまりはレズをポルノとして消費している側ですので、レズ当事者が「べつにぃ、何ともないです」と言えば、それを最大限に尊重するべきです。

さて《レズビアン差別》を告発する文脈においては、しばしばレズビアンを題材としたポルノグラフィの表現、そしてそれらを“消費”する行為自体が、現実のレズビアンに対する偏見を助長するものであり、レズビアンに対する《性的搾取》であるといった物言いが自明のごとくなされる。

だが、その前提ははたして疑う余地のない事実であろうか。

レズビアンを「ネタ」にしたポルノを“消費”する行為自体がレズビアンに対する《性的搾取》であるという言説は、次の3つの構造から成り立っている。

(1)「レズビアン」というセクシュアリティ自体が差別的であるということ。
(2)「レズビアン」をポルノグラフィの中で表現する行為が差別的であるということ。
(3)「レズビアン」を表現するポルノグラフィを“消費”する行為が差別的であるということ。
以下、この3つの論点の一つ一つを検証してみる。

(1)→No。

レズビアン」のアイデンティティ表明を“クィア差別”と決めつけるレトリックは、まさに「関西クィア映画祭2014」の差別的な宣言文と同じ発想であり、それが完全に破綻していることは私による『公開質問状』の中で繰り返し述べてきたとおりだ。

(2)→No。

そもポルノグラフィが性的な表現である以上、ポルノグラフィにおいてレズビアンが描かれる場合も、性的な表現となることは必定である。

またそれを理由にレズビアンを過度に性的な存在として捉えるといった偏見をもつ者がいるとしても、偏見は100%偏見を抱く側の問題だ。たとえば現実のレズビアンの中に犯罪に手を染める者がいたとしても、それを理由にレズビアンを犯罪者予備群と規定できないことと同じである。

または、レズビアンは「変態」であり頭がおかしいから犯罪に走るのだといったロジックに基づいて構築された作品があるなら、それは《レズビアン差別》の表現となるだろう。しかし実際のレズビアン・ポルノの中身は(その多くが偏見に基づく宣伝文句と共に売り出されていたとしても)ただ女同士のSEXを映すだけであり、そこに何らかの意味性・観念性を付与するのは(宣伝も含めた)外在的要因に他ならない。

ただ実写の「アダルトビデオ」に関しては、そのようなメディアが存在すること自体が「女性(AV女優)」に対する《性的搾取》だとする立場もある。しかしそうしたフレームで議論をするのであれば、なおさら「レズ物」の差別性だけをあげつらうのはフェアではない。よって、その論点をこの文脈で持ち出す試みは無効である。だいいち「関西クィア映画祭2014」の宣言文の中でも「性を売るなんてよくない」という言辞は“こわす”べき「枠」の一つとして陳列されている。

(3)→No。

鑑賞者の「差別意識」が《差別表現》に投影されるという事象が成立するにあたっては、その表現自体に差別性が含有されていることが前提となる。差別意識」が《差別表現》によって励起される以上、差別性のない表現に対して「差別意識」が発生することもありえないからだ。

たとえばロリータ物のポルノ(※といっても幅広いが、ここでは〈少女〉と〈成人男性〉という関係性を設定した上で、児童買春や性的虐待などを“官能的”に表現する「創作物」を想定している)をきっかけにして、現実の《児童搾取》の問題にも関心を抱くようになったという奇特なユーザーが存在したとする。

しかし《現実の児童搾取の問題にも関心を抱くようになった》というのであれば、必然して大人が子供を性欲の捌け口にすることの権威性・暴力性にも気がつくはずである。ゆえに《現実の児童搾取の問題にも関心を抱》きながらロリータ物のポルノを“消費”することは矛盾であり、《大人が子供を性欲の捌け口にすること》を正当化するための自己欺瞞であるとさえ言える。

もっともレズビアン・ポルノの中には十代の少女たちの性行為を描くものも多い。だが、それはいわゆる「ロリコン」の嗜好とは似て非なるものである。なぜならロリコン」とは《大人が子供を性欲の捌け口にすること》に他ならず、子供が子供に対して性欲を向けることを「ロリコン」とは呼ばないからだ。

あるいはそうした子供同士の性愛に対し、大人がエロスを見い出すことも「ロリコン」の範疇ではない。なぜならその場合の大人は自身が子供たちとの性愛の関係を望んでいるわけではなく、「ロリコン」の前提となる大人と子供の権力構造が成り立たないからだ。

元より、子供同士でSEXを行うことの危険とは、未熟で不正確な性知識によって互いを傷つけ合う可能性が高いためであり、大人による《児童搾取》の問題とは議論の前提からして完全に別次元である。また先述のとおり強権的な「性規範」に基づいていたずらに「性」を“規制”してしまうことは、子供たちの性的主体性を否認するパターナリズムであるばかりか、事態の悪化にしか繋がらない。

それでも子供にエロスを見い出していることには変わりないではないか、という物言いもあろう。だが、人間のセクシュアリティを論じる上で主体となる当人のアイデンティティをないがしろにするなら、〈女性〉のジェンダーアイデンティティに基づいて〈女性〉を愛するというレズビアニズムも成り立たず、たんなる「女性愛」として一元化されてしまう。

もっとも《性差否定》のイデオロギーを至上の価値として称揚するクィア主義者からすれば、そうしたアイデンティティこそむしろクィア運動の推進を妨げる要因として“解体”の対象となるかもしれない。だがそのようにして他者の性的主体性を自分勝手な都合で簒奪する行為は、まさしく「関西クィア映画祭2014」における《レズビアン差別》と同じ力学の行使である。

  • とはいえ、クィア主義者はロリコン小児性愛者といった「枠」については容認するどころか《小児性愛者の権利》なるものを主張していたりする。このことからクィア理論が解体の対象とする「枠」とは、もっぱら〈男/女〉の《性差(性別)》に限定される。
  • 換言すればクィア理論とは《性差否定》を目的とするイデオロギーであり、ために一時流行した(そしてすでに死語と化した)「ジェンダーフリー思想」のあらゆる問題点がクィア理論にもそっくり当てはまる。
  • それにも関わらずクィア主義者の多くがジェンダーフリーに否定的なのは、たんなる政治的党派性――ようは学者の間の“縄張り争い”――の結果にすぎない。

むろん、このことは「百合」にかぎらず、男女ないし男同士のポルノグラフィにも当てはまるから「百合萌え」の嗜好だけを正当化・特権化しているといった批判は的外れである。そして言うまでもなく実在の児童の裸体や性行為などを映す本来の意味での「児童ポルノ」には当てはまらない。

また、とくに男性異性愛者がレズビアン・ポルノを鑑賞する心理・態度について《覗き見感覚》と解釈されることがある。だが、現実のレズビアン当事者に向けてそのような要求をする場合は別として、フィクションの表現における女同士の性行為を“見る”という行為を「覗き」と言い表すことは不当である。なぜなら「覗き」という行為はたんに“見る”ことではなく、(本来、自分がいてはならないはずの)その「場」に立ち会うということにこそ欲情の“ツボ”があるからだ。

そも他人のSEXを“見る”という行為の意味性については、それこそ男女でも男同士でも変わりなく、女同士を対象とした場合にかぎって《覗き見感覚》として異化する必要性はない。

* * *

かくして、少し話が脇に逸れたけれど、前記(1)(2)において検証したとおり「レズビアン」というセクシュアリティおよび「レズビアン」を題材にしたポルノグラフィに差別性が含有されていないことはすでに明らかだ。したがってそれらに依拠する最後の論点(3)も立証できないことになる。

本来、不正を立証する責任は告発する側にあるはずだが、《レズビアン・ポルノはレズビアンに対する性的搾取である》といった一見もっともらしい理屈を振りかざされると、そこで思考停止に陥ってしまう手合いが後を絶たない。加えて「差別」を告発する立場の者が自ら「差別」を犯しているといったスキャンダラスな話題は、「論敵」を貶めるためなら自らの政治的イデオロギー表現規制反対)をねじ曲げることも辞さない、まさに汁ポンのごとき下衆がいかにも飛びつきやすいネタだ。

表現規制反対運動、そしてそれによって擁護されるクィア運動もまた、各々が題目として掲げるイシューの現実的解決にはじつのところ誰も関心がないのだろう。詐欺師まがいの詭弁を弄して、己が囲い込んだ「島宇宙」でのヘゲモニーを掌握することに汲々とするばかりである。

(2015年8月21日 追記)

「関西クィア映画祭2014」問題の論点から外れる内容であるため、タグを外し、それに伴い連番を移行しました。