レズビアンの自己認識は“決めつけ”なのか?〜「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(1)

(2017.6.4 タイトル変更)

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/522253221113237504
確かに、「わたしはレズビアンだ」だけ浮いてる…自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になるという意味はわからなくもないけど、確かに他の例示とは質が違うよね。

イチカワユウ(@yu_ichikawa)は『PE=PO』という同人誌を主宰するクィア主義者である。数年前まで、私はこの人物からTwitter上でフォローされていたのだが、たまさかTLに流れてくるツイートを読むとあまりに的外れなことばかり言っているのでブロックした。

このイチカワがどれだけ馬鹿なのかは、漫画表現における女性の乳房の表現と現実の女性の乳房を比較した英語の図版を《おっぱいの正しい描き方》として流布し、“炎上”を引き起こした一件に明らかである。馬鹿という言い方がアレなら、思考の認知能力と論理性に大きな歪みのある人物と言い換えてもいい。

「いかに日本の萌え漫画家がモノホンのおっぱい知らないかがようわかるのうw」 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/567779

さて今回、私は「関西クィア映画祭2014」に対する抗議活動の総括として、同団体が抱える問題点を21項目に亘って列記した。それらは互いに相関しながらもゆるやかに独立しているけれど、中でも《レズビアン差別》の問題に焦点を絞るなら、大まかに分けて次の2点に絞られる。

(a)「関西クィア映画祭」とは、「レズビアン」のアイデンティティ形成を「枠」と決めつけた上で、その「枠」を「こわしてみませんか?」と要求・期待することによりレズビアン」の性的主体性を否定・侵害する、すなわち「レズビアン」に対するパターナリズム(権力的介入・干渉)を行使する権力者の団体である。

(b)「関西クィア映画祭」とは、「レズビアン」のアイデンティティ形成およびその表明について、クィア運動の啓蒙・推進を妨害する“クィア差別”と位置づけ、あまつさえ明確な差別的言説と並列化・同一視することで、レズビアン」をセクシスト(性差別主義者)に仕立て上げ、かつ《レズビアン差別》を相対化・正当化する、まさしくセクシスト(性差別主義者)そのものの団体である。

上記2点の指摘に対し、イチカワは(b)は受け入れながらも(a)に関しては同団体と同じ立場と見解を共有している。ゆえに、体面上は同団体を批判する立場を表明しながらも、同団体の思想的・政治的基盤となるクィア理論のイデオロギーについては“自明の理”として無批判に前提化している点で、やはり「シンパ」の一人であることに変わりはないであろう。

すなわちイチカワ自身も「関西クィア映画祭2014」と同様に《「レズビアン」の性的主体性を否定・侵害する、すなわち「レズビアン」に対するパターナリズム(権力的介入・干渉)を行使する権力者》の一人、あるいは自らが実行しないまでもそれを是とする人物であるというわけだ。

またこのことからも、同団体によるこの度の「暴挙」がいち市民団体の不始末に留まらず、クィア理論およびクィア運動そのものの本質的構造に起因している事実が裏打ちされる。

しかし、はたしてレズビアン当事者が「レズビアン」という自己の性的アイデンティを自認・表明することは《自分で自分のセクを決めつけてしまうこと》になるだろうか?

まず、そのような批判がもっぱら「レズビアン」のみに限定され、アセクシュアルノンセクシュアルには向けられない――向けられた場合、クィア主義者は明確にその差別性を指摘する――ことからも、あくまで《性差否定》の一環としてなされている言説であることがわかる。

あるいは、糞食の嗜好をもたない人に対して「おまえは自分がスカトロでないと“決めつけ”ている!」などと糾弾することが、どれだけ馬鹿馬鹿しいか考えてみるといい。そも「レズビアン」とは、《男性(異性)を愛さない》というセクシュアリティを自認(自己認識)する人が「レズビアン」を“名乗る”のであり、レズビアン」に“なる”ために《男性(異性)を愛さない》ことを“決める”のではない。

もっとも、ラディカル・フェミニズムの一環として、非同性愛者の女性があえて「レズビアン」を名乗る場合(レズビアンフェミニズム)もあるけれど、それは言うなれば自覚的に自らの「枠」を作る行為である。《自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》というイチカワの言辞は、むしろ「枠」に無自覚な“意識の低い”レズビアン当事者を想定したものだ。

しかしレズビアン」は《自分で自分のセクを決めつけてしまう》以前に、まず〈女性〉であることから《男性を愛する》ものと世間では“決めつけ”られているのである。

「セクマイ」をめぐる議論に現を抜かしていると、しばしばこの《世間の目》を忘れてしまいがちだ。「ゲイ(男性同性愛者)」の場合と異なり、「レズビアン(女性同性愛者)」はその存在自体がマンガやポルノの中でしか成立しないとして“否認”される傾向にある。

社会の常識や規範を相対化してみるのはいいとしても、それらをまるっきり“忘れてしまう”なら、クィア」を称する自分もまた「世間」「社会」の一部である事実から“目”を背け、自分が何か特別な存在にでもなったかのような錯覚に陥る。

イチカワに象徴される、そうしたクィア主義者の論理には、主として三つの傾向が見受けられる。

(1)階層の異なる事象を一元化・同一視する。
(2)他人の内面を自分に都合良く“決めつけ”る。
(3)「差別」の問題を〈社会〉の構造から切断して〈個人〉の内面に還元・矮小化する。

ここで問題の差別的な宣言文を振り返ってみよう:

http://kansai-qff.org/#about
最近は「LGBT」の用語が流行りですが、私たちは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーヘテロセクシュアルといった簡単な言葉では表しきれない存在です。恋愛対象の性別や、自身の性別が、個人の人生の中で「変わる / 変態する」ことだってあります。さらに「フツーのヘンタイより、とってもヘンタイでありたい」という思いも含まれています。

宣言文は《恋愛対象の性別や、自身の性別が、個人の人生の中で「変わる / 変態する」ことだってあり》うることをもって「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーヘテロセクシュアル」という概念の有効性と存在意義を全否定する。《「変わる/変態する」ことだってあります。》とあるが、じつのところは《「変わる/変態する」こと》を人間のセクシュアリティの“本質”として規定しているにすぎない。

しかし人間の性自認性的指向が「変態しうる」ことと「変態する」ことは《階層の異なる事象》である。前者は可能性の提示であるが、後者は「人間の性自認性的指向」に対する“決めつけ”であり「変化しない」という“可能性”を否定するものであるからだ。

さらには「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」というイデオロギーもまた《階層の異なる事象》である。なぜなら人間の性自認性的指向が「変態しうる」からといって「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」などと指図される筋合いはないからだ。

すなわちこれら三つの《階層の異なる事象》の中で、正しいのは最初の「変態しうる」だけであり、残りの「変態する」「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」は二つとも間違いである。

  • そも性自認性的指向が変化・流動するセクシュアリティを「変態」という語彙で言い表すことの是非については脇に置く。
  • しかし《「フツーのヘンタイより、とってもヘンタイでありたい」という思いも含まれています。》とあるけれど、はたして《性自認性的指向が変化・流動するセクシュアリティ》を自認する当事者が、そのような「思い」を共有していると言い切れるだろうか?

ところがクィア主義者は人間の性自認性的指向という「内面」の事象が「変態しうる」という可能性をもって「変態する」と“決めつけ”、その上で「《変態しうる可能性》に開かれるべきである」というイデオロギーの“押しつけ”を正当化・特権化するのだ。このような詐術を見抜くことが、クィア主義者の書いた文章を読み解くコツである。

そしてレズビアン当事者が「レズビアン」という自己の性的アイデンティを自認・表明することと《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》ことも《階層の異なる事象》だ。なぜなら《自分で自分を「レズビアン」と“決めつけてしまう”行為は、先述の「レズビアンフェミニスト」などの事例にしか当てはまらないからだ。

そうではない一般のレズビアン当事者が「レズビアン」を自認・表明することにより、自分で「自分のセク」を《男性を愛さない》と“決めつけてしまう”というイチカワの解釈は、そのじつ本末転倒なのである。

元より「関西クィア映画祭2014」の宣言文においても、「わたしはレズビアンだ」というレズビアンアイデンティティ表明と「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な差別的言説を並列化することにより、あたかもレズビアン当事者がそれらの差別的イデオロギーを有しているかのように印象操作している。

これこそまさしく《他人(=レズビアン)の内面を自分(=クィア主義者)に都合良く決めつける》行為に他ならない。クィア主義者が「レズビアン」から性的主体性を剥奪するにあたって、「レズビアン」をそのような性差別主義者として設定すれば“都合が良い”からだ。

なおついでに言っておくと、上に述べてきたことはクィア主義者の「内面(意図)」の問題ではなく、あくまでもクィア理論の論理構造を客観的に分析した結果にすぎない。