《人を愛さない権利》と「レズビアン」を“語る”ことの困難〜「関西クィア映画祭2014」シンパからの反応:@yu_ichikawa編(2)

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/522253221113237504
確かに、「わたしはレズビアンだ」だけ浮いてる…自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になるという意味はわからなくもないけど、確かに他の例示とは質が違うよね。

この度の「関西クィア映画祭2014」の宣言文に対するイチカワユウのコメントは、奇しくもちょうど今、ネット上で物議を醸し出している次の言説とリンクしている。

https://twitter.com/sosotakei/status/527272699106586624
ハラスメントって言葉やめねえか?大好きな人にされたら許せて、嫌いな人にされたら怒る行為はハラスメントじゃねえと思うんだわ。。それはただの人の好き嫌い。。ハラスメントハラスメント騒いで人を罰することばっか考えてねえで人と人の輪を温かく築こうや、それが人間の素敵な優しさや愛だよな。。

https://twitter.com/sosotakei/status/527280342202208256
ハラスメント無くそう、無くなる人間関係を築こう、なんてのは、理想論だってのは分かってんだわ。。だけどよ、職場だろうがなんだろうが、素敵な人間の優しさとか愛がなくちゃつまらねえだろ。。難しいけど目指さなきゃ辿り着かねえからよ。。苦しんでる人いたらすまん、オレ頑張るから許してや。。。

https://twitter.com/sosotakei/status/527287989617963009
ハラスメントなんて単語使って罰則作って嫌悪感高めるのも解決策だと思うけど。。いじめも、暴力問題も、ハラスメントも愛のある言葉だったりそれで築いた人間関係で変わると思うんだわ。。日本語ってそういう素敵なものだ。。愛の表現がこんなに多様な言葉他にねえ。。日本人の底力見せてやろうぜ。。

このような武井壮の「暴論」は、「性の自己決定権」の理解が完全に欠落した人間による発想である。

しばしば誤解されがちだが、「性の自己決定権」とは《人を愛する権利》ではなく《人を愛さない権利》のことである。気の乗らない相手とのSEXを回避・拒否する権利、と言い換えることもできる。

他人の心身を利用して自己の「欲望」を満たすことは、たまさか相手との合意が得られた場合にのみ認められるというだけの話であり、そのような条件付きのものを「権利」とは呼べないからだ。

また相手との合意を必要とせず、ただ「欲望」を“もつ”こと自体は自由だというのであれば、それは《プライバシーの権利》に属する事柄であり、やはり「性の自己決定権」の範疇とは異なる。

「性の自己決定権」の観点が抜け落ちたなら《大好きな人にされたら許せて、嫌いな人にされたら怒る》ことはたしかに“わがまま”として感じられる。このように、相手側の事情・都合や論理の整合性よりも【オレ】の「感じ」だの「思い」だのが優先されるのが「ハラスメント」を行使する者の「論理」である。

同様にレズビアンアイデンティティの自認・表明について《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》と言い表すなら、レズビアンもまた「わがまま者」のように“感じられる”だろう。

その意味で「わたしはレズビアンだ」というレズビアンアイデンティティ表明が「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などの明確な差別的言説と並列化されているのは、レズビアンが《男性を愛さない》という“わがまま”のために、各種の「性差別」を肯定・行使しているというイメージに基づく記述である。

元より、いかなる差別主義者とて「性の自己決定権」が否定されるべきでないことは言うまでもない。そも「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などは、いずれも他者の「性の自己決定権」を侵害するがゆえに「性差別」として機能する言説である。

かくしてクィア理論においては、レズビアンによる《男性を愛さない》という「性の自己決定権」の行使は、性差別撲滅を妨害する“岩盤”と位置づけられる。よってレズビアンの「性の自己決定権=枠」を“こわす”ことこそがクィア運動の成就となる。

そしてなおかつレズビアン当事者に対しても、そのような「レズビアン」への偏見と罪悪感を植え付けることにより「性の自己決定権」を自ら放棄するよう誘導するのだ。自己啓発セミナーの手口を踏襲した、巧妙な洗脳のテクニックである。

また自己啓発セミナーと言えば「偽りのジレンマ」という詭弁術がある。問題の差別的な宣言文においては「こわしてみませんか?」という提案の形を取ることで、体面上はあたかもレズビアン当事者の性的主体性を尊重しているかのように見せかけている。だがその“提案”を拒むことは、同時に「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」などといった差別的言説を支持する性差別主義者として糾弾・断罪されることを意味する。

すなわち性的アイデンティティを“こわす”ことの是非ないし可否を議論するのではなく、「こわしてみませんか?」という“問い”そのものの欺瞞と暴力性に気がつかなければならないのである。

* * *

レズビアン」にしても「ハラスメント」にしても、「差別」「暴力」の構造を可視化するために存在する概念であって、その語自体が「差別」「暴力」を生産しているわけではない。

「差別」「暴力」の構造を解体する手段をもたないまま《言葉狩り》を実行するなら、〈被差別者〉〈被害者〉の言葉を奪い、沈黙を強いることとなる。

加えて、そも「レズビアン」を“語る”ことの難しさとして、レズビアン」を肯定する語彙が存在しないという根本的な問題がある。とりわけイチカワのように、言葉の使い方に無神経な者が「レズビアン」のセクシュアリティを言い表すなら、それ自体がヘイトスピーチとして機能するという悪循環に陥る。

たとえば《性別を越えた愛》と言った場合、それはあくまでもバイセクシュアルおよびパンセクシュアルを肯定する言葉である。〈女性〉のジェンダーアイデンティティに基づいて〈女性〉を愛する「レズビアン」は、まさしくイチカワの言に倣うなら《自分で自分のセクを決めつけてしまう》人々ということになる。

裏を返せば《自分で自分のセクを決めつけてしまうことが枠になる》という批判は、バイセクシュアルおよびパンセクシュアルには当てはまらない。よってバイセクシュアルおよびパンセクシュアルは、その意味で「レズビアン」に対する社会的・政治的特権性を有する。

さらに言えばトランスジェンダーもまた《性別を越える》性のありようということでクィア理論の後ろ盾を受ける。そしてゲイリブはその性質上、LGBTの中でもやはり「G=ゲイ男性」が主導権を握る。

かくして「レズビアン(ゲイ女性)」を肯定する論理は、この社会に存在しない。よってレズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図》を獲得するまでもなく、問題の差別的な宣言文は「レズビアン」に対して、その「性の自己決定権」をクィア運動に譲渡する“政治的決断(=決めつけ)”を強迫する。

「関西クィア映画祭2014」が、そのクィア運動の推進にあたり仮想敵として設定するLGBTの中から、とくに「L=レズビアン」だけを“狙い撃ち”した事実は、けっして偶然の結果ではないのである。