「関西クィア映画祭2014」への公開質問状(4)

オッシーです。あまりに矛盾だらけで、辻褄すら合わないご回答に言葉を失ってしまいました。9時間も議論を重ねられた上であのような結論に至ったということは、このまま議論を続けても平行線と思い、いったん打ち止めにすることも考えましたが、それでも臨時の会議を招集するなど誠実に対応してくださっている点を鑑み、新たに質問をさせていだだきます。今度の「ふりかえりの会」で、ぜひ取り上げていただきたく思います。

《私の中の「レズビアンだ」という枠をこわすという意味をこめてる。誰かがレズビアンだと私に対して言ってくるならこわしたいといった文章だったら分かりやすかったかもしれない。挙げられた例は、社会状況把握のため。つらいと思う、大変だと思うことが、入っていればいいと思った。それらを可視化できればいいと思い、「私はレズビアンだ」はその中のひとつである。不可視化させたくないこととして取り上げた。》とありますが、センテンスごとに複数の論点が混在し、意味不明ですので、書き直しをお願いします。

・《これらの枠の例は、関西クィア映画祭2014実行委員会では、否定的とも肯定的とも表明しておりません。》とのことですが、同時に問題の差別的な宣言文には《今年の映画祭では、社会が個人に押しつける枠(個人を生き辛くさせる「らしさ」など)だけでなく、私たち自身の中にある凝り固まった枠にも注目し、自らの枠をこわしてみませんか?と提案します。》とあり、すなわち貴団体自らが「これらの枠の例」を「レズビアン」のアイデンティティ表明と同列に置いた上で“こわす”べき「枠」として提示していることがわかります。これが《否定的表明》でなくて一体何なのでしょうか?

・問題の差別的な宣言文が《「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する》のでないとすれば、「レズビアン」のアイデンティティを「枠」と決めつけた上で、それを“こわす”とは、具体的にどういったありようをレズビアン当事者に対して“提案”しているのでしょうか?

・問題の差別的な宣言文は、レズビアン当事者に対して《将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれる》ことを“要求”するものでないとしても、《将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれる》ことを“提案”していることには変わりないのではありませんか?

・《言葉や枠の価値判断は、使う人の文脈に依存すると考えます。》とのことですが、それでは「使う人の文脈」によっては《「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する》行為が正当化される場合もありうるとお考えでしょうか?

・《提案することは干渉することではない》《提案であるため、その案を棄却する自由があります。》とありますが、「レズビアン」が「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」との“提案”を“棄却”することによって、何らかの否定的反応を受ける可能性を否定できない以上、「レズビアン」は「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」との“提案”を“棄却”することが(不可能ではないにせよ)実質的に困難な立場に置かれていると言えるのではありませんか?

・《提案であるため、その案を棄却する自由があります。》とのことですが、たとえ“棄却”する場合においても、“提案”を受けた側は“棄却”の理由を明示するための心理的負担を課されることとなります。そのような負担をレズビアン当事者に課す資格・権限が、貴団体にあると判断なさる根拠をお示しください。

・貴団体は《「少数派の中の少数派」をつくること》を批判しながら、レズビアン」に対して貴団体による“提案”を受けることに伴う心理的負担を一方的に課すことにより、ただでさえ《男性を愛さないこと》を理由とした「差別」を社会的・政治的に受け続けている「レズビアン」を圧迫しています。それはいかなる必然性・正当性に基づく行為であるか、その根拠をお示しください。

・問題の差別的な宣言文は、レズビアン当事者に対して《将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれる》ことを“要求”することを“意図”していないとしても、そのような解釈を否定・回避していない(できていない)以上、まさしく第三者レズビアン当事者に対して《将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれる》ことを“要求”する根拠として政治的に利用される可能性があります。その社会的責任については、どのようにお考えでしょうか?

・問題の宣言文の“意図”とは別に、一般論として《「レズビアンをやめろ」「将来的には、男性ないし非女性を愛する可能性に開かれるべきである」と干渉する》が「レズビアン」に対する「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」であるという認識はありますでしょうか?

・「関西クィア映画祭」は《レズビアン差別》の問題につて、現実社会における《レズビアン差別》の構造自体を“こわす”のではなく、レズビアン当事者が「レズビアン」としてのアイデンティティを“こわす”ことをもってその解決と考えているという解釈でお間違いないでしょうか?

・そのような「シスヘテロ」が行ったなら、疑いようもなく「パターナリズム」「ヘイトスピーチ」として誰しもが“価値判断”できるはずの振る舞いが、ただ「クィア」を自称しただけで許されるというなら、それはすなわちクィア」である自己の社会的・政治的立ち位置を自ら特権化・聖域化していることになるのではありませんか?

・「レズビアンを名乗る人々に対して批判をする意図がない」と言いながら、当方の告発に対する反証として《「私はレズビアンだ」と考えている人が、他者に対してそれを押し付けるように差別をする》という事例を挙げるのは、やはり【「私はレズビアンだ」と考えている人】に対する“批判”に他ならず、矛盾しているのではありませんか?

・貴団体が煽動・行使する《レズビアン差別》への告発・批判に対する反証として《「私はレズビアンだ」と考えている人が、他者に対してそれを押し付けるように差別をする》という事例を挙げるということは、貴団体は【「私はレズビアンだ」と考えている人】が《他者に対してそれを押し付けるように差別をする》がゆえに「差別」を受けるのは当然であると認識なされているということでしょうか?

・《実行委員会では、クィア理論を明示的に扱っている認識はありません。》と言いながらクィア」という政治用語をイベントのタイトルに“明示”するのは羊頭狗肉ではありませんか?

・《関西クィア映画祭2014は、10月17日から19日にかけて、総来場者数832名と、大盛況のうちに終了いたしました。》とありますが、それは貴団体が宣言文で提示した理念が大衆に支持され、受け入れられた結果であるとお考えですか?

・映画祭の開催期間中に、当方からの公開質問状を会場に貼り出す予定であるとのことでしたが、それは実行されたのでしょうか?

・「ふりかえりの会」は現時点で計3回開催なされたとのことですが、それぞれに何名が参加したのでしょうか?

・計3回に亘る「ふりかえりの会」の参加者の内、実行委員を除いた、外部の人間が何名参加したのかをお示しください。

・計3回に亘る「ふりかえりの会」に******氏は参加なされたのでしょうか?

なお、当方と貴団体との「やりとり」をそちらサイドでも公表することに異存はありませんが、その際には下記2点を条件とさせていただきます。

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では、引き続き誠意あるご回答をお待ちしております。