「関西クィア映画祭2014」からの回答(5)

Twitterの方でもお知らせしたとおり、『公開質問状(4)』を提出した翌日(20日)に「関西クィア映画祭2014」実行委員会から回答がありました。

オッシーさん
 
お世話になります。
 
当実行委員会は、あと数回の実務的な会議をもって解散致します。
大変恐れいりますが、10月22日に差し上げておりますメールが当会からの最終回答となります。
従いまして、12/19に頂いたメールについては実行委員内で議論を進めることは考えておりません。
何卒よろしくお願い申し上げます。
 
関西クィア映画祭2014実行委員会

そこで私は重ねて「議論」以外の部分、具体的には10月22日付の回答の不明点、および「ふりかえりの会」の実態について説明を求めましたが、けっきょく回答は得られませんでした。

ちなみに、私が『公開質問状(4)』を提出したのは実行委員会が主催する「ふりかえりの会」が行われる前日でした。もしその時点で私のメールを確認していたなら当日の「議論」の俎上に載せることもできたはずです。

とはいえ、私は今回の一連の議論を通して、インターネット上での抗議活動の難しさと限界を痛感しました。

そも私が問題の差別的な宣言文に気がついた時点で、映画祭開催まで1週間を切っていた上、時期的にはその終了直後に実行委員会から送られてきた回答を確認したのは、それから1ヶ月以上がすぎた頃でした(お恥ずかしい話ですが、メールソフトに備わっている「迷惑メールフォルダ」と別に、プロバイダ側で処理する「迷惑メールフォルダ」が存在することを私は知らず、後者に気付いて確認したところ、すでに自動削除された後でした)。

しかし、やはり一番の原因は《レズビアン差別》に対する世間の無関心であると思います。

問題の差別的な宣言文、およびそれに対する実行委員会側の弁明について、Twitter上でも批判的な意見が散見しましたが、私のように「公開質問」という形で直接的に抗議し、対応を求めた人はいませんでした。

これは、けっして自慢ではありません。今回の抗議活動に関して、私が“先陣を切っていた”わけでも、私が中心となって展開されていたわけでもありません。ただ、事実として実行委員会と対峙していたのが私一人だったため、そのように“見えてしまう”というだけの話です。

加えてレズビアン差別》を行使するのが常に「シスヘテ男性」であるという固定観念ゆえに、「クィア」を称する立場の人間が行使・煽動する《レズビアン差別》については認知されないという問題があります。そしてなおかつ、それを告発・批判する私自身が「シスヘテ男性」であることから、それこそが「レズビアン」に対する《性的消費》であるという“告発の無効化”を受ける事態となりました。

しかし《シスヘテ=加差別者》《クィア=被差別者》という杜撰な二項対立の世界観は、《ゲイ/レズビアン=加差別者》《ゲイ/レズビアン以外の「セクマイ」=クィア=被差別者》という図式へと容易に転じうるものです。

しかしセクシュアリティが自己申告によって規定される事象である以上、自ら「クィア」を名乗ることで社会の差別構造に加担する可能性から“免罪”されるというなら、それは《「クィア」の聖域化・特権化》に他なりません。

レズビアニズムを一過性のものと決めつけ、レズビアン当事者の性的主体性を否認する異性愛至上主義。およびレズビアンを含むあらゆる女性に対して《男性を愛する可能性》に“開かれる”生き方を強いる性別二元制。これらに基づく権力・暴力は、現実社会の至るところに浸透していて、ためにあたかも蛇口を捻れば水が出るがごとく、立場や属性を超えて誰しもが利用できます。

その権力性に無自覚である「関西クィア映画祭2014」実行委員会の姿勢は、《レズビアン差別》に加担する可能性を回避するものではなく、それを“無批判”に追認することで「レズビアン」が〈女性〉であるがゆえに《男性を愛すること》を強いられる現実社会のありようを後押ししているにすぎません。