《ゲイ治療》の“可能性”を肯定する「ディストピア」は作者自身の差別意識の反映にすぎない〜きただりょうま『μ&i みゅうあんどあい』(1)

(2015年3月19日 加筆修正)

きただりょうま@4/3 μ&i 3巻発売 @R_Kitada
https://twitter.com/R_Kitada/status/573065449673342979
今日発売のジャンプSQ.4月号にμ&i第11話が載ってるようです。色々はっちゃけてる回ですが、よろしくお願いしますー<(_ _)>

今年3月、東京・渋谷区で同性パートナーシップ制が審議されるなど、現実社会においてはLGBTの権利が着実に認知されつつある。

しかしフィクションの世界では、いまだ同性愛を《変態》として異常視し、あまつさえその“治療”を試みるという思考形態が残っているのが現状だ。

集英社「ジャンプSQ」2015年4月号に掲載された、きただりょうま『μ&i みゅうあんどあい』第11話。

天災の影響によって人類に生殖機能が失われたとされる近未来の世界で、生殖機能を回復させる細胞が発見された。12歳の少女でありながら「特別臨時内閣総理大臣」に任命された【矢神明日葉】は、人口を増加させるための政策として《純異性交友の義務化》《性の6時間の導入》そして《セクシュアル・マイノリティの更正》からなる「生産三原則」の法制化を提唱する。

出生率0に伴って人の恋愛観も変化し 同性愛 多夫多妻 人形偏愛(ピグマリオンコンプレックス)など いわゆる恋愛少数派(セクシャル・マイノリティ)が激増しました しかしこのままでは駄目なのです 国民には未来の為に もっと繁殖の準備をしてもらわなければ! Let's セクシュアル・マジョリティ(子供作り)!
 
(引用者註 「セクシャル」と「セクシュアル」が統一されていないのは原文ママ

このような荒唐無稽かつステレオタイプな性差別思想を掲げる【明日葉】は、部下の中から「恋愛少数派(セクシャル・マイノリティ)」の男女を拉致監禁し、独自に開発した「再教育プログラム」を強制的に施すのである。

なお、この男女は「恋愛少数派(セクシャル・マイノリティ)」と規定されながら具体的なセクシュアリティは明示されない。とはいえ女性の方は主人公の男性に対して《男なんかに先輩は渡しませんから!》と言い放つシーンがあり、また男性の方は他の職員から《あーそうそう彼はアッチ系の人間だからな 後ろには気をつけたまえよ》として紹介される――むろんこうした描写を“無批判に”垂れ流す表現自体がヘイトスピーチであることは今更言うまでもない――ことから、共に「ゲイ」「レズビアン」であることが暗示されている。

そして男女は「再教育プログラム」を受けたとたん、互いに発情し、その場でSEXしようとする。

この作品が《ゲイ治療》を正当化するものではなく、むしろ一種の「ディストピア(破滅した世界)」を提示していることは明白だ。よって上述した《マンガの形を借りたヘイトスピーチ》に対する批判・追及もまた、そのような作者の「意図」を理解しないものとして無効化されてしまいかねない。

だが作者の「意図」しているであろうテーマ性とは裏腹に、結果として本作は《ゲイ治療》の“可能性”を肯定している。

まず人類が生殖能力を失ったことで〈同性愛者〉が“激増”したという設定は、それ自体が「同性愛」を「異性愛」の“代用”すなわち《変態》として解釈し、一方で《常態》に規定される「異性愛」の特権性を強化する。

また〈同性愛者(非異性愛者)〉が“増える”ことによって少子化が促進され、人類の滅亡に繋がるというまことしやかなロジックは、冒頭で述べた同性パートナーシップ制へのバックラッシュ(反動)において、もっとも主力な言説となっている。

そうした現実社会の《同性愛者差別》を追認する作者の意識に基づいて創造された「ディストピア」は、まさしく現実社会の差別構造と地続きである。よって現実の〈同性愛者(非異性愛者)〉に対する作者自身のホモフォビア(同性愛者嫌悪)が、自ずと反映されるのだ。

その上、たとえ非科学的なファンタジーの描写とはいえ、《ゲイ治療》を“可能”とする前提を、作者は信じて疑わない。

そも「同性愛」を“治療”するとはどういうことか。異性愛至上主義が根幹をなす現代社会においては、わざわざ“治療”されるまでもなく〈同性愛者(非異性愛者)〉は〈異性愛者(非同性愛者)〉として扱われている。それによって〈同性愛者(非異性愛者)〉であっても異性との望まない恋愛やSEX、はては結婚を要求され、〈異性愛者(非同性愛者)〉として生きることを余儀なくされているケースが珍しくない。

しかし「ゲイ/レズビアン」が〈異性〉と恋愛ないしSEXをすることは「同性愛」ではなく、あくまでも「異性愛だ。なぜなら「ゲイ/レズビアン」が当人の自己認識・自己申告に委ねられるアイデンティティであるのに対し、性的指向は〈異性/同性〉の《性差》に基づく人間関係にすぎないからだ。ゆえに「ゲイ/レズビアン」のアイデンティティを有することと〈異性愛者〉として生きることは両立する。

換言すれば、可能なのは「同性愛」の“治療”ではなく、「異性愛」の強制である。〈同性愛者〉が「異性愛」をすることをもって「同性愛」を“治療”したと見なすのは、性的指向アイデンティティを同一視する思考であるが、当人のアイデンティティをないがしろにして「異性愛」を本質化している点で、やはり《ゲイ治療》と同じ発想である。

元より、これは人間の性的指向に変化があるか否かといった擬似科学の論点とは、何の関係もない。どちらに転ぼうとも、そのような議論の成立を許してしまうことは、〈同性愛者(非異性愛者)〉に対して「ディスオリエンテーション性的指向の変化)」を要求・期待する、異性愛至上主義の社会的・政治的圧力を不問とするからだ。

すなわち《ゲイ治療》は、是非を問うまでもなく、その“可能性”を提示すること自体が、そうした「強制異性愛社会」の現状を追認する行為であり、〈同性愛者(非異性愛者)〉に対する「ヘイトスピーチに他ならないのである。

それまで恋愛関係になかった〈同性愛者(非異性愛者)〉の男女が、「再教育プログラム」を施されたとたん、互いに性欲を抱いて激しく求め合うという非人間的な描写は、その何よりの証拠だ。これは〈同性愛者〉であれば相手が同性なら誰彼かまわず“襲う”というホモフォビア(同性愛者嫌悪)のクリシェを、そのまま〈異性愛者〉に反転させただけである。

また当該のシーンがポルノ同然に官能的かつ煽情的な表現となっていることからも、仮に作者が異性愛至上主義への風刺を建前としたところで、しょせんレズビアン」に男とSEXさせるという差別的かつ卑俗な趣向の正当化でしかない。

ついでに言えば【矢神明日葉】は「無性愛者(アセクシャル)」として設定されているが、どういうわけだか《着替えを見られる所が触れられたところで何も感じんらしい》という理由から、人前で堂々と下着姿になる。「無性愛者(アセクシャル)」に対する無理解と偏見もさることながら、幼女の下着姿を男性読者への“サービス”として提供する行為の後ろめたさをごまかすために「セクシュアル・マイノリティ」の《多様性》を建前とする浅ましさには目眩すら覚える。

けっきょくのところ、作者は『μ&i』の世界観を構築するにあたってディストピア」の設定を用いながらも、そのじつ自らの性欲を満たすのに都合の良い「ユートピアを表現しているのである。

そうした小賢しい“おためごかし”は、件の「恋愛少数派(セクシャル・マイノリティ)」の男女の扱いにも見受けられる。先述のとおり、この男女が「ゲイ」および「レズビアン」のキャラクターとして登場させられている事実は明白にも関わらず、作中でその呼称が用いられることはない。おそらく件の表現が《ゲイ差別》および《レズビアン差別》であるとの批判を交わすための“苦肉の策”であろう。

近頃は「ゲイ」「レズビアン」さらには「同性愛者」など人間のセクシュアリティを言い表す言葉そのものが、「ゲイ」「レズビアン」「同性愛者」と呼ばれる人々に対しての「差別」を生産・助長する《差別語》であるといった珍妙な理屈を目にする。だがこれはまさしく《差別の原因を被差別者の側に求めるレトリック》の典型であり、そのじつ《同性愛者(非異性愛者)差別》が機能する現実社会の構造に迎合・加担すると同時に、当人の無自覚な「ホモフォビア」を露呈しているにすぎない。

そうしたいわゆるクィア理論」に基づく“PC的配慮”じみた物言いこそ、けっきょくは「差別」を隠蔽する《言葉狩り》にすぎないことを、図らずも本作が証明している。

(2015年3月15日 追記)
付言すれば「ゲイ/レズビアン(非異性愛者)」であっても「ディスオリエンテーション(異性を愛する可能性)」に開かれるべきであるとする主張は、クィア理論およびクィア運動において主流となっている思考形態である。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/30141220/p1