あらためて問う。「同性愛」を“治療”するとはどういうことなのか?〜きただりょうま『μ&i みゅうあんどあい』(2)

前回:
《ゲイ治療》の“可能性”を肯定する「ディストピア」は作者自身の差別意識の反映にすぎない〜きただりょうま『μ&i みゅうあんどあい』(1)
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20150315/p1

その後『μ&i』においては「恋愛少数派(セクシャル・マイノリティ)」の“更正”を目的とした「再教育プログラム」が暴走し、異性愛者をも異性相手に見境なく発情する色情狂と化す事態に陥る。次号(集英社「ジャンプSQ」2015年5月号)に掲載された第12話では、プログラムの内容を書き換えることによって、けっきょく被験者らを元の状態に戻すというありきたりのオチがつく。

《同性愛を容認することで少子化が促進される》《同性愛を科学的に“治療”することが可能である》といったデマが、作中で訂正・検証されることは、ついぞなかった。

さて問題の第11話が発表された直後、おりしもTwitter上では、次のようなまとめが注目を集めた。

友人「ゲイの脳に電極ぶっさしてバイセクシュアルにする論文があるんだよ!」
http://togetter.com/li/798008

《ゲイ治療》の非科学性や野蛮さを「と学会」的に面白おかしくあげつらう一方で、やはりまとめを作成した@Hetare_Takumuもまた《同性愛を科学的に“治療”することが可能である》という前提に立っている。つまり《ゲイ治療》の“可能性”を追認した上で、あくまでも倫理的観点から、その実行に反対する立場である。

《ゲイ治療》が「倫理」に帰属する問題であるとするなら、裏を返せば《ゲイ治療》の“可能性”を批判することは、科学的な「真理」の追究を「倫理」によって妨げる“非科学的”な行いとして、件のマッド・サイエンティスト共々嘲笑の的となりうる。

しかし、そも「同性愛」を“治療”するとはどういうことなのか?

《ゲイ治療》の前提としてあるのは、「同性愛」を《同性を愛したいという欲望》と解釈し、なおかつ「欲望」を脳機能などによる物理的現象の産物として“物体化”した上で、それを除去するという発想だ。早い話が、文字通り人間を“モノ扱い”しているのである。

しかし性的指向とは、あくまでも〈男/女〉の《性差》に立脚する“関係性”を表す概念にすぎず、それ自体が「欲望」を表すのではない。たとえば〈女性〉の性自認に基づいて〈女性〉を愛した場合、その“関係性”を「同性愛」と呼ぶ。

したがって「同性愛」を《同性を愛したいという欲望》と解釈することは誤りである。そのような「欲望」の是非を問うまでもなく、〈男/女〉の《性差》を度外視している時点で、それは成立すらしないのだ。

またその相手が〈同性〉であろうとなかろうと、ただ他人とSEXや結婚をするだけなら、性欲や恋愛感情がなくても可能だ。繰り返すが「同性愛」の“治療”とは一種のレトリックであり、実質的には「異性愛」の強制である。すなわち「同性愛」が「異性愛」に“変態”するという認識自体が、「異性愛」を常態化・本質化している点で《ゲイ治療》と同じ前提を共有する思考に他ならないのだ。

性的指向に変化があるか否かといった擬似科学の議論は、人間のセクシュアイリティを社会性・政治性から切断する「本質主義」のイデオロギーに依拠している。だが、それはセクシュアリティをめぐる社会的・政治的力学の存在を度外視している時点で、科学的研究の前提となる反証可能性を自ら放棄している。

《同性愛者差別》を“なくす”こととは、ひとえに異性愛至上主義の社会的・政治的圧力を“無力化”し続ける取り組みに他ならない。そしてそれにあたっては「性の自己決定権」の社会的保障の確立が不可欠だ。

翻って《ゲイ治療》を含む《同性愛者差別》の問題を、先述のとおり「倫理」の問題と位置づけるのであれば、「同性愛者」は《同性愛者差別》を行使する者たちの恣意的な都合によってその実存を左右される、ひじょうに不安定な社会的立場に甘んじることを余儀なくされる。

《ゲイ治療》をめぐる議論は「科学」を取るか「倫理」を取るかの二者択一ではない。「科学」であろうと「倫理」であろうと――はたまた「PC(政治的正しさ)」であろうと《セクシュアリティの多様性・流動性》であろうと、「差別」の問題をその差別性以外の“何か”に求めることは、その“何か”のために「被差別者」をダシにした政治的搾取にすぎないのだ。