『けいおん!』が“志向”するアセクシュアリティと、「処女萌え」の“消費”

けいおん!』に「政治的正しさ」を求める“意識のお高い”馬鹿ども
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/20150608/p1

上掲の記事を補足する。

けいおん!』の「世界観」が《性的な物を徹底的にとりはら》っているように見えるとの指摘について、私は「性」を“排除”しているのではなく、むしろ「性」から“解放”されたアセクシュアリティを表現しているものと解釈した。

ただ問題は、そうしたセクシュアリティの“志向”が、いわゆる「処女萌え」の“消費”と同一視されがちであることだ。『けいおん!』に登場する美少女キャラたちがアセクシュアリティを貫いたなら、それは結果的に【彼女たち】が《処女》であり続けることを意味する。

しかし、それはあくまでも“結果論”である。やはり両者は似て非なるものなのだ。

けいおん!』の一次創作がアセクシュアリティを表現しているとして、「処女萌え」はそのアセクシュアリティに対する“解釈”であり、なおかつ数ある“解釈”の内の一つにすぎない。しかるに『けいおん!』を「処女萌え」の〈客体〉として“消費”することは、一次創作にない性的要素を外在的に取り入れた「エロ同人」と同様に、むしろ二次創作として位置づけられる行為である。

ちなみにこの問題は女性同士の恋愛をテーマとする「百合」の分野においても、『マリア様がみてる』や『ゆるゆり』といった性描写を伴わない百合作品が《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的な同性愛」は許さない》というヘテロセクシズムに根差した“精神性偏重志向”の称揚に利用されている実態に通じる。

加えて『マリみて』『ゆるゆり』などの《性描写を伴わない百合作品》については、しばしばそれが「恋愛(同性愛)」であることさえ否認され、あくまでも女同士の「友情」であると強弁する向きも少なくない。これもまたアセクシュアリティとは似て非なる《処女性》のお仕着せと言える。

この問題の本質は、性描写の有無などという皮相かつ恣意的な基準で「百合」を分断する二項対立的な「世界観」それ自体にある。むろん『マリみて』や『ゆるゆり』が(作者個人の思惑は別として)実際の作品の中でそのような「世界観」を主張しているのではなく、ごく一部のユーザーが自らの差別意識を物言わぬ作品の世界に投影しているのだ。

そうした責任の所在を履き違えて『マリみて』や『ゆるゆり』をヘテロセクシズムとして“断罪”するのであれば、それこそ性描写を伴わない百合表現の可能性を否定することになる。「精神的な同性愛」と「肉体的な同性愛」の対立観念の有効性自体を追認している点で、どちらにしてもそれに加担していることに変わりなく、ようはポジション・トークでしかない。

さて@yokochingならびに@Yasu9412が大きく見誤っているのは、セクシュアリティと「処女萌え」を混同した上で、『けいおん!』という作品の“志向”、そして作品に対するユーザーのニーズを後者に総括している点である。

言うなれば『けいおん!』が「未成年女性」に対して《処女性》を押しつけているのではなく、逆に『けいおん!』こそが「処女萌え」のネタとして消費・搾取されているのである。

現実社会における「差別構造」の一環として、マンガなどの娯楽フィクションが機能する場合は二通りある。

(1)作品の「世界観」が作者の「差別意識」に基づいて構築されることで、作品自体が「差別構造」を内包している場合。

(2)作者自身の意識とは無関係に、作品世界の外側から現実社会の「差別構造」に組み込まれ、その行使・強化に利用される場合。

けいおん!』が「差別」に利用されうるとすれば、明らかに後者のパターンに属する。よって『けいおん!』自体に現実社会の「差別」を抑止する「政治的正しさ」を問うことができないとしても、まさに「差別構造」の内側にある『けいおん!』にその責任を問うのであれば《差別の原因を被差別者に求めるレトリック》に他ならない。

もっとも『けいおん!』に象徴される性描写を伴わない「萌えマンガ」の“消費”が、@yokochingらの指摘する《著しく偏った性役割ジェンダー・女性描写という側面》《無垢な処女的ユートピアを強固にした世界観》を下支えしている一面があることはたしかに否めないだろう。

しかし、それはあくまでも一面にすぎない。「オタク」ないし「異性愛男性」に共通する「意識」のありようとはなりえない。

加えてけいおん!』を“消費”する「オタク」を端から「異性愛男性」と決めてかかっているのも、大いに問題である。

周知のとおり『けいおん!』の消費者には女性も含まれている。『けいおん!』のキャラクターに触発されて自分でも楽器やバンドを始めたという女性ファンも少なくないという。

しかし、そこへきて@yokochingならびに@Yasu9412の議論は、そも『けいおん!』という作品(一次創作)自体が「ジェンダー」や《処女性》の強制として社会的・政治的に機能するという前提――すなわち上掲(1)に立つものだ。

よってそれを“消費”する行為の差別性もまた、ユーザーの《性差》とは無関係に機能することとなる。しかるに@yokochingならびに@Yasu9412は、当然ながら女性ユーザーが『けいおん!』を“消費”する行為をも、男性ユーザーのそれと同様に“断罪”しなければならない。

あるいは女性ユーザーが『けいおん!』を“消費”する行為を、彼女たちがただ《女性である》という理由で肯定するのならば、それこそ《男性なら「男性視点」の作品を選ぶべし》とする「ジェンダー」の固定化を追認する意識の裏返しである。

むろん、男性ユーザーが「女性視点」の作品を選ぶことはいわゆる「MtFトランスジェンダー」の類型とは異なる。しかし「トランスジェンダー」の定義に当てはまらないという理由で、そうした男性のセクシュアリティを否定することは、まさに《シスジェンダー異性愛者》以外の多様な「性」のありようを「LGBT」の4パターンに“分類”し、そこからはみ出る存在のありようを否認する「LGBT至上主義」と言えるものではないか。

* * *

それにしても、「LGBT」以外の「セクマイ」が周縁化される問題については、むしろクィア主義者が「LGBT」を「クィア差別者」に仕立て上げて糾弾・恫喝する際に用いてきたレトリックである。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/30141220/p1

「LGBT」に対してであれ「オタク」に対してであれ、けっきょくは自分が気に喰わない「性」のありようを《普通》と決めつけ、その“マジョリティ性”をあげつらうために都合の良い理論武装として《性的消費》だの《セクシュアリティの多様性》だのといった空疎な観念を振りかざしているにすぎない。

また前回は取りこぼしたが、そんなクィア馬鹿@Yasu9412のトンデモ発言には次のようなものもある。

https://twitter.com/Yasu9412/status/607499556163428352
フランスもかなり日本のオタクカルチャー浸透してきてますけどね。そして偉そうなこと言ってる俺も来月パリのジャパンエキスポに参加して、萌えアニメコスプレイヤーと一緒に写真撮ったり、ゲストできてる日本のアイドルのライブを見たりしてそう。

異性愛男性」が二次元やアイドルの少女を“消費”することについては、頭ごなしに「性差別」と決めつけて居丈高に糾弾する一方で、クィア」と自己規定する@Yasu9412自身が同じことをするのは問題ないのだという。

ようは、これもポジション・トークなのだ。かように恣意的な自己特権化を可能とするクィア主義とは、そのじつ「ご都合主義」の代名詞に他ならない。

けっきょく何が《普通》で何が《普通》でないかなどという線引きは、誰もが自分に都合良く勝手に決めるものだ。《普通》を拒絶する自己のありようを存在基盤とするクィア主義者こそ、自身が敵視する「シスヘテ(シスジェンダー異性愛者)」以上に《普通》の性規範を強固に内面化していることの裏返しでしかない。