『絶歌』騒動に便乗するイチカワユウが“ごっちゃ”にしている「第5の論点」

(2016年12月29日 加筆修正)

レズビアンのアイデンティティ形成を《自分を決めつける枠》として“決めつける”性差別主義者でクィア主義者のイチカワユウ@yu_ichikawaが、今話題の『絶歌』騒動に便乗して、また的外れなことを言っているようだ。

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/613368935723839488
絶歌のレビューひどいなー。みんなよく気軽に発禁とか口にできるわな。こーゆー、気にくわないものは反射的に叩きまくるみたいな空気は気持ち悪いし、為政者に利用されて「反社会的な書物発行禁止法」とか提案されたらみんな諸手を挙げて賛成するのかな?

https://twitter.com/yu_ichikawa/status/613370702796849154
あと、「1金儲けだからダメ」ってのと、「2遺族の心情を考えたら、Aが事件について発言するのがダメ」ってのと、「3内容が古臭く幼稚でサブカルで読む価値なし」ってのは、全部違う切り口からの批判なんだが、それがごっちゃになってる。

『絶歌』に対して“発禁”の処分を求める【みんな】の動機として、イチカワは上掲の3点を挙げているが、じつのところ《気にくわないものは反射的に叩きまくるみたいな空気》というのもまた独立した論点であるから、正確には4点となる。

とはいえ《気にくわないものは反射的に叩きまくる》というのは、たんにイチカワが自分の“気にくわない”主張をする相手の内面を勝手に決めつけているにすぎないので、無効な論点だ。ちなみに《他人の内面を勝手に決めつける》というのはクィア主義者に特有の思考形態である。

同時に《気にくわないものは反射的に叩きまくる》とは、それこそ自分の《気にくわないもの》にレッテルを貼っているだけの印象批評であり、自分の“気にくわない”とするあらゆる「もの」に当てはめることができる。これは「万能論法」といって、詭弁の一種に他ならない。

このような“殺し文句”は従来、ヘイトスピーチに対する告発を無効化・無力化するのに用いられてきた。イチカワは同人誌やインターネットを通して、クィア理論の見地から性差別を告発してきた自称「activist(運動家 ※Twitterのプロフィール欄より)」であるが、上掲ツイートの言辞はそのような自らの「action(運動)」を自ら汚したに等しい「暴論」であろう。

ようするにイチカワは「気持ち悪い」という自身の感情を《表現の自由》によって正当化・特権化しているにすぎないが、これはまさにホモフォビアやトランスフォビアに根ざしたヘイトスピーチを《表現の自由》によって正当化・特権化するレトリックの再生産である。

ただ「クィア運動家」を称するイチカワ自身が、それを踏襲しているところに意表を突かれる向きもあろう。しかし他人の行う「差別」を批判することで自身を〈被差別者〉〈マイノリティ〉〈少数者〉〈弱者〉の側に置いたつもりになっているクィア主義者の中には、隙あらば自身が「差別」を行使したいと狙っている者が少なくない。『絶歌』はその定義上「ヘイトスピーチ」とは呼びがたいけれど、イチカワの場合はすでに「関西クィア映画祭」の件において、そうした類の「運動家」の一人であることが見て取れる。

あまつさえイチカワは、自分から三つの異なる論点を提示した上で《それがごっちゃになってる》と指弾しておきながら、自らその3点を《気にくわないものは反射的に叩きまくるみたいな空気》という第4の論点に一元化する。この自己矛盾に気がつかない時点で、すでに脳内スペックの情報処理能力の低さを露呈している。

あたらめて確認するのもアホらしいことだが、“書籍を販売して金を儲ける”という商業活動自体を否定する論理など端から存在せず、問題視されるとすれば、その手段に限られる。ゆえに「3」は別として、「1」は「2」と結びついている事柄であるから《全部違う切り口からの批判》との“切り口”は的外れだ。

換言すれば「3」は『絶歌』という作品のクオリティに対する批判にすぎず、同作の“発禁”を求める論拠として提示されているわけではない。《それがごっちゃになってる》のは、まさにイチカワ自身の低スペックな頭脳である。またイチカワは、そうした《全部違う切り口からの批判》を【みんな】として一括することにより、『絶歌』を“批判”する人々の【みんな】が同作の“発禁”を求めているかのように印象操作している。

それとも何かしらの問題のある作品の“発禁”を求めるにあたっては、その作品自体のクオリティ自体を論評してはならないという決まりでもあるのだろうか? 作品のクオリティの低さが“発禁”の理由になりえないということであれば、それについて言及する行為はなおさら問題ないはずだ。

《内容が古臭く幼稚でサブカル》であることは、たしかに“発禁”を求める論拠とはならないだろう。しかし仮に無名作家の創作物として世に出たのならば“発禁”されるまでもなく打ち捨てられるであろう、そのような稚拙きわまりない「内容」でさえ、犯罪者自身の手によるノンフィクションであるとの話題性から“下駄を履かされている”のが実情なのだ。

その意味で『絶歌』は“反社会的”であるどころか、きわめて“社会的”な作品とも捉えられる。そも「社会」に“反する”のであれば「社会」に必要とされないのだから(自己顕示欲を満たすための同人誌ならまだしも)それを売って“金儲け”をすることは不可能だ。イチカワは「クィア理論」のお勉強に忙しすぎたせいか、そのような「社会」の道理を学ぶ時間すらなかったらしい。

一方で、そうした「作品」を一般の「作品」と同等に評論の対象として扱うこと自体が“炎上マーケティング”への加担を意味するのだという見方もある。よって論評にすら値しない(=読む価値なし)とするのも一つの態度であろう。

しかし「表現」は小説やTwitterの投稿、あるいはデモなど通して形を成すのであり、それらの媒体から切り離されて「表現」だけが独立するなどということはありえない。よって当該の「表現」が、実際にどのような形を取ることで社会に受け入れられているのかという“切り口”もまた、「表現」が社会にもたらしうる影響を考察する上で、けっして無価値ではないはずだ。

* * *

『絶歌』の本質的問題とは何か。それはひとえに、犯罪者が自身の犯罪経験を本にし、出版社がそれを売るという「ビジネス」のモデルを提示してしまったことにある。

となればこれから先、作家志望の者があらかじめ本にすることを前提に人を殺め、世間の注目を集めるといった、それこそ『ハッピーピープル』や『善悪の屑』などに登場するサイコパスそのものの「模倣犯」が出てくるともかぎらない。

言うなれば、これが第5の論点。そして『絶歌』を非難する者も擁護する者も、この論点に立脚しない議論は、表現の自由だとか遺族感情をダシにした観念論にすぎないと言える。

  • なお『絶歌』については、そも匿名の著者が【酒鬼薔薇聖斗】本人でない可能性も考えられる。出版にあたり、版元は著者が【酒鬼薔薇聖斗】であるとの自己申告を鵜呑みにしたまま、身元確認すらしていないのだという。そのような得体の知れない「怪文書」を、大手の出版社が商品として取り扱うこと自体が信用を問われるし、だいいち身元を隠しての手記には書き手としての責任も誠実さも、そして何より犯罪加害者としての反省すらも感じ取ることができない。

■『絶歌』(太田出版)への出版差し止め・回収を問い合わせる窓口 〜買った人も、買わない人も
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