「性的発達論」のヘテロセクシズムを隠蔽する、牧村朝子の奇怪なフロイト擁護〜『同性愛は「病気」なの?』批判

かつては「レズビアン・タレント」として注目を呼びながら、現在はレズビアンを(名乗ることを)やめたタレント」としてマスメディアで発言する牧村朝子が、前著『百合のリアル』に続き、星海社新書から『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』を上梓した。

『百合のリアル』の問題点の数々については以前、当ブログで検証したとおりである。この度の『同性愛は「病気」なの?』についてもそれと同等の“突っ込みどころ”が予測されるため、時間と心に余裕が出来た時に目を通そう……と思い、とりあえずカバーに保管用のビニールをかけたところ、袖の部分に後述するジークムント・フロイトのものとされる言葉が、フロイト自身の肖像と共にデカデカとデザインされていた。

書籍の中でも折に触れて目に入るそのような位置に、牧村はどのような意図で、フロイトの言葉を引用したのだろうか。取り急ぎ、本書の中から当該箇所を探してみた。

(p.66-70)
同性愛の理由を「こころ」に探す
 心理学に興味のある人ならば、フロイトという名前を聞いたことがあるでしょう。オーストリア精神科医で、「精神分析の父」とも呼ばれる、ジークムント・フロイトのことです。
 同性愛者を自認する人の中には、フロイトを悪者扱いする人もいます。私もそのひとりでした。同性愛を「性的倒錯」と呼ぶ風潮は、フロイトが著書で繰り返しそう書いたことで広まったからです。
「同性愛者って異常でしょ?」
「本当の愛じゃないんでしょ?」
 そういうことを私に言ってくる人たちは、みんなフロイトに毒されているんだと思ったのです。
 が、実はフロイトも、フロイトなりに同性愛の非犯罪化に向けて戦っていました。一九三五年には、ある女性からの「ウチの息子が男性ばかりに恋しちゃうみたいで困ってるんです。どうしたら治せますか?」みたいな質問に答えて、こんな手紙を書いています。

 お手紙、拝読しました。あなたの息子さんは同性愛者だそうですね。私が一番気になったのは、あなたが息子さんについてお書きになるにあたり、この「同性愛者」という単語を避けていらっしゃることです。一体なぜ避けるのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?
 確かに同性愛には有利なところがないかもしれません。しかし同性愛は、恥ずべきことでも、悪いことでも、劣ったことでもないのです。同性愛は、病気ではありません。私どもは同性愛について、性的発達の過程に起因する、性機能のバリエーションの一つだと考えております。
 古代、また現代においても、偉大な人物が同性愛者であったことは珍しくありません(プラトンミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチなど)。同性愛を犯罪として罰することは、たいへんな不正義であり――そして、残酷なことです。(筆者による抄訳)

 なんという内容でしょうか。私はフロイトの墓に向かって土下座したい気持ちになりました。今まで悪者扱いしてごめんなさい、と。
 確かに、フロイトが同性愛を「性的倒錯」と呼んだことや、フロイト精神科医であったことは、同性愛を一種の精神的な異常とみなす風潮に手を貸したかもしれません。けれども、それはフロイトの理論が同性愛者を異常とみなしたい人々に利用されただけのことであって、フロイト自身は「同性愛は病気ではない」「バリエーションの一つだ」と明言していたのです。
 フロイトは、「すべての人間が異性を愛するように生まれつく」という理論に代わり、「すべての人間はなにに性欲を向けるのか定まらない状態で生まれてくる」と提唱しました。この「なにに性欲を向けるのか定まらない状態」のことを、フロイト用語で「多形倒錯」と呼びます。その中で、異性を愛するように発達する人もいれば、同性を愛するように発達する人もいるんだよ……というのが、彼の考えでした。

はて。一読して矛盾を感じないだろうか。

フロイトが「同性愛」を《性的倒錯》と規定しておきながら《恥ずべきことでも、悪いことでも、劣ったことでもないのです。》とは、辻褄が合っていない。

これはいったいどういうことなのか。《性的発達の過程》というフレーズにその鍵がある。

そもフロイトの「性的発達論」とは、唯一《健全》と規定する「異性愛」以外のあらゆる性の「バリエーション」を、「異性愛」に“発達”するまでの《過程》として下位に置く、明確な異性愛至上主義(ヘテロセクシズム)に根差したイデオロギーだ。すなわち「同性愛」を《一過性の擬似恋愛》と決めつける(今日においても根強く蔓延る)差別的偏見のベースとなっているのが、この理論である。

よってフロイトが「同性愛」について《恥ずべきことでも、悪いことでも、劣ったことでもないのです。》と説くことは、ようするに《男性(同性)ばかりに恋しちゃう》という【あなたの息子さん】もやがて時期が来れば「異性愛者」に“発達”するのだから、今のところは大目に見てやればいいと言っているだけなのである。

つまり《「同性愛者(非異性愛者)」として生きる(=〈異性愛者〉に転向することなく、いつまでも〈同性愛者〉のままでいる)》という人生設計については、フロイトはいっさい肯定していないのだ。

ところが、上掲した牧村による講釈では、そうした「性的発達論」の異性愛至上主義について言及すらされていない。あまつさえ《異性を愛するように発達する人もいれば、同性を愛するように発達する人もいるんだよ》などと、あたかもフロイトが〈同性愛者〉を〈異性愛者〉と同等に扱っていたかのように“曲解”している。

じつのところフロイト【異性を愛するように発達する人】の存在しか認めておらず、《同性を愛する》ことをも“発達”の「バリエーション」として認める発想自体が――言い換えるなら“発達”の先に「異性愛」以外の「バリエーション」が存在するという前提が――フロイトの念頭にはなかったと理解されるべきであろう。

* * *

牧村は、このフロイトの手紙がよっぽど気に入ったらしく、先述のとおりカバーの袖にまで載っけた上、本文中に原本のコピーを丸々1ページ費やして掲示している。

そうした牧村のぬか喜びを、たんなる誤解として片づけることはできない。なぜなら「性的発達論」はフロイトの思想の中核を成す理論であり、フロイトについて言及した文献を参照する上で、当然ながら牧村自身も目にしているはずであるからだ。

となれば。牧村は「性的発達論」の差別性を認識した上で、それを意図的に隠蔽したと判断するほかない。

なぜ牧村は、そのような真似をするのか。私が牧村の奇怪な「精神」を“分析”するに、次の3通りが考えられる。

1.《同性愛者を自認する人の中》“悪者扱い”されているというフロイトが、じつは〈同性愛者〉を“差別”していなかったという「珍説」が、単純に話として意外性があって面白いから。

2.《同性愛者を自認する人の中》“悪者扱い”されているというフロイトを、《同性愛者を自認していた(過去形)》という牧村朝子があえて擁護することにより、フロイトを“悪者扱い”する【同性愛者を自認する人】を「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」として糾弾することが、多くの〈異性愛者〉の読者の歓心を買う上で有利であろうと判断したから。

3.牧村自身もフロイトと同様に【同性愛者を自認する人】について、現時点では《異性を愛さないこと》を認めながらも、やはり将来的には《異性を愛する可能性》に“開かれる”べきであると考えているから。

フロイトについては「悪者」などというあやふやなイメージとして“扱う”のではなく、異性愛至上主義の思想を学術的に正当化・権威化した「差別主義者」として、正確に認識することが相応しいだろう。

さらに言えば、フロイト自身は「精神科医」であっても、精神分析学」は精神医学とはまったくの別物である。

生物学が「優生学」と混同された上で、しばしば「同性愛」が“生物学的に”間違っている根拠として利用されるように、「精神分析学」もまた科学の装いをすることで非科学的な異性愛至上主義のイデオロギーを権威化する擬似科学似非科学の類にすぎない(じじつ今日の精神医療の現場で指針となるのはもっぱら「DSM」ないし「ICD」であり、「精神分析」は一部の療法がまれに“併用”されるていどである)。

もっとも近年はクィア運動の影響から、「同性愛(者)」を《異常》と認めた上で《異常であっても差別されてはならない》といったようなことを言うための事例として利用するレトリックが流行りであるらしく、そんな中で「精神分析学(性的発達論)」を再評価する動きも起こりつつある(それにしても、いったいどこの「同性愛者」が《異常であれば差別してもいい》などと言っているのだろうか? こういう屁理屈を藁人形論法と呼ぶのだ)

しかしいかなるもっともらしい「理論」に根差したものであっても、《正常/異常》の二元論を採用する以上は「異性愛」が《正常》として特権化される構造を解体することができない。

また「ヘイトスピーチ」の観点で論じるならば、「同性愛」を《性的倒錯》と位置づけた上でその“犯罪化”にのみ反対することは、裏を返せば“犯罪化(ないし物理的・身体的暴力)”を除いた、あらゆる《同性愛者差別》の様態を許容する方便・建前となる。

換言すれば、たとえフロイト精神科医の立場から「同性愛は病気ではない」という理由でその“治療”に反対していたとしても、すべての人がその性的指向を問わず〈異性愛者〉として生きることが前提化された現代社会にあっては、手間暇かけて“治療”を試みるまでもなく〈同性愛者〉に対して《異性を愛すること》を要求・期待する行為が可能であるというだけの話だ。

よってフロイトが「同性愛」の“犯罪化”および“治療”に反対していたという事実は「同性愛者って異常でしょ?」「本当の愛じゃないんでしょ?」などのヘイトスピーチに対する反証とはなりえない。その意味で【同性愛者を異常とみなしたい人々】が「フロイトの理論」を《同性愛者を異常とみな》す行為に“利用”することは、むしろ理に適っていると言える(が、前提が間違っているので正しい結論は導かれない)。むしろフロイトの言辞を“利用”しながら真逆の(自分に都合の良い)帰結を導く牧村の主張こそが矛盾と欺瞞に満ち満ちているのである。

そも21世紀を生きる私たちが、前世紀の差別思想に立脚したフロイトの権威にすがる必然性は、まったくない。

人間のセクシュアリティを論じる上で重要なのは、性的指向に変化があるか否かといった“可能性”ではなく、自らの人生をどのように設計していくかという“主体性”の問題に他ならない。

参考資料:
中野明徳『S.フロイトの性欲論(pdf)