「レズビアン」は“時代遅れ”?〜牧村朝子×きゅんくんの「cakes」対談に寄せて

(2018年3月31日 加筆修正)

「 性」もそれ以外も、自分をカテゴライズしないと決めてる理由/牧村朝子×きゅんくん【前編】|QREATOR AGENT
https://cakes.mu/posts/17550
 
あえて「私はレズビアン」って言わない
 
きゅんくん 自分のことシスジェンダー(出生時に診断された性と自認する性が一致している)だとは思っていないんですけど、だからといってトランスジェンダーでもないんですよね。中学生の時は悩んでいました。
でもその頃に、カテゴライズすると疲れちゃうからやめようって思ったんです。そこからふわふわテキトーに、カテゴライズせずにいます。自認はバイセクシュアルなのですが、近頃は「セクシャルフルイディティ(※2)」も、もしかして自分に近いのかな、なんて思ったりもします。
そうすると性別があるとか、ジェンダーで社会が構成されているっていうのがあんまり気持ちよくなくて。
 
※2:LGBTの4種類のどの型にも当てはまらない新しい性のあり方とされる。別名「セクシャルフルイド」とも呼ばれており、好きになる相手の性別が水のように流動的で定まらずに、その時々の相手によって変わることから来ている。ハリウッド俳優ジョニー・デップの娘、リリー・ローズがカミングアウトしたことでも知られる。
 
牧村 60代くらいのアメリカの活動家の方とお話した時に、「最近の若い子はレズビアンって言わない」とおっしゃっていたのが印象的でした。その方の若い頃は、「私はレズビアン」「私はゲイ」ってカッチリ区別するような感じだった。「私はレズビアン」って名乗ることがかっこいいことだったって。でも今の若い子はなんだかそうやってガチッと言わない。そういうのを「クィアー(queer)」っていうのよねって。
 
(中略)queerも、日本語で「クィアー」って言ってしまうと、カテゴリの名称になってしまうけど、英語だと形容詞的に使えるじゃない。「I’m queer」って言っても「私ってクィアーな人なの」って響きで、「私はクィアーです」というカテゴリ帰属宣言には聞こえなかったりする。

本来は《変態》を意味する差別語・侮蔑語であった「クィアー(queer)」という言葉が、牧村が言うポジティブな“響き”に転じたのはなぜか。それはまさしく「クィア理論」「クィア運動」といった政治的イデオロギーの影響である。

「理論」だの「運動」だのというと小難しく見えてしまうけれど、ようするに性的マイノリティに向けられる《変態》という差別語・侮蔑語に対して「当事者」自らが《変態》で何が悪い! と開き直る“逆張り”の発想である。もっとも牧村が言うように「私ってクィアーな人なの」「私はクィアーです」と自認・自称するのはいいとして、たんに非異性愛者ないし非シスジェンダーであるというだけの人を指して「おまえはクィアー(変態)だ」と言い放つのは「ヘイトスピーチ」そのものであるから注意が必要だ。

なお本文中には注釈としてレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの各語の頭文字に、最近はクィアー(queer)も加わり表現されるようになった。》との記述があるが、不適切な説明である。「LGBTQ」の「Q」とは「クエスチョニング(Questioning)」、すなわち性自認性的指向を規定しない(明確にしない)人々を指す言葉だ。

翻ってクィアQueer)」とは「クィア理論」および「クィア運動」と称する政治的イデオロギーに立脚した観念であり、自らその語を用いるということは、すなわち自身が「クィア理論」「クィア運動」の支持者・加担者であることを意味する。

しかし一方で「Questioning」と「Queer」の頭文字が共に「Q」で始まることから、さらにはクィア理論」において《セクシュアリティ流動性》が人間本来のあるべき姿として理想化されていることから、実質的に両者がしばしば同一視されているのも事実である。「セクシャルフルイディティ」とは聞き慣れない言葉だが、《セクシュアリティ流動性》を人間本来のあるべき姿として規定する「クィア理論」においては、やはり「クィア」と同一視されるのであろう。

さて「クィア」すなわち《セクシュアリティ流動性》が人間本来のあるべき姿であるというクィア理論」に則るのであれば、〈男/女〉の《性別》をセクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)として自己規定する「レズビアン」は、まさに「人間」ではないということになる。

その「クィア運動」の日本国内における最前線として、例年開催されているのが「関西クィア映画祭」であり、その2014年度の宣言文において「レズビアン」のセクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)を一方的に否定する「ヘイトスピーチ」が行われていたのは、すでに当ブログで提起したとおりである。映画祭は今年も開催されるが、実行委員会は件の宣言文について何ら撤回も自己批判も行っておらず、昨年は事情を知らない海外のレズビアン活動家を招いて“箔付け”に利用するなどしている。

「関西クィア映画祭2014」問題 まとめ
http://d.hatena.ne.jp/herfinalchapter/30141220

そのような「クィア運動」を無批判に称揚する上掲の対談記事においても、わざわざ中見出しで強調しているとおり、「関西クィア映画祭」と同様に「レズビアン」が槍玉に上げられている。これはかつて牧村が「レズビアン・タレント」を称していた(あるいはそのようにメディアで扱われていた)ことに起因するのだろうが、いずれにしてもこの記事からは「レズビアン」について、時代遅れで凝り固まったネガティブなイメージしか伝わってこない。

《あえて「私はレズビアン」って言わない》ことが“かっこいい”のだとすれば、「わたしはレズビアンだ」というアイデンティティを対外的に表明する「レズビアン当事者」は“カッコ悪い”ということになる。やれセクシャルフルイディティだのクィアだのとカタカナの“かっこいい”単語を羅列しながら、けっきょくのところ牧村朝子と「きゅんくん」は、「レズビアン」に対する偏見と蔑視に凝り固まった「レズボフォビア(レズビアン嫌悪)」を汚物のごとく垂れ流しているにすぎない。

この記事を読んで、私があらためて確認したことは、やはり「レズビアン」はいつの時代においてもマイノリティ(少数派)である、という単純な事実である。

《「私はレズビアン」って名乗ることがかっこいいことだった》という「頃」があったとしても、「レズビアン当事者」のコミュニティという特殊な状況下においては、そのようなこともありうるだろうといったていどの話でしかない。異性愛至上主義を基盤とする一般社会において「レズビアン」が〈マジョリティ〉に“成り上がる”などということは、百合マンガの世界でもないかぎり想定にすら値しない夢物語の類である(そも百合マンガの多くに「レズビアン」という概念は登場しないが)。

「関西クィア映画祭」の宣言文が示すとおり、「わたしはレズビアンだ」という素朴なアイデンティティ表明すらも頭ごなしに否定される実情の中で、あえて「レズビアン」のアイデンティティを選択――元より、これは「性的指向」の選択・変更が可能であるか否かといった議論とは別次元の事柄である――すること自体に必要以上の覚悟と決意が強いられているのは、容易に推察できよう。

もっとも一方で現状は〈マイノリティ〉に甘んじながらも〈マジョリティ〉に“成り上がる”可能性を内包したセクシュアリティも存在する。それが《男性を愛する可能性》に“開かれて”いる「セクシャルフルイディティ」だ。

しかしいずれにせよ、レズビアン」がマイノリティであるなら、なおのことマイノリティとして尊重されるべきであるということになるはずだ。しかしどういうわけだか「セクシャルフルイディティ」とやらが人間本来のあるべき姿で、「レズビアン」は間違っている、といった話になってしまうのが解せない。

クィア理論」によらずとも《セクシュアリティ流動性》を提唱する人は少なくない。だが、それは多くの人が生涯の中で〈異性〉のみを愛し、〈異性〉のみとSEXし、〈異性〉のみと結婚して、なおかつそのことに何の不自由も感じないまま人生を終えるという厳然たる事実から、まったく目を背けている。少なくとも〈異性愛者〉のアイデンティティを有する人が〈同性〉を愛せないことについて悩み苛まれるなど「当事者」である私自身の実感と照らし合わせてもまずありえない。

そのような〈異性愛者/非異性愛者〉間の明確な社会的・政治的力関係の差異を度外視したまま《セクシュアリティ流動性》などとぶちあげたところで異性愛者=セクシュアル・マジョリティ〉には何ら響かず、〈非異性愛者=セクシュアル・マイノリティ〉が「異性愛至上主義(ヘテロセクシズム)」と「クィア主義」の“挟み撃ち”を受けてさらに圧迫される状況に貢献するのみである。

とくにアメリカでは「ポリティカル・コレクトネス」の普及により、頭ごなしに同性愛を否定することがはばかられる状況となった。が、そのせいで「レズビアン(同性愛者)」を矯正して「異性愛者(非異性愛者)」に“治療”すべきだという「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」の考え方から、レズビアン(同性愛者)」をやめる必要はないから「バイセクシュアル(両性愛者)」を目指すべきだ、という「バイセクシズム(両性愛至上主義)」に時代の流れが変化しつつある。

この無邪気なレズボフォビア(言うまでもないが、かつて牧村が「レズビアン当事者」を名乗っていたことは何の反証にもなりはしない)に根差した対談は、まさに私の憂鬱な仮説を裏打ちする格好の材料だ。

もっとも「きゅんくん」の言葉にある通り「セクシャルフルイディティ」は「バイセクシュアル」と同義ではない。だが問題は概念・用語の辞書的な定義ではなく、レズビアン(非異性愛者)」に対して《男性(または非女性)を愛する可能性》に“開かれる”あり方を要求・期待する思想にある。

そのようなバイセクシズム(両性愛至上主義)」は、けっきょくのところ「ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)」が形骸化された「ポリティカル・コレクトネス」やアカデミズム(クィア理論)の後ろ盾を得て、より巧妙に形を変えたにすぎない。

なお、私は「レズビアン」に関して一貫したスタンスを取っている。

(1)女性が女性を好きになるのに「レズビアン」に“なる”必要はない。
(2)「レズビアン」でないなら男性を愛するべきということにもならない。
(3)一方で「わたしはレズビアンだ」と表明する人がいるならそれはそれとして尊重されるべき。
https://twitter.com/herfinalchapter/status/877010655986958336

だが牧村と「きゅんくん」は、これに賛同しないであろう。正確には、(1)と(2)は比較的受け入れられやすいものであろうけれど、私がほんとうに言いたいことは(3)なのだ。

「関西クィア映画祭」は件の宣言文の中で、少数派の中に少数派を作ってはならない、とも言っていた。だが、それは少数派が少数派のままで尊重され、その主体性(アイデンティティ)が保障される権利を奪うものでしかない。

レズビアン」のセクシュアル・アイデンティティ(性的主体性)を時代遅れなものと決めつけ、「セクシャルフルイディティ(=セクシュアリティ流動性)」を人間本来のあるべき姿すなわち「クィア」として称揚するこの対談記事は、まさに少数派(非異性愛者)を多数派(異性愛者)に矯正する、言うなれば社会的規模の「ゲイ治療」を促すものに他ならない。