森奈津子は「性的じゃない女性同士の関係性」を否定なんかしていない #百合展2018

 

  

今月に開催を予定されていたヴィレッジヴァンガード主催の「百合展2018」が中止になったことを受け(※来月に会場を替えて延期)、バイセクシュアル当事者の女性ポルノ作家・森奈津子Twitter上で発した声明の中から《百合が性的?……当たり前だよ。百合は女性同士の性愛だ。性的に決まってるだろ。》という部分だけが、レズビアン差別主義者・濱公葉によって恣意的に切り出され、あたかも森が、女性同士の精神的な結びつきを否定して「百合」を《性的な要素》だけに矮小化しているかのような「ヘイトデマ」が横行する事態となっている。

 

だが上掲した森の発言は、ようするに女性同士の関係性における「恋愛(=非性的)」と「性愛(=性的)」の線引きは、そのじつあいまいで恣意的なものだという話をしているにすぎない。女性同士の精神的な結びつきを否定しているわけでは、まったくない。

 

ただ、そのような森の主張は、森の思想的背景(いわゆる文脈)を理解しないことには、たしかにわかりづらいのかもしれない。

 

かつて森は、現在の「コミック百合姫」の前身にあたるマガジン・マガジンの「百合姉妹」という雑誌の中で『酒とユリの日々』というコラムを連載していた(ちなみに「百合姉妹」は5号で廃刊となり、一迅社に移行して「コミック百合姫」として再出発してからは、その10号まで『森奈津子の百合道場』という人生相談の連載をもっていた)。

 

百合姉妹」5号(2004年8月号)の中に、このような記述がある(P141 ※強調は引用者)。

 

 近年、小説や映画などの創作物に関しては、「百合物」と「レズビアン物」は別のジャンルとして語られる傾向にある。つまり、精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」なのだという。
 しかし、現実のレズビアンバイセクシュアル女性も含む)は、通常、百合的な心理も経験しているものだ。百合姉妹」の読者にも大勢のレズビアンがいることを、私は知っている。
 それだけに「リアルなレズビアン物よりも、百合というファンタジーを楽しみたい」という、主に男性による意見を聞くと、奇妙な印象を受けるのだ。
 男性が女性同士の精神的交流の美学を理解してくれることは、非常にうれしい。実際、私も、男友達と百合談義に花を咲かせることもある。百合の美学を語りあえる異性の同志の存在は、心強く思う。
 しかし、彼らが「百合はファンタジー」など主張しはじめると、私は首をかしげてしまうのだ。「じゃあ、百合を考案したのは、あなたたち男性なのか? 百合はあなたたち男性のために創られたのか?」と、意地悪な質問をしたくなるのである。
 百合は決して、男性による男性のためのファンタジーではない。古くから女性同士がひそやかにはぐくんできた愛の形なのだ。(中略)
 どうか、百合を「ファンタジー」の一言で語らないでほしい。あなたの身近なところでひそやかに展開されているかもしれない一つの美しいドラマとして、愛していただきたい。


濱公葉が依拠する《精神的なものが「百合物」で、肉体関係を伴うものが「レズビアン物」》なる二元論は、皮肉にも森自らが今から14年も前に提示したものであった。裏を返せば濱公葉の「百合」に対する認識は14年前の時点(当時は『マリみて』ブームが終息しつつあった頃)から一歩も進んでいないことになる。
 
繰り返すが「百合」が女性同士の《精神的交流の美学》だけでなく《肉体関係を伴う》ことが珍しくなくなった今日において「レズビアン物」という用語は時代遅れで、もはやアダルトビデオでしか用いられなくなった(正確に言うとAVにおいてさえ「レズ物」という表記が一般的で「レズビアン物」という座りの悪い呼び方はほとんどされない)。

 

とはいえ「百合萌え」を表明する者の中にも濱公葉のように《「精神的な同性愛」は認めるが「肉体的同性愛」は許さない》《「百合」はキレイだから好きだけど「レズ」は汚いから嫌い》という異性愛至上主義とレズボフォビア(レズビアン嫌悪)に基づく「百合観」を臆面もなく開陳する差別主義者(断っておくと森が言うように男性だけの問題ではなく女性ファンの中にも少なくない)が混じっていることも事実である。

 

これも繰り返しになるけれど、かく言う森奈津子自身は異性愛至上主義が形を変えた「両性愛至上主義者」にすぎない。また前回は話がややこしくなるのであえて軽く流したが、かねてから森はTwitter上でフェミニストレイシスト・カウンター(いわゆる「レイシストをしばき隊」界隈)に対して独自の勝手な思い込みに基づく誹謗中傷やデマを繰り返してきた(じつのところ発端のツイートの動機も、そうしたフェミニスト・バッシングの一環である)。そのような森奈津子というロートルの作家をオピニオン・リーダーのように祭り上げるつもりは毛頭ない。

 

ただ上掲した森の訴えは、14年の時を経てもなお、未だ普遍性をもっていると言える。むろん、それは喜ぶべき事態ではない。

 

森の「百合小説」は古臭くて読むに堪えないが、いつの日か上掲した森の訴えもまた「なにを当たり前のことを」と一笑に付される時が来てほしいと、男性の百合ファンである私は願ってやまないのである。