『立花館To Lieあんぐる』を「キモい」と言いつつ『聲の形』を推す「まなざしかぶとむし(kabutoyama_taro)」の見苦しさ

(2018年10月19日 加筆修正)

merryhachi『立花館To Lieあんぐる』は一迅社の百合漫画専門誌「コミック百合姫」の連載作品であり、4月からTOKYO MXにてアニメ版が放映されている。百合マンガの中でもわりと“性的”な要素の強い作品で、謳い文句にある「ラッキースケベ」「ハーレム」といった、従来は男女物のラブコメディに特有とされてきた趣向を女性キャラクター同士の恋愛関係に置き換えるという実験的な試みが注目を集めている。きわどい下ネタやお色気シーンを絡めながら、いずれも寸止めにとどまるためポルノグラフィ(成人向けコミック)には分類されない。

コミックスは現時点で第6巻まで出ており、PCゲームやドラマCDなどの付録によるお得感も手伝って百合ファンの間では知名度の高い作品であるけれど、世間一般にまで浸透しているとは言い難い。しかるに上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」も、いわゆる「百合物」であることを含めた作品自体の特性を踏まえたものではなく、たんに「萌え絵」というだけで脊椎反射した結果と解釈できなくもない。

だが「萌え絵」だから「キモい」という理屈は筋が通らない。なぜならまなざしかぶとむしが推していた『聲の形』にも「萌え絵」が採用されており、とくにヒロイン【硝子】の内股でヒョコヒョコと歩くなよなよとした仕草やはにかんだ表情、非現実的なピンク色の髪などは、まさにステレオタイプな「萌えキャラ」のテンプレートを踏襲したものであるからだ。加えて寡黙(重度の聴覚障害者なのだから当然だが)で何を考えているかわからない神秘的な人物造形は、一昔前の言葉でいうなら典型的な「綾波系」であり、男性異性愛者の庇護欲と表裏一体の加虐嗜好を煽り立てる効果を上げている。

また『聲の形』は作品のテーマとして障害の他にイジメ問題も絡めており、被害者である【硝子】が加害者であった主人公の少年【将也】と恋愛関係に至るという御都合主義的な筋書きから、Twitter上で「感動ポルノ」であるという批判がなされていた。

しかし一方で、作品に心酔する「信者」たちが、作品について批判的な意見や感想を述べる者を過剰に敵視し、感情的な罵倒や吊し上げといったネットリンチに興じていたのも事実であり、まなざしかぶとむしもそうした「信者」の一人である。 

聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか|Togetter 

 https://togetter.com/li/1027520

かく言う私もまた、一連の論争で「感動ポルノ」という言葉を用いたことで「信者」から誹謗中傷を受けた。ただしそれは作品自体の評論・批判を目的としたものではなく、むしろ「信者」たちに対しての“皮肉”“嫌味”“当てこすり”として述べたまでだ。

イジメをテーマにしたマンガに感動しただの心洗われただのと称する者たちが、自分と異なる考え方や価値観をもつ者に対して、まさしく「イジメ」を行っているのはまったく皮肉としか言い様がないし、そうした有様こそまさしく「キモオタ」そのものではないか。

ちなみに、そのような『聲の形』の「ファン」を通り越した、幼稚で傍迷惑な「信者」を指して、私は「聲豚」という言葉を造り、一般の「ファン」から区別している。

少し脱線したが、ようするに「萌え絵」も「感動ポルノ」もそれ自体がジャンルとして確立されているはずもなく、そも明確な定義すら存在しない。ゆえに立花館To Lieあんぐる』の「萌え=キモさ」をあげつらうまなざしかぶとむしが、一方で『聲の形』の「萌え=キモさ」には目を瞑り、あげく擁護の論陣まで張るという見苦しいダブルスタンダードが横行する事態となる。

なお例によって、まなざしかぶとむしによる一連の暴言・暴論を「オタク差別」に牽強付会する向きもあるようだが、そうしたアクロバティックな論法を持ち出すまでもなく、そも「性」の表現自体を一概に有害と決めつけて公共の場から排除しようとする発想自体が、《生殖》に結びつかない「性」のありようを否定する異性愛至上主義に立脚したものであり、まさしく「性差別」以外の何物でもない。

その意味で、まなざしかぶとむしが「萌え絵」全体を攻撃するという体を装いながらも、そのじつ女性同士の恋愛を表現する『立花館To Lieあんぐる』を選択的に攻撃する一方で男女の恋愛を表現する『聲の形』を贔屓するという非対称は、まさしく「セックスフォビア(性嫌悪)」が「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」と同根の異性愛至上主義に依拠した感性である事実を、図らずも裏付ける証左と言えるかもしれない。

前回のエントリーでも述べたとおり「萌え」と「エロ(性的要素)」を同一視する発想がまず粗雑かつ短絡的であるし、また「萌え絵」それ自体はたんなるマンガの絵柄の流行にすぎず、なんら価値判断の対象となりうるものではない。また「性的嗜好」の中には小児性愛(ロリペド)やリョナ(エログロ)のように性差別・性暴力の構造と密接な関係にあるケースも含まれているが、かといって《性的嗜好=性差別・性暴力》であるなどと短絡することもできない。

もっともポルノグラフィにおいては、ユーザーの「性的嗜好」に応じた多様なジャンルが用意されている一方、性差別的・性暴力的な内容のものとそうでないものが明確に区別されているわけではなく、したがってゾーニングに際してはやむをえず一律的に対応せざるをえないのが現状である(よって私自身は、なにもポルノのあらゆる規制を撤廃せよと唱えているわけではなく、またコンビニにエロ本が置かれているような状況をよしとする者でもないことを付言しておく)。

しかし言うまでもなく「ポルノ」とカテゴライズされる作品でなくとも性差別的・性暴力的な内容のものは巷に氾濫しており、またそれらはポルノグラフィでないがゆえにゾーニングもできない。よって嫌なら見るなというお決まりの理屈も通用しない。

その意味で、仮に特定の「萌えマンガ」が狭義の「ポルノ」ではないとしても、そのこと自体が作品の“健全性”を示す何らの根拠にもなりえない。だが、そこへきて「萌え絵」だけを執拗にあげつらう態度は、「萌え絵」というわかりやすい記号がスケープゴートとされることによって、けっきょくのところ「萌え文化」に属さない一般作品における性差別・性暴力の表現が免罪されるという逆説を生み出すに留まるだろう。

それでも「萌え」が「性的消費」の構造と結びつくというのであれば、「キモい」などという「暴言」「悪口」こそ「イジメ」の構造に結びつく。「性欲」という感情の表明・表現が“性的”であるという理由で抑圧されるべきであるというなら、「キモい」という感情もまた“暴力的”であるから抑圧されるべきではないのか。

あるいは“暴力的”であるという理由でむやみに表現を否定するべきでないなら、たんに“性的”であるというだけの理由で表現を規制するべきでもない。

しかし、いずれにしても『立花館To Lieあんぐる』には一般的な意味での性差別・性暴力に相当する描写はいっさい登場しない(ゆえに、そこでフィクションの「百合」が現実の「レズビアン」への「性的消費」であるといった無理筋の屁理屈が必要とされることになる)。

しいて言えば、少し前に少年コミック誌のラブコメ漫画をきっかけにフェミニストの間で「ラッキースケベ」なる趣向の“暴力性”が取り沙汰されたこともあったけれど、上掲したまなざしかぶとむしの「暴言」にそのようないわゆるPC(ポリコレ)的論点はいっさいなく、ただ「萌え絵」であるがゆえに「キモい」とする論理もへったくれもない原始的な感情が吐露されているだけである。

ところであるていどネットの知識に長けた人には周知の事実であるが、ネット上の広告は、アドツールがユーザーの関心を分析した上で個別に応じた情報を自動表示するように出来ている。すなわち「萌え絵」を嫌悪するまなざしかぶとむしのTLに「萌え広告」が流れてくるのは、まさしく「萌え絵」に執着するまなざしかぶとむしの世界観を反映しているにすぎない。

そのような「萌えオタク」の一人でしかないまなざしかぶとむしだが、(かつて私が「聲豚」という言葉を造ったように)一方で「萌え豚」という語彙を用いることで「萌えオタク」の他者化および自己特権化を図るのである。

ところで萌え豚という語だが、この種の問題絡みでオタクという語を使うのは無駄と逃げの元なのでもうやめることを提案したい。 そもそもパブリックエネミーであるというか批判の対象となりうるのは鉄オタでもミリオタでもなければはたまたアニメオタク一般ですらなく、単に萌え豚なのだから。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/993502811571740672

(註「萌え豚」という用語の定義について)最もコンパクトには、「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現愛好を通じて社会的コンフリクトを起こしている人たち」でいいんじゃないでしょうかね。
https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/994198304912064513

しかし 「二次元(漫画・アニメ)の女性(とりわけ少女)表現」をめぐって「社会的コンフリクト」を起こすということであれば、まさにマンガの性差別表現を告発・批判するフェミニストなどにも当てはまるだろう。

そも「差別」の定義すら周知されていない現代社会においては、むしろ「社会的コンフリクト」は「差別」を告発・批判する側によってもたらされると言ってもいい。そこへきて「社会的コンフリクト」を起こす人々の存在自体を「パブリックエネミー」と位置づけるまなざしかぶとむしの議論は、むしろ性差別表現に対する告発・批判の無効化ないし萎縮に繋がる可能性が高い。

また先ごろの「百合展」に対してフェミニストの多くが、それこそ《特にこれといって反対の形を取らなかった》ことを鑑みても、「二次元の女性表現」およびそれを“愛好”するユーザーの存在自体を「パブリックエネミー」と規定するまなざしかぶとむしの議論は、じつのところフェミニズムを始めとした昨今の反差別をめぐる議論においてもまったく共有されていない「暴論」でしかない事実を、ここで確認しておく必要がある。

だいたい世間の大多数は「萌え絵」ごときにいちいち目くじらを立てたりしないし、仮に目の前を流れてきたところで何の印象も感情もないまま通り過ぎていくだけであろう。

  • もちろん「萌え絵」を苦手とする一般人もいるだろうが、たんにオタッキーなノリが受け付けないというだけであって、そうした生理的な感覚を《女性差別》だの《性的消費》だのにこじつけたりはしない。(2018年10月19日 追記)

そこをいくと「萌え絵」に異様な敵愾心を示し、あまつさえその自己正当化に当たって「イジメ」まで容認しだす(※前回のエントリーを参照)まなざしかぶとむしもまた、しょせんは裏返しの「萌え豚」なのだ。

そんなまなざしかぶとむしが「萌え絵」を露悪的にバッシングするのは、ひとえにそのような言動によって溜飲を下げる「萌えフォビア」「セックスフォビア」の連中の歓心を買うための自己アピールでしかない。

だが、そうした浅ましいまなざしかぶとむしの被承認欲求のために皺寄せを受けるのは、まさに性的アイデンティティの表明・表現を“性的”であるという理由でマジョリティから抑圧され、さらにはそのような「性差別」に対する告発も“暴力的”であるとして無効化される「性的マイノリティ」に他ならないのだ。