「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはない~『あさがおと加瀬さん。』をめぐるホモフォビア言説の表出

(2018年6月8日 追記)

原作を読んだ際の印象について訊かれた高橋は「オーディションを受けるときに原作を拝読したんですが、百合作品と聞いていましたが、読み終わったあとは、人と人との恋愛ですごく素敵な話だなと感じました」と語った。

あさがおと加瀬さん。』、6月9日公開!完成披露上映会を開催|マイナビニュース
https://news.mynavi.jp/article/20180518-632434/

同性愛を題材にした作品が話題になるたび、メディア上で《これは同性愛ではなく、普遍的な「人間愛」を描いたものだ》といった類の陳腐な言説が溢れ返る事態に、私はほとほと嫌気がさしている。

なおアニメの中で「百合ップル」を演じた高橋未奈美佐倉綾音は後日、バイセクシュアルを公表している女性アイドルの最上もかと鼎談を行ったが、その中でも高橋と佐倉は次のような発言をしている。

高橋 女の子同士の恋愛だったなってことを忘れさせてくれるくらい普通に恋をしてて。私、少女マンガが大好きなんですが、百合も同じ恋愛マンガなんだなって気付かされましたね。

佐倉 すごくわかります。彼女たちって普通に恋をしているんですよね。相手が女の子とか関係なく。(攻略)

高橋 私も友達に女の子同士のカップルがいたので、違和感みたいなものはないですね。「実は付き合ってるんだ」って言われて、普通に「おめでとう!」って。それに人を好きになるって、その人のことを好きになるってことだと思うので、性別とか関係ないのかなって思いますし。ただ幸せになってほしいなと思うだけですね。

佐倉 (前略)これぐらいの年代の女の子って恋と友情って曖昧じゃないですか? 友達に対しての距離感とか。

 劇場OVAあさがおと加瀬さん。」特集、高橋未奈美 × 佐倉綾音 × 最上もが座談会&フォトギャラリー|「ただまっすぐに恋してる」女子高生同士の恋愛を女性3人はどう観る?
https://natalie.mu/comic/pp/asagaotokasesan02

 《「性別」ではなく「その人」を好きになるのだ》《「友情」と「恋愛感情」の間には明確な線引きなどない》といったクリシェ(決まり文句)も、主に異性愛者が「同性愛(者)」に“理解”を示す上で用いられるものだ。加えて《私も友達に女の子同士のカップルがいた》などと身の回りの「当時者」をダシにして自分に差別意識がないことをアピールするのは《俺には黒人の友達がいる(I have black frends)》と呼ばれる古典的なレトリックである。

しかし「性別(女性であること)」もまた「その人」のアイデンティティの一つであるのに、その事実をありのままに受け止めようとしない時点で、けっきょくは「同性愛(女性同士の「恋愛」の成立)」を否定していることに変わりはないのだ。

その意味で《恋と友情って曖昧》と解釈すること――ましてそれを「これぐらいの年代の女の子」に特化・限定することは、『あさがおと加瀬さん。』に表現される女性同士の「恋愛」を「友情(非恋愛)」で希釈し、将来的には《真性恋愛》と規定される「異性愛」に至るまでの《擬似恋愛》に貶める意味をもつ。

そも女性キャラクターのみで人間関係がほぼ完結する、明らかに「女性」というジェンダーアイデンティティを前提として人為的に構築された世界観で《性別とか関係ない》などといわれても、しらじらしいだけである。

また「女性」のジェンダーアイデンティティをめぐっては、最上が次のような発言をしている。

最上 僕、最近すごく実感したのが、やっぱり男性と女性って違う生き物なんだなって。もう脳が違うというか、思考回路が全然違う。なんというか、根本的に理解できないことってあると思うんですよね。女の子同士のほうが理解し合えることって多いですよ。

佐倉 女性ならではの経験ってありますもんね。そういう部分を最初から共有できているというのは大きいかもしれない。

高橋 男だからとか女だから、みたいな言い訳もできないし。

佐倉 性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違いって話ですからね。そこまで突き詰めて考えられるのも、百合作品というか同性同士ならではだなと思います。

最上はバイセクシュアル当事者の立場から《男性と女性って違う生き物》《女の子同士のほうが理解し合える》として男女の性差を強調しているのに対し、非当事者である高橋はその流れを無視してまったく無関係に《男だからとか女だから、みたいな言い訳もできない》と横槍を入れ、それを佐倉が《性別の違いとかじゃなくて、もっと本質的な問題というか、人間として考え方や価値観の違い》と追認する。

鼎談を通して和やかな雰囲気でありながら、そのじつ会話として成り立っておらず、「当時者」の言葉を理解しようともしない「非当事者」の頑なな姿勢が伝わってくる。そも《人間としての考え方や価値観》とは何だろうか?

 もっともその意味では、仮に《女性ならではの考え方や価値観》が存在するとしても、それはすべての「女性」が“共有”できる「考え方や価値観」ではなく、まして女性同士であるからといって誰もが“理解し合える”わけではないという非情な現実を、この噛み合わない会話が図らずも示していると言える。

そも、これが男女の恋愛を表現する作品であれば、異性を愛することと「その人」を愛することの両立を、多くの人は自明のものとして受け入れる。ところが女性同士(あるいは男同士)の関係性になったとたん、本来であれば自明であるはずの「性別」と「人間」の結びつきがなしくずしに解体されてしまうのである。

女性同士の恋愛の表現について、男女の恋愛を表現する《少女マンガと同じ普通の恋》であるとうそぶきながら、そういう当人たちこそが「百合」に対して男女の恋愛と異なる“異常”な扱いをしているという論理矛盾が浮き彫りとなっている。

* * *

いちおうお断りしておくと、こうした「ホモフォビア(同性愛者嫌悪)」は原作の『加瀬さん。』シリーズの世界観や表現とは何の関係もなく、読者・観客や評論家、アニメの出演者などといった外野から一方的にもたらされる解釈である。

さらに言えば、なにもオタクカルチャー(百合/BL)に限定した話ですらない。じじつ同年四月末に日本でも公開され、男性の同性愛を美しく描いた作品として高い評価を受けた洋画『君の名前で僕を呼んで』でも、ルカ・グァダニーノ監督自ら次のような見解を表明している。

「この物語の続きについてはまだあまり話したくありません。ただひとつ言えることは、私は自分にレッテルを貼らないということ。それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じです。だから『君の名前で僕を呼んで』はゲイ・ロマンスの話ではないと思っています。それは断固として拒否します。君の名前で僕を呼んで』は、ある青年が大人への第一歩を踏み出す物語です。青年は独自の方法で欲望を満たしていく。彼の欲望はあまりにも強く純粋で、本人も周りもそれを受け入れている。だからゲイ・ロマンスの話ではない。ここで語っているのは“欲望”についてであり、それは社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけることはできないものなのです」

君の名前で僕を呼んでルカ・グァダニーノ監督インタビュー|i-D
https://i-d.vice.com/jp/article/vbxk4d/luca-guadagnino-call-me-by-your-name-director-interview

 作品のテーマや登場人物のセクシュアリティを表すのに「百合」や「ゲイ・ロマンス」といった語彙を用いることが“レッテル貼り”に繋がるという発想は、じつのところ現実の人間に対して「同性愛(者)」という言葉を用いてはならず、一人の「人間」として扱うべきだという、まさしく“政治的”なイデオロギーに立脚する。その意味で、むしろ監督こそ「彼の欲望」を《社会的や歴史的に、あるいは社会の思想で定義づけ》ていると言える。

元より「同性愛」とは、たとえばわたしは〈女性〉であるという自認をもつキャラクターが、他の〈女性〉に恋愛感情ないし性欲を抱いた場合に成立する“関係性”であり、その意味ではたしかに“欲望”それ自体を表す概念ではない。

「同性愛」という“関係性”と、恋愛感情ないし性欲という“欲望”は、それぞれ別次元の事象であるが、しかしだからこそ両立するのである。「ゲイ・ロマンス」なるものが《あまりにも強く純粋な欲望》を表現することができないというのは、それこそ監督自身の「ゲイ・ロマンス」さらには「ゲイ」という存在自体に対する偏見と蔑視の表明にすぎない。

あるいは「ゲイ・ロマンス」に対する偏見と蔑視が、そのじつ「ゲイ」という存在に対する偏見と蔑視の敷衍に他ならない事実は、監督自身が《それは登場人物にも対しても、誰に対しても同じ》であるとして愚直に証明しており、したがって「ゲイ・ロマンス」に対する否定的感情が現実の「ゲイ当事者」に向けられたものではないという(日本国内では主として「BL/腐女子」へのバッシングの正当化に用いられる)屁理屈も通用しない。

そも「同性愛」だって人間の愛の形であることに変わりはないにもかかわらず、「同性愛」と「人間愛」をあたかも排他的な二項対立の関係性に設定する前提自体がおかしいのだ。

あるいは『あさがおと加瀬さん。』を通して、そのような当たり前の真実に目覚めたというなら、ようはそれまで同性愛者をまともに人間として扱わず、化け物じみた《変態》と決めつけていたことの証左であろう。

せめてそのようなホモフォビア(同性愛者嫌悪)を少しでも反省するのかと思いきや、けっきょくは自分とたまたま波長の合った特定の作品を「百合作品」の定義から手前勝手に分断し、「百合作品」および「同性愛(者)」に対する自分自身の凝り固まった偏見と蔑視をさらに強化してしまう。

* * *

もっとも《百合作品と聞いていましたが(中略)人と人との恋愛》といった物言いは一つのクリシェ(決まり文句)でしかなく、考えなしの発言であっても、とくに《同性愛者差別》を目的としたものではないとする見方もあるだろう。まさに、それ自体がヘイトスピーチの正当化を目的としたクリシェでしかないのだけれど、次の発言を見るかぎりでは、少なくともその根底に根深いホモフォビア(同性愛者嫌悪)が存在する事実は疑いようもないのではないか。

作品の魅力について、高橋は「この映画を、デートムービーとして見てもらいたい。百合作品を観るのではなく、デートをする時に観る映画としてお勧めしたい」と言うと、佐倉は「相当良い雰囲気になってしまいますからね!」と便乗し、木戸も「付き合いますよ!」とアピールした。

佐倉綾音、男性だらけの客席へ人生初のブーケトス 狙った女子高生に届かず謝罪 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2111596/full/

百合作品がヒットしたとたん「百合作品」であること自体を否定されるというパラドックスは、かつては『マリア様がみてる』や『青い花』、近年では『やがて君になる』に対しても見受けられた現象である。

ある作品が「百合」と解釈ないし分類されることによって間口が狭まることになり、「百合」に興味のない“一般の”観客を遠ざけてしまうというのが否定派の言い分だ。

しかし、それこそ「百合」が嫌悪されるべきものであるという当人のホモフォビアを露呈しているにすぎない。マジョリティである男女のラブロマンスなど古今東西ありふれているのだから、女性同士の恋愛にかえって興味を覚えるという人だっているだろう。“普遍的”であるといえば聞こえはいいが、裏を返せばありきたりで型にはまった退屈な作品であるという見方もできる。

元より、そのことと女性同士の恋愛およびその表現に《変態》というレッテルを貼りつけることは別問題である。「ノーマル/アブノーマル」の枠組みはたんなる価値判断ではなく、人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定する異性愛至上主義の政治的イデオロギーに他ならないからだ。

じつのところ、特定の作品を「百合」と解釈ないし分類すること自体が、作品の可能性を狭めるのではない。「百合」を一方的に嫌悪されるべきものと決めつけた上で、解釈の可能性から体良く切り捨てようとする当人の差別意識こそが、逆に「百合作品」および「同性愛(者)」に卑小な“枠”を押しつけている。

言うなれば“枠”は「百合作品」および「同性愛(者)」の側にあるのではなく、当人の差別意識の内側にこそ存在するのだ。

そも恋愛というプライベートな関係性において“普遍性”なる観点を持ち込むことにいったい何の価値があるだろうか? 愛の形は“普遍的”であるどころか、性的な事柄を含めて当人たちにしかわからない作法やこだわりが千差万別に存在するはずだ。

さらに言えば恋愛に“普遍性”を要求する思考は、まさしく人間のセクシュアリティの本質を《生殖》に規定した上で(あるいは人間のセクシュアリティに「本質(※「本能」とも呼ばれる)」が存在するという思い込みに立脚した上で)、《生殖》に結びつかないセクシュアリティを《変態》として排除・抑圧する異性愛至上主義の最たるものだ。

とはいえ現実社会において「同性愛者」の存在がマイノリティである以上、同性愛をテーマにした娯楽フィクションもやはりマイノリティとならざるをえないのかもしれない。表現という行為がアニメや映画といった商業メディアと密接に結びついている以上、収益が見込めない(売れない、カネにならない)コンテンツは価値がないという烙印を押されてしまう。

しかし観客の間口を狭めるのがいけないというなら、たとえばバスケットボールをテーマにした『スラムダンク』はバスケのルールを知らなければ楽しめないので、バスケに興味のない観客やスポーツが嫌いな観客の存在をあらかじめ排除していることになる。それにもかかわらず「百合作品」に対してだけ文句をつけるのは、やはり女性同士の恋愛(同性愛)が本質的に嫌悪されるべき《変態》であるというホモフォビア(同性愛者嫌悪)を前提としているためであろう。

あまつさえ『あさがおと加瀬さん。』を《百合作品“ではなく”デートムービーと言い張るに至っては、もはや“間口”うんぬんさえ口実にすぎず、自身の出演作に対して自身の嫌悪する「百合(同性愛)」の解釈を認めたくないというエゴイスティックな差別意識があからさまだ。かねてよりアニメ業界においては若い女性の声優をアイドル視する風潮があるけれど(おそらく本稿も、そのような「信者たち」によって“炎上”させられることは間違いない)、主演とはいえいち出演者にすぎない声優に、なぜ作品のテーマ性や世界観を規定(あるいは否定)してしまえるほどの権限が委ねられているのか、いち観客にすぎない私にはさっぱりわからない。 

追記 『コードギアス』『無限のリヴァイアス』『プラネテス』などを手掛けたアニメ監督の谷口悟朗が「週プレNEWS」内でアニメ業界の“幼児性”を指摘している。谷口によると、今や女性声優はアイドル化されているためシビアなアドバイスもできず(ダメ出しされると気分が落ち込んでその後のイベント出演などに差し障りがあるため、事務所が抗議してくるのだとか)、「セックス」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるのだという。
アニメ映画『あさがおと加瀬さん。』には原作どおり女性キャラクター同士の「セックス」のシーンは出てこないものの、同様に「百合」という言葉を使うことについても「なぜかはばかられる雰囲気」があるようだ。とくに高橋未奈美 の一連の発言からは「百合作品」に出演することが自身の「アイドル」としてのイメージダウンにつながりかねないという忌避感と、その“幼稚性”が如実に表れている。

幼稚性はここまできた…「コードギアス」監督がアニメ業界に警鐘http://wpb.shueisha.co.jp/2018/06/07/105837/

それにしても「百合作品」の解釈を頭ごなしに否定しながら、その代わりに出てくるのが「デートムービー」とは……あまりにも唐突で、どのような理路に基づいてそのような解釈が飛び出てきたのか記事を読んでもちんぷんかんぷんだが、さも特定の恋愛関係にあるパートナーのいない人はこの映画を楽しむ資格がないと言い放つに等しく、じつに排他的で“間口を狭める”発言である。

誰と映画を観ようと、あるいは一人で観に来ようと人の勝手ではないか。いや、それ以前にどのような映画の観方をしようと観客の自由であって、いち出演者である声優に私たち観客が指図される筋合いはないはずだ。

なお、当日のイベントでは高橋ら出演声優による「ブーケトス」も行われたとのことだが、この趣向もいただけない。

上掲した彼女たちの発言、そして何よりも日本国内において未だ同性婚が法制化されていない現状を鑑みれば、「女の子に結婚してほしい」といってもその相手はあらかじめ〈異性(男性)〉に限定されていて、〈同性(女性)〉との結婚など想定すらされていないのだろう。わざわざ百合作品の映画を観に来たのに、そのような異性愛至上主義を押しつけられたのではたまったものではない。