「男のレズビアン」を擁護する牧村朝子氏の論点ずらし(+百合魔王オッシーの牧村朝子氏に対する所感)

「男のレズビアンをめぐる前回の記事の続きである。

「男のレズビアン」は男性によるレズビアンアイデンティティの簒奪にすぎない - 有限ノ未来 limited future

そも牧村朝子氏が自身のブログで「男のレズビアン」について取り上げたのは、先月の下旬にTwitter上で「男のレズビアン」が話題になったのを受けてのことである(私のTLにも流れてきたが、議論を追っていないので発端はわからない)。

しかし牧村氏の記事は、じつのところ巧妙に論点をずらしている。

記事のタイトルには『胸のうちでそっと「ぼくはレズビアンなのかも」と思う男性たち』とある。だが当然ながら「男のレズビアン」が物議を醸しだしたのは、それを《胸のうちでそっと思う》にとどめず、SNS上で公言する人物が存在したからである。

言い換えるなら「男のレズビアン」なる観念の是非をめぐる議論は、次の二点に集約される。

・「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非

・「男のレズビアン」なる観念の社会的認知・承認についての是非

《「男のレズビアン」なる観念そのものについての是非》はさておき《胸のうちでそっと思う》ことまで否定するのは、さすがに内心の自由の侵害であると考える人も多いだろう。しかし前述のとおり内心の自由を認めることは、その思想や嗜好自体の正当性をまったく意味しない。

また上掲した二点はゆるやかに独立しながらも、「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得るにあたってはその正当性を証し立てる必要があるのだから、じつのところ論点は一つという見方もできる。

ところが牧村氏は、そこへ《胸のうちでそっと思う》ことの是非というまったく無関係な第三の論点を勝手に持ち出してきた。

言い換えるなら、牧村氏は「男のレズビアン」の不当性を主張する人々が、さも内心の自由まで否定しているかのように印象操作しているのである。

内心の自由をめぐっても是非はあるだろうが、たとえ差別的・暴力的な思想や嗜好であろうと《胸のうちでそっと思う》かぎりは問題ない、というか周りの知ったことではないので勝手にすればいいとする見方が一般的だろう。つまり牧村氏は「男のレズビアン」を擁護するにあたり、そのように否定されようのない事柄を盾にすることで「男のレズビアン」を擁護する牧村氏自身を否定されようのない立場に置き、第三者の批判をあらかじめ退けようとしているのである。

ようするに牧村氏にとって「男のレズビアン」自体の正当性すらそのじつどうでもよく、たんに牧村氏自身の承認欲求を満たすために「男のレズビアン」を“ダシにしている”にすぎないのだ。

このような牧村氏の論点ずらしは「男のレズビアン」に否定的な人々に対してはもちろん、当の「男のレズビアン」にとってもきわめて不誠実と言わざるをえない。なぜならば「男のレズビアン」自体の正当性を証し立てないかぎり「男のレズビアン」は内心の範疇に制限され、社会的な認知・承認まで得ることはありえないからだ。つまり牧村氏の議論は「男のレズビアン」を擁護しているかのように見せかけて、そのじつ当の牧村氏自身の承認欲求を満たすことにしか役に立たない。

男性が「レズビアン」を名乗ること、つまり《胸のうちでそっと思う》にとどめず社会的認知・承認までも要求する行為は、言い換えるならレズビアン女性」に対して、男性である自分を「レズビアン」として認めろ、受け容れろと迫る行為だ。これによって「レズビアン女性」は「男のレズビアン」を受容しないかぎり、「男のレズビアン」を“差別”する差別者として糾弾・恫喝に晒される事態に陥る。

だが本来は女性のジェンダーアイデンティティに基づく概念である「レズビアン」を男性が名乗ることは、まさしく男性によるレズビアンアイデンティティの侵犯であり、簒奪に他ならない。ゆえにそれはけっきょくのところ、男性異性愛者が「レズビアン女性」に性欲を向けることの受容を当の「レズビアン女性」に求めることと本質的に変わらない。

繰り返すが、男性が女性を愛することが「異性愛」である以上、シスジェンダー男性の性自認に基づく「男のレズビアン」が「同性愛者」として“差別”されることなどありえない。つまり「男のレズビアン」なる語義矛盾を肯定するのであれば、同性愛者嫌悪と異性愛至上主義に基づく《レズビアン差別》の構造について告発・批判することが不可能となる。

ゆえに「男のレズビアン」が社会的認知・承認を得たところで「レズビアン女性」の社会的認知・承認には何ら繋がらない。否、それどころかレズビアン」のありようが「異性愛者」に都合良く定義されることにより、ひいては「レズビアン」に対して「男のレズビアン」を含めた〈男性(異性)〉との恋愛ないしSEXを要求・期待する行為が正当化される事態を抑止することもできない。

* * *

さて当ブログではこれまで、上に見たような牧村朝子氏による巧妙かつ陰険な「レズビアン・バッシング」の事例の数々について折に触れて検証してきた。

しかし誤解しないでいただきたいが、私はなにも牧村氏の揚げ足を取るために牧村氏の言動を逐次チェックしているわけではない。牧村氏のマスメディアにおける発言は、Twitter上のリツイート機能で流れてきた記事をたまたま目にするだけであり、そして目にした記事の大半は、まさしく上に見たようなフワフワ・キラキラとした文体を装いながらそのじつ「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見を撒き散らすものばかり、というのが実情なのだ。

周知のとおり牧村朝子氏は、かつて「レズビアン・タレント」という肩書でマスメディアに登場していた人物である。だが、現在は「レズビアン」と名乗ることをやめている(ついでに芸能事務所も辞めているので「タレント」と呼べるかも微妙である)。牧村氏によると、自分で自分に「レズビアン」などのレッテルを貼ることで、自分自身の可能性を閉ざしてしまうというのがその理由なのだそうだ。レズビアンアイデンティティの獲得を“レッテル貼り”などと決めつけること自体が、まさしく「レズビアン」に対する深刻な蔑視と偏見に他ならないのだけれど、牧村氏がどのようなセクシュアリティをもとうと私の知ったことではない。

翻って私は、ハンドルネームに明らかであるとおり百合作品を嗜好する男性異性愛者である。そのような立場の者が「レズビアン当事者(では現在の牧村氏はないのだが)」の言説を批判することは、男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニングである、などと見なされなかねない。

だが牧村氏の一連の言説はいずれも、これまで見てきたとおり(また上掲の記事にも明らかなとおり)印象操作や論点ずらしなどのごく初歩的な詭弁術を駆使したものであり、その論理的誤謬を指摘するにあたって男女の性差を持ち出す必要はないはずだ。

げんに牧村氏自身、「レズビアン」を名乗っていた頃から自分は「レズビアン」である以前に「人間」なのだ、という話をよくしていた。そも「人間」のアイデンティティである「レズビアン」を、わざわざ「人間」と二項対立に置くこともありがちな詭弁であるが、いくらセクシュアリティが自己申告であるとはいえ、自分に都合の良い時だけ「レズビアン」としての当事者性を持ち出すのは論者としての誠実さを自ら貶めるに等しい。

「(元)レズビアン当事者」としての立場から「レズビアン」を論じる牧村氏の言説が、なぜこうも常に“外して”しまうのかといえば、けっきょくのところ牧村氏には《レズビアン差別》を批判するという意識がなく、ただ「(元)タレント」として、マジョリティである異性愛者(非同性愛者)に都合の良い言葉を忖度する習性が身についているためであろう。

そも牧村氏に言わせると、差別主義者を罵倒・嘲笑することは「差別する人たちを差別する」「ホモフォビアフォビア」になるというのだから、もはや《レズビアン差別》を批判する以前の問題であり、むしろ牧村朝子氏は実質的に《レズビアン差別》を容認する立場の人物と捉えて差し支えない。

「差別する人たちを差別する」というレトリック自体の“差別性”〜牧村朝子『百合のリアル』(5) - 有限ノ未来 limited future

だから牧村氏には「レズビアン」の主体性(アイデンティティ)を尊重する意識もなく、「レズビアン」が男性を愛することは“可能”であるかとか、男性が「レズビアン」になることは“可能”であるかといった、じつに非人間的な「可能性基準」の思考に陥ってしまうのである。

いずれにしても牧村氏が「(元)レズビアン当事者」であることを理由に、自身の「レズビアン」に対する蔑視と偏見の告発・批判を免れるのであれば――あるいは私が「百合萌え」の男性異性愛者であることを理由に、牧村氏の言説の差別性に対する告発・批判が無効化されるのであれば、それは《レズビアン差別》を容認する体の良い口実にすぎない。

だから私が牧村朝子氏を批判することが《男性異性愛者(しかも「百合萌え」)による「レズビアン」へのパターナリズムでありマンスプレイニング》であるように見えるとしても、それは錯覚であり皮相な印象批判でしかない。

が、それでも人情として印象が良くなることに越したことはない。そこで、当ブログの人名表記は原則として敬称略であるが、本記事以降、牧村朝子「氏」にかぎっては、例外的に敬称を付けることにした次第である。

追記 以上のとおり、私は「男のレズビアン」に対して否定的な見解をもつ男であるが、その私がTwitter上で「百合魔王」を自称していることについて論理矛盾と捉える向きもあるかもしれない。

しかし、そも「百合」は「レズビアン」を指す言葉ではない。正確にいうと、七〇年代後半にゲイ雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學が《ゲイ=薔薇族》に対応して作った「レズビアン」の呼称は百合族である。

二一世紀の今日、「百合」という呼称はもっぱらマンガなどのオタク・カルチャーにおいて、女性キャラクター同士の恋愛を描く作品を示すものとして用いられ、新宿二丁目などの「レズビアン当事者」のコミュニティを指す「Lカルチャー」とは一線を画している。げんに百合作品の多くに「レズビアン(のアイデンティティを有する女性)」のキャラクターは登場しない。

また「Lカルチャー」が「レズビアン当事者」の当事者性に根差す文化であるのに対し、「百合」という表現自体は「女性」のジェンダーに立脚しながら、百合作品の作者および消費者は〈男/女〉双方にまたがっていて、明確に“誰のもの”と規定することはできない。

一部では「女性向けの百合」「男性向けの百合」などと線引きしようとする向きもあるけれど、そも百合作家の多くはペンネームを用いており性別すら不明である中で、そのような二項対立的分類は非実際的かつ無効であり、ようは自分の気に食わない「百合」の表現に“男性向け”とレッテルを貼って排除したいというユーザーのエゴイズムにすぎない。

話は逸れたが、いずれにしても「百合」は「レズビアン当事者」の当事者性とは無関係であり、ゆえに“レズビアンのもの”ではない以上、男性である私が「百合魔王」を称することは《レズビアンアイデンティティの簒奪》にはなりえないのである。

「魔王」とは偉そうだ、何様だ、という批判はあろうけれど、ファンタジーやRPGの世界では「魔王」という職業(?)自体が「男性」のジェンダーとして認知されており、男性が「百合魔王」を名乗ることはあくまでも「男の百合萌え」以上の意味をもたないと私は考えている。