現実社会の「倫理」を乗り越える、藤本タツキ『妹の姉』の“主眼”と“目線”

藤本タツキ『妹の姉』少年ジャンプ+(2019年5月2日配信)

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この漫画のシチュエーション――妹が姉のヌードを無断で絵の題材にし、しかもそれが賞を獲り学校に掲示される――が、けしからん(あるいは、たんにキモい)、と批判を浴びているらしい。

私は、フィクションであれば何をどのように表現しようが問題ない、という立場を取る者ではない。たしかにこの作品が、実際に起こった出来事を元にしたものであるならば――じじつ否定的意見の大半は、フィクションの表現を現実世界に置き換えたもので、いつのまにか仮定が事実に摩り替っている――、それをこのようにして美談に仕立て上げる一面的な表現は批判の対象になりうるだろう。

しかし、この作品はそうではない。むしろ姉妹二人の愛憎入り混じった、閉じられた関係性を描くことに主眼があるのではないだろうか。

そしてそのような人間関係を描く上で、上述のシチュエーションは、現実社会における何かのトレースではなく、二人の「精神世界」「心象風景」を投影・象徴したものと解釈するのが妥当だろう。それがあまりにも現実離れした、過剰で荒唐無稽な表現――あまりに現実離れしすぎていて、実現化する可能性はゼロに等しく、よって批判者が懸念する現実への影響も考えにくい――になっているのは、まさしく少女二人の、自意識を持て余した若者の目線をとおして表現されているからだ。

たとえば、この作品には姉妹の他に、クラスメートや先生、親や親戚などの第三者が登場する。興味深いのは、それらの脇役が、実質的には姉のほうにしか干渉してこないことだ。

姉は、自己のアイデンティティである絵の才覚によって周囲から認められることを内心望んでいながら、後追いの妹に先を越され、しかもよりによってその妹の作品を機に、不本意ながらも周囲の注目を集めることになる。

こうした筋書きを読み解いていくと、そのような周囲の存在は完全な他者というより、姉自身のコンプレックスと二律背反を成す、屈折した承認欲求を具象化したものと捉えられる。

すなわち、そうした外野の存在は、作中においてあくまでもギミックでしかない。妹の目には、崇拝にも近い憧れの対象である姉の存在しか映っていないし、また姉も当初は周囲の視線に悩まされながら、最終的には妹を直視することで、やがて自身の心の壁をも乗り越えていく。

言うなれば『妹の姉』は、一つの作品世界をフルに費やした壮大な姉妹喧嘩であり、そして「姉妹百合」なのだ。

  • あるいは、芥川の『地獄変』やデミアン・チャゼル監督の映画『セッション』などにも通底する、表現者としての止むに止まれぬ「業」を描いた作品であるとも解釈できる。

そのような独特の表現を、杓子定規に現実社会の「倫理」に当てはめた上で、頭ごなしに“糾弾”することが、マンガを読み解く上で正しい「評論」と言えるだろうか。

  • あるいは、本作に対する私の「評論」を、私が過去に批判した作品に当てはめて、それらの評価を覆そうと試みることもまた“杓子定規”である――と釘を刺しておこう。

むかし流行った『空想科学読本』のように、フィクションの表現を現実に当てはめたらどうなるか……と無粋な突っ込みを入れながら読むのも楽しいかもしれないが、それが作品の「批判」「糾弾」に直結してしまうのだとしたら、つまらないことだ。

繰り返すが、フィクション作品に社会性・政治性を見出すのはいい。しかし、そうした社会性・政治性を乗り越えた先に、マンガという表現の可能性と面白さがあることまた、事実である。

P.S.
『妹の姉』フィーバーの陰で埋もれている感があるけれど、その二日後(5月4日)に同じく「少年ジャンプ+」で公開された新浜けいすけ『あなたのようになりたかった』も、ウェルメイドで感動的な百合作品。SFだが難解な印象はなく、クセがないのでこちらはストレートにお薦めできる。